さて,8月に入りペストの勢いはものすごいものとなります。

 死者数はこんな感じです。

 

                  病死者    疫病起因

8月 8日~ 8月15日    5,319    3,880

8月15日~ 8月22日    5,568    4,237

8月22日~ 8月29日    7,496    6,102

8月29日~ 9月 5日    8,252    6,988

9月 5日~ 9月12日    7,690    6,544

9月12日~ 9月19日    8,297    7,165

9月19日~ 9月26日    6,460    5,533

9月26日~10月 3日    5,720    4,929

10月3日~10月10日    5,068    4,327

 

 これだけの人がロンドン市で亡くなりました。ちなみに,6月10日~6月16日までのアメリカでのコロナウイルスでの死亡者数の合計が4,553人なので,これを上回る数の死者がこの当時のロンドンに発生していました。ちなみに,デフォーは郊外で野垂れ死んだ人などはここにカウントされていないと述べています。

 

 9月初旬が最も病勢が強く,ペストがロンドン西部から東部に拡大していった時期となります。デフォーの住んでいるロンドン東部オールドゲート教区でも,一家全員が死亡するのはザラで,1週間で1000人以上の死亡者を出したと述べています。

 

 遺体をロンドン市中から境界墓地に運び出す死体運搬人や墓掘り人は,死体を扱う職業柄,続々亡くなっていきました。そうなると,欠員を埋める必要が出てきますが,当時のロンドンには失業者があぶれていて,彼らはどんな仕事でも引き受けましたので,なんとか遺体を埋葬し続けることができました。デフォーはこういった仕事の差配を行った市当局を讃えていますが,現代ではとても褒められたものじゃありません。貧民ほど死亡率が高いという原因の一つにこういった危険な仕事を斡旋したことが挙げられるからです。

 

 デフォーは,こうも言っています。

 

 8月の中頃から10月の中頃にかけて猛烈な勢いで荒れ狂ったペストが,その間に,およそ3万から4万の貧乏人の生命を奪ったのである。もし,それだけの者が生き残っていたら,それこそ,とことんまで窮迫していただろうし,そうなれば彼らが耐え難い重荷になったことは明らかであった。ロンドン全市がかかっても彼らの生計をみてやったり,食物を与えてやることなどは,とてもできなかっただろう。それに,彼らが生きていくためには,否が応でもやがては市および近郊で掠奪を働かざるをえなくなることも当然考えられることであった。・・・

 

 死体運搬人や墓掘り人のほか,先に述べた閉鎖家屋の監視人や付添看護婦なども,危険な仕事でしたが,当時の失業対策として貧しい人々にあてがわれていました。

 

 

 

 デフォーが,2週間の引きこもり生活に耐えきれず,街に出歩いた際の出来事です。駅舎の中で財布が落ちていました。財布はかれこれ1時間放置されていたようですが,落とし主は取りに来ず,誰も危険を犯してまでこの財布を盗もうとはしなかったようです。そこに2人の男がいて,これをくすねようとしています。

 

 ・・・そしてつかつかと家の中にはいっていって,水のいっぱい入っている手桶を持ってきた。見ていると,水を財布のところにあけて,また家の中に入っていき,火薬を少しばかり持ち出してきた。火薬は財布の上にいっぱい撒き散らされ,更にそこから導火線がおよそ2ヤードほども引かれた。ところで再びその男は家の中に入ってゆき,おそらくこのために用意していたらしい真っ赤に焼けた火箸を一揃い持ってきた。導火線に火がつけられると,やがて火薬は爆発し,財布はまっ黒焦げに焦げてしまい,一帯の空気も濛々たる煙で手頃に消毒された。ところがそれでもまだその男は飽き足らないとみえ,焼けた火箸で財布が焼けただれるまではさみあげていた。

 

 落ちた財布が路上に1時間も放置されているのは当時のロンドンでは異常なことなのでしょう。よく日本の治安の良さを外国人が褒めるのに,置き忘れた財布や携帯電話がそのままその場においてあった,あるいは警察に届けてあった,というのがありますが,現代でも海外では路上に置き忘れた財布は盗まれるのがデフォルトなんでしょうかね。

 

 それにしても,すごい手の混んだ消毒です。火薬で爆破というのは,前の記述でもありましたが,ペストの感染は臭気によってもたらされるというように信じられていたため,火で焼いて消毒するという意味もあるのでしょうが,硝煙で匂いを消し飛ばすという意味合いもあったのだと思われます。

 

 現代日本では考えられませんが,当時のヨーロッパでは各家庭に火薬がおいてあったのでしょう。ピストルを所持している人も多かったのかな? ヨーロッパで行われた決闘は,白手袋を相手に投げつけるのが決闘の合図で,互いに剣を抜いて戦うというようなイメージが有りましたが,決闘の得物は中世も後半になるとピストルが主流であったと聞いたことがあります。まぁ,銃刀法のようなものは当時なかったでしょうし,生きる糧として狩猟も行われていたでしょうから,庶民がピストルを持っていてもそれほど不思議はないのですが。

 

 この例から分かるとおり,人々は路上のものに触れるのも相当おっかなびっくりになっていたようです。例えば,駅馬車も,前に乗った乗客がペスト感染者である可能性が拭えず,それどころか患者を避病院につれていく役割も駅馬車が担っていたことから,これに乗るのは相当勇気のいる行為だったようです。日本でもコロナウイルスの流行初期では,タクシー運転手や,観光バスの運転手やガイドさんが感染していましたが,当時も公共の乗り物は感染リスクの高いものと認識されていました。

 

 

 

 デフォーは,テムズ川河畔を散歩し,そこで船頭をしている男と出会います。彼の妻子はペストに感染し家で隔離状態,彼は船上で寝泊まりをしているようでした。当時,テムズ川に浮かべた船の上に避難生活をしている貴族もいたようで,その船頭は彼らに生活物資を供給する仕事をしていました。船頭は,自身がペストに感染しないよう細心の注意をはらい,陸に上がるときもロンドンではなく,グリニッジなどで船を降り,一軒家の農家などから物資を調達していました。家族とも遠くから大声で呼びかけるというような有様です。

 

 こうした船上生活をしている人々は相当の数に上り,デフォーが丘の上からみたところ,少なくとも数百隻の帆船が停泊していたと述べています。