本書3~4ページ分くらいの紹介でブログ記事1本書いてるから,なかなか読み進まないな(笑)

 もともと読むのが遅い方ですが,精緻に読んでくとやっぱり時間かかりますね。

 

 1665年にロンドンで大流行したペストは,はじめロンドン西部で始まり,徐々に東地区に感染域を広げていきました。

 当初は,シティやテムズ川南岸には感染が広がっていませんでしたが徐々に病死者も増えだします。

 

 7月半ばの死亡週報では,ロンドン全体で死者は1268名。平常時の死者数が240~300名程度なので,疫病によるものは900名以上と推計されます。この翌週には,1761人に死者は増加します。

 

 考えてみるとこの死亡者数はすごい数です。

 日本におけるコロナウィルスの死者数は6月13日までの累計で924名なので,たかだか1週間の間にこの規模の死者がロンドンの西部地区に集中的に発生したことになります。

 

 さて,このとき英国王室はどうなっていたか。

 

 市民たちがこうやってロンドンから出てゆき始めたとき,自然,宮廷もはやばやと移転ということになった。すなわち,6月に移り,そしてやがてオックスフォードに落ち着いたのである。神の思し召しによるとみえ,宮廷人たちは皆ここで無事に災禍を免れることができた。・・・ 大変失礼な言い分かもしれないが,実を言えば,宮廷人の非道な所業がこの恐るべき天罰を全国民の頭上に招くのに与って大いに力があったとも言えるのだ。ただ,彼らは耳を覆ってこのことを聞こうとはしなかったのである。

 

 ロンドン市民を見捨てて,王様とその取り巻き連中はとっとと郊外に逃げちゃったようです。デフォーのいう「宮廷人の非道な所業」が何かは,後段で説明します。

 

 ペストの流行はロンドン市民に大きな悲しみをもたらしました。

 

 ロンドンは涙にかきくれていたといってよかった。近親の死を悼むために,黒いものを着たり,正式の喪服をつけたりする者は一人もいなかった。町々にはそれらしいお弔いの姿は見られなかった。しかし,死を悼む悲しみの声は町々にあふれていた。・・・ 涙と悲しみがほとんどどの家にも見られた。が,とくに,流行の初期にあたって,それがひどかったように思う。というのは,後になってからは,人々の心はすっかり麻痺してしまい,眼の前に漂う死の影になれてしまったからである。近親を喪うことなどそう大したこととも思わなくなったのだ。今度はこっちの番だ,という意識が常にあったわけだ。

 

 おそらく,前述にあったとおり,ペスト患者の家屋が市当局により強制的に閉鎖されると言うようなことが行われていたから,遺族といえどもペストでの死者を出したということは表立って言えなかったのかもしれません。

 

 あるいは,こういう事かもしれません。ペスト感染を恐れ,お葬式を出すことができなかった(あるいは参列できなかった)。これも日本で今起きている事象です。親の葬式のため東京から田舎に出てくる参列者に対し,遺族たちから来ないでほしいと言われ,親の葬式に行けなかったという話を聞いたことがあります。致し方ないのかもしれませんが,死者へ敬意を払うというのは人間性の根源的なもののような気がして,これが失われた傷は非常に大きいものがあると思います。

 

 これまで,ロンドンの死亡者数を紹介していましたが,では,そもそもロンドン市の全人口はどの程度だったのでしょう?

 

 ・・・ この疫病流行のとき,というより流行の初期といったほうがよいのかもしれないが,とにかくこの時にあたって,ロンドンおよびその郊外の人口というものが,じつにおびただしいものであったということである。 ・・・ 戦争は終わる,軍隊は動員解除になる,王室は帰国する,王政は回復する,といった具合で,多数の人々がロンドンに集まってきて,商売を始めたり,褒賞や立身出世を求め宮廷に士官したりする,といったふうであった。

 

 Part1で,1665年のイングランドに関する歴史上の位置づけについて若干説明しています。ここの戦争とは第一次英蘭戦争のことで,64年に終結しています。

 

 王政の復古というのは,その王の取り巻きたちが宮廷を構成し,そこに様々なビジネスの匂いを嗅ぎつけて人が集まってくる(特に退役軍人),といったことをもたらすのですね。日本の明治維新や戦後期でも似たような事情があったのでしょうか,別に調べてみましょうか。

 

 ロンドンの推定人口は,ターシャス・チャンドラーの説によれば以下の通り。

 

 1000年頃  15,000人

 1100年頃  25,000人

 1200年頃  40,000人

 1300年頃  45,000人

 1400年頃  50,000人

 1500年頃  50,000人

 1600年頃  187,000人

 1700年頃  550,000人

 1750年頃  676,000人

 1800年頃  861,000人

 1850年頃  2,320,000人

 

 1500年以前は大した人口ではなかったロンドンも,1500年~1700年の間に人口爆発が起きていることがわかります。この200年間で人口が11倍にも増加している!デフォーは,1665年の人工増大について,「一挙に10万人が増えた」とか「2倍になった」といった説も紹介しています。

 

 王政復古によって人々が集中したところにペストが流行したという1665年のロンドンを,過越祭で各地からユダヤ人が集まってきたところにローマ軍が包囲攻撃をしかけた西暦70年のエルサレムと重ねて見ています。このときのエルサレムは指導者が争論しまとまらず,ヤハウェに対する信仰心も衰え,そんな指導者が開催した過越祭に集まったユダヤの庶民たちがローマ軍の餌食となりました。

 

 つまり,ロンドンの宮廷の奢侈品需要,軽佻浮薄な文化を支えるために引き寄せられた貧しい人々がロンドンに取り残され,そこにペストが襲ってきたということを指摘しているのであり,これが本記事前半でデフォーが指摘している「宮廷人の非道な所業」です。

 

 さて,2020年の日本ではどうでしょうか。政府や公務員が逃げているわけではありませんが,やはり文化の中心地である東京や都市部に感染が集中しています。人口密集が感染爆発の基礎的条件なので当たり前ですが,それだけではなく,コロナ関連ニュースを聞く私達は,その感染地域に“不徳の匂い”を知らずしらずに嗅ぎ取っているのではないでしょうか。

 

 そこが実際に不道徳的であると言っているわけではなく,人間は感染症の被害を文化的退廃と勝手に紐付けて,そのエリアの人々を差別しようとする傾向が生まれながらにビルトインされている気がします。