前回では,恐怖のどん底に落ちた一般庶民が狂人と化し,また魔法使いや占い師などに救いを求めたことをお話しました。

 ちょうど,今日(2020年6月15日),こんなニュースを見かけました。

 

 コロナ不安で占い師を頼る人が増える米国 25%売上伸びた人も

 

 

 時代は変わっても,人間の心性はそうすぐには変わらないという良い事例かと思います。

 

 デフォーは,恐怖に陥った庶民に対する詐欺の手口としてもっとひどい事例を紹介しています。

 

 これに劣らず一般大衆の狂気ぶりを遺憾なく発揮したのは,彼らがいかさま医者や香具師や怪しげな薬を売っている老婆の後を追っかけ廻して,いろいろな薬品を手に入れようと狂奔したあのざまであった。 ・・・ 一方,家の門柱や町角などにはおびただしい医者の広告やいかさま師の張り紙が貼ってあったが,これなどは見たことのない人にはいくら説明してもわかるまいと思う。 ・・・ 大体は次のような美辞麗句が掲げられてあった。たとえば,『疫病予防丸薬,効能確実』,『伝染病予防薬,効目絶対保証』,『空気汚染に対する妙薬』,・・・

 

 ということで,悪徳医師が効目の怪しい偽薬を高値で売り歩いていた様子が書かれています。当時のヨーロッパでは医者の資格なんかはあったのでしょうか,この記述を見ていると特段規制されているような様子は見受けられないから,誰もが医師を名乗ることができたのでしょう。

 

 医薬品の宣伝PRについては,現代日本の厚労省が見たら発狂しそうな効能表示ですね(笑)。コロナウィルスの流行しはじめた頃,日本でも薬局でコロナウイルスに対する効能を謳った漢方薬を売ったとして逮捕された人がいましたね。

 

 当時のニュース記事はこちら

 

 薬事法に引っかかるような悪質性はないにしても,新型コロナ等の流行感染病がはやると納豆・キムチ・バナナが予防に有効などともてはやされる傾向にありますね。

 

 病気よけの御札のようなものも大流行したようです。デフォーは,悪徳医師の偽薬販売については売る側が悪いと言ってますが,この迷信については買った側にも相当の落ち度があると断罪しています。やっぱりデフォーは職業がジャーナリストということもあり,啓蒙思想家的なポジションなんでしょう。

 

 どのようなものが流行ったか。

 

 疫病を避けようと思えば,十字切りや十二宮の図や縁結びにした紙切れさえ持っていれば絶対にかからないともいわれた。そしてそのうえに特定の言葉なり意匠なり,とくに『ABRACADABRA』という言葉を三角形もしくはピラミッド形に描いたものが効き目があるとされていた。

 

 いわゆる「アブラカタブラ・・・」のおなじみの呪文ですが,お守りはこんな意匠のようです。(画像はWikipediaより拝借)

 アブラカダブラ - Wikipedia

 ローマ皇帝カラカラの侍医が,上図のお守りを身につけるよう勧めたのが初出のようです。語義は不明ですが,一説では,アラム語で「この言葉のように消え去れ」という意味があり,つまりは「痛いの痛いの飛んでけ」の意なのではないかと。

 

 病気に対して,呪符で身を守ろうとするのは古今東西どこでも行われている民間信仰です。

 日本でも,疱瘡絵が有名ですね。(以下は,歌川国芳作の疱瘡絵)

 

 

 疱瘡絵の題材は金太郎だったり,桃太郎だったり,ダルマだったり,源為朝だったりしますが,共通点は赤い色で書くというもので,これは疱瘡の発疹が赤色であれば予後が良く,黒だと重症化すると言われていたからです。赤/黒の違いは病気の違いに由来するんじゃないでしょうかねー,赤だと致死率が低く黒だと致死率が高い,というような。誰か詳しい人教えて下さい。

 

 

 

 敬虔なキリスト教徒は,ペストに対しどのように生きたのでしょうか?

 

 いやしくもキリスト教徒にふさわしい魂の所有者であれば,絶望のうちにまさに死に臨もうとしている多くの者の苦悶の声を聞いて,悲痛な思いに心を打たれないものはなかったろう。しかも,誰一人として彼らを慰めようとあえて近づく者もなかった。大声を上げて強盗を告白する者も,人殺しを告白する者もあった。だが誰ひとりとしてその話に耳を傾けてやる者もなかった。 ・・・ はじめのうちこそ病める者を訪問する牧師もなくはなかった。しかし,まもなく,そんなことも行われなくなった。というのは,そういう家に行くということは,直ちに死を意味したからであった。 ・・・ たいがい,そんな家は全家族の者が一瞬にして死んだところとか,名状できないほど惨状を呈しているところであった。

 

 キリスト教徒は,臨終の際に自身が生前に犯した罪を司祭に告白しますが,これを告解といいます。司祭に罪を告白すれば,その罪は赦され,晴れて天国にいけるというわけです。でも,彼らのもとに司祭は来ません。ペストでまもなく死を迎える患者のもとに司祭が最後の告白を聞きにいけば,自分も天に召される可能性が高いことから,聖職者はだれも信徒のところを訪れません。そうして,罪の告白ができず,許しを得られぬまま地獄に落ちていく,そのような絶望の中で死を迎えたのです。

 

 今回のコロナ禍においても,こうした事例はキリスト教国で多分にあったことでしょう。