Part 6 では,迷信により恐怖を増大する人々の様子を,啓蒙思想家的立場からデフォーは憐憫の情で描き出したことを紹介しました。

 

 では,デフォーは当時のロンドン市民に救いを提供すべきキリスト教会についてどのように見ていたのでしょう。

 まずは,1665年当時のイギリスの宗教事情を振り返りましょう。少々長いですがお付き合いください。

 

 時代はさかのぼり,1534年,イギリスのヘンリー8世はもともと熱心なカトリック教徒でしたが,スペイン・アラゴン家から嫁いできたキャサリン妃との間に嫡子が生まれず,そうこうしているうちに宮廷侍女のアン・ブーリンと恋仲になっていきます。ヘンリー8世はキャサリン妃との離婚を決意しますが,結婚は神との契約で離婚するにはローマ教皇の許しが必要でした。

 

 ヘンリー8世の離婚申請をローマ教皇が却下すると,ヘンリー8世は国王を唯一最高の首長とする英国国教会を立ち上げ,ローマカトリック教会から独立してしまいます。その次の英国王エドワード6世も基本的に英国国教会の独立性強化・教義の確立に取り組みます。イングランドの庶民が国教会を受け入れたのは,ローマ教会がイングランドでおこなった富の収奪に対する反発もありました。

 

 その次の王様,メアリー1世はあのキャサリン妃の娘です。彼女はスペインのフェリペ2世と結婚,カトリックの復興に取り組みます。そこで彼女が行ったのは異端者である非カトリック教徒に対する弾圧です。そのために,国民からは不人気で,「血のメアリー(ブラッディ・メアリー)」というあだ名を付けられます。いまでもトマトジュースとウォッカで作るカクテルの名称で残ってますね。

 そしてメアリー1世の跡を継いだのは,エリザベス1世です。彼女は,アン・ブーリンの娘です。彼女は再び英国国教会を復活させます。

 

 エリザベス1世は結婚せずに亡くなったため,次の王様はスコットランド王・ステュアート家からジェームズ1世を迎えます。

 スコットランドはカルヴァン派プロテスタントの長老派が強く,アイルランドはカトリックが主流でした。そして,ジェームズ1世は即位時にカトリックを排除することとし,更にその後は国教会を強制しスコットランドの長老派とイングランド内のピューリタンを弾圧していきます。なお,この時代(1620年)に弾圧されたピューリタンのピルグリム=ファーザーズがアメリカ大陸に渡りニューイングランドを建設します。

 

 その後,チャールズ1世が即位しても相変わらず議会無視の政治が続き,ついにピューリタン革命が勃発します。1642年のことです。

 革命当時の議会において,多数派は長老派でした。長老派はチャールズ1世を生かしたまま立憲君主制に移行することを志向してましたが,王政を廃止し共和制樹立を目指すピューリタンのクロムウェルによって議会から追放されてしまいます。

 

 クロムウェルの晩年にはピューリタン革命にも行き詰まりが見え,王政復古の機運が高まっていました。クロムウェル没後,長老派は英国国教会の王党派と組んでチャールズ1世の息子であるチャールズ2世を王に迎えます。彼は亡命先のフランスでカトリックに改宗しています。王政復古は1660年の出来事でした。

 

 さて,話が長くなってしまいましたが,1665年当時のロンドンは,王政復古により復活した英国国教会,カルヴァン派プロテスタントの一派である長老派がいて,クロムウェル失脚で勢いは失われましたがピューリタンもいて,国王自身はカトリックというように,複数のキリスト教宗派が同居している状況でした。非国教派は集会開催を認められず,政府当局から弾圧を受け始めていました。

 

 しかし悪疫の流行は,たとえ一時的であったにせよ,この両者を融和せしめたのであった。すなわち,非国教派のもっとも優れた牧師,説教者の多数の者が,悪疫の流行に耐えきれないで聖職者の逃げ出した英国国教会派の各教会に自由に出入りすることが許されたのである。市民も,相手が誰であろうと,どういう信条の人であろうと,大して気にもとめないで,誰彼の区別なく彼らの説教を聞きにあつまってきたものであった。しかし,これも束の間で,病気が過ぎ去ってしまうとこの友愛の精神も同時に冷めてどの国教会派の教会も専任の牧師が帰ってきたり,新たに補充されたりするにつけて,事態は元通りになってしまった。

 

 結局,宗派対立は,ペスト流行時には休戦協定(というか英国国教会の牧師が職場をほったらかして逃げ出した)が結ばれていたが,ペストが去ってみるとまた互いに争い合うような状況だったようです。歴史をたどれば,この後,チャールズ2世によるカトリック復興と他宗派の弾圧が始まります。

 

 

 

 では,ペスト禍のロンドンで,キリスト教の牧師は何を信者に語りかけていたのでしょうか。

 

 ・・・ 何も一派一宗に限られたことでなく,あらゆる宗派にわたってそうなのであったが,これらの牧師たちは,根が善良なるにもかかわらず,その話すことは常に恐怖に満ち,不気味な話題にあふれていた。会衆は身震いするような恐ろしさにかられては教会に集まり,牧師たちの悪しき音信を聞いては,涙にかきくれて散会していった。牧師たちは会衆の心に,死の心配を嫌というほど叩き込み,その恐怖心をかきたてこそすれ,神に向かって恵みを求めることを教えようとはしなかった。

 

 デフォーは,聖職者たるものイエスの教えを伝え,改悛を促し,信徒が神の恩寵に与れるよう教え導くべき,と考えていました。たぶん,Part5で紹介したキプリアヌスの説教のようなものを期待したのではないかと想像します。

 しかし,現実に牧師たちが行った説教は疫病の恐怖を煽るだけであった。デフォーは,人々の不安を煽ったキリスト教の牧師が人々を迷信の世界に放り込んだ犯人であると考えました。

 

 そして,占い師や妖術使いのたぐいが,自宅のドアに看板を堂々と掲げて商売をするようになります。この怪しげな看板は「ベイコン修道士の真鍮の頭像」であったり,「シプトン魔女」だったり,「魔法師マーリン」だったようです。

 

 魔法師マーリンはアーサー王伝説に出てくる魔法使いで,シプトン魔女はいわゆる予知能力をもっていたようで前述のヘンリー8世の修道院弾圧やアン・ブーリンとの結婚,ジェームズ1世の即位なども的中させたと言われており,相当の人気があったようです。

 

 ロジャー・ベーコンは13世紀の哲学者で,おもにイスラム世界に受け継がれたアリストテレスの思想を研究,講義では実験などの科学的手法を取り入れたことから近代科学の先駆者と位置づけられています。後年は,アラブ思想を広めた件で幽閉されてしまいます。あまりにも先進的な思想は魔術的なものに見えたのでしょうか,17世紀イギリスで魔術の象徴としてベーコンの頭像が用いられるのは面白いですね。本来的な意味での啓蒙思想家なはずですが,デフォーにはこのことはどう映ったのでしょうか。

 

 

 

 ロンドンの一般庶民は,占い業者に何を尋ねたのでしょうか。

 

 これらの連中(女中奉公人・メイドさん)の尋ねごとというのは,いつも決まって最初は,「疫病は起こるのでしょうか」というのであった。そしてその次は,「先生,私が一体,どうなるかおっしゃっていただけないでしょうか。私は,このまま奥様のところに置いていただけるのでしょうか,それともお払い箱になるんでしょうか。奥様はこのままロンドンにお残りになるのでしょうか。それとも田舎にお逃げになるのでしょうか。もし田舎にお逃げになるのでしたら,私を連れて行ってくださるのでしょうかしら,それとも私を置き去りにして,野垂れ死にさせようってんでしょうか」というのだった。

 

 ペストのときに最も大きなダメージを被ったのはメイドさんたちでした。彼女らは占い師が「大丈夫,ご主人さまがあなたを田舎に連れてお逃げになるから心配しないで」とでも言ったのでしょう,それを信じた彼女らはペストによる失業に対し何の準備もせず解雇され,路頭に迷うことになりました,待ち受けるのは死のみです。