続き読んでいきます。

 

 デフォーもロンドンからの脱出を考えます。

 前回にも書きましたが,貴族たちは家財道具を荷馬車いっぱいに乗せて郊外に疎開しました。

 デフォーがロンドンから離れようとしたとき,既にロンドン市内に馬は居なくなっていました。

 みんなが競って郊外に疎開しようとしたのです。

 

 他にも従者が逃げ出したりして,結局,デフォーはロンドンにとどまるのが神の啓示であるとして残留を決意します。

 これを聞いたデフォーの兄は,馬を借り残ったこと,従者に逃げられたことを神の啓示というデフォーを一笑に付し,逃げるように諭します。

 

 自分(※デフォーの兄)がかつて行ったことのある,アジア地方その他における,トルコ人や回教徒の妙な傲慢さから生ずる悲惨な事態についても,説明してくれた。彼らはその宗教独特の予定説,特にあらゆる人間の死は前もって予定され,絶対に変更されえないものだ,という信念を頑なに信じているということであった。そのような信念に基づいて,彼らはまるで他人事のように,平気で悪疫の流行しているところへも出入りをするし,患者とも接するという始末で,その結果,1週間に10,000人から15,000人の割合で死者が出たという。これに反して,ヨーロパ人,つまり,キリスト教徒たる貿易商たちは,いち早く避難し疎開するので,いつも感染を免れていたということであった。

 

 デフォーのお兄さんは,数年前にポルトガルから引き上げてきた貿易商です。

 1647年~52年の間,スペイン南部でペストの流行があり50万人が亡くなったので,おそらくこのときのことを言っているのでしょう。

 

 回教徒とはイスラム教徒で,イスラム教の教理は確かに予定説の考え方が強く反映されています。

 「イン・シャー・アッラー」(神の御心ならば)という言葉があります。

 イスラム教徒は,何事もアッラーの思し召しにより成立すると考えるから,なにか先々のことを約束する場合,「イン・シャー・アッラー」と付け加える,つまりその約束が履行されるか否かはアッラーの思し召しによるとします。

 何らかの事象が起こる原因を人間の意思や努力に求めず,それはすべて神様が予め決めたことなんだと考えます。

 だから,病気にかかるのも死ぬのも神の思し召しである,ということなのです。

 

 キリスト教においても,カルヴァン派は予定説に立っていますが,全体からみて予定説を教義に取り入れているのは少数派でしょうか。

 キリスト教においても古代は予定説のような考えを取っていたのではと考えられます。

 3世紀ローマ,まだキリスト教が弾圧を受けていた時代,ローマ帝国内で疫病が大流行しました。

 このとき,カルタゴの司教キプリアヌスはキリスト教徒にこう呼びかけます。

 

 「愛する兄弟達よ。むしろ私達は,健全な心と堅固な信仰,強固な徳を備えて,すべて神の御心に従う者となりましょう。死の恐怖を退けて,死の後に続く「不死」について考えるようにしましょう。私達は自分の信じていることを示しましょう。親しい者の死を嘆き悲しむのではなく,また自分の召される日が到来した時には,私達を呼び寄せて下さる主のみもとへ,ためらうことなく,喜んで行こうではありませんか。 神のしもべたちは常にこのように行動しなければなりませんが,特に今――この世が腐敗し猛威を振るう悪の嵐に圧迫されている今こそ,なおさらそうしなければなりません。」

 

 これはまさに予定説であり,この考え方をもとに当時のキリスト教徒はローマ領内で家族にも見捨てられたペスト患者の治療にあたりました。その結果として自分が死んだとしても,それはキリストの思し召しであり,神の国により早くいくことができるためペストはキリスト教徒にとって幸いである,と。

 これをきっかけにキリスト教はローマ市民の支持を得て信徒を増やし,最終的にローマ帝国の国教にまでなります。

 

 デフォーの兄に代表される当時のヨーロッパ人は,キリスト教徒を理性的であり,イスラム教徒を神秘主義で無知蒙昧であると見ているようですが,宗教のあり方として当時のキリスト教は啓蒙主義によりその純粋さが失われていたのかもしれません。

 私は特定の宗派を信じているわけではなく,宗教については全くの無知ですが,予定説とあわせて,このあたりはもう少し考えを深めてみたいところです。

 

 お兄さんから説得されたデフォーは,郊外への疎開について一晩考える時間をもらいます。

 そして部屋に閉じこもり聖書と対話を始めます。

 

 デフォーは,自身のビジネス(馬具取引)を守ることは自分が神から課された職業であると考えます。

 本書では職業のフリガナに「コーリング」と充ててます。

 そして聖書の一節,「わが時は神の御手の中にあり」(旧約聖書詩篇31篇15節)に目を向けます。

 

 キリスト教カトリックでは,金儲けを卑しいものと捉え,現世でビジネスに精を出し蓄財すると天国には行けない,と考えます。

 これに対しプロテスタント,特にカルヴァン派では,そもそも最後の審判で天国に行けるか否かは神が予め決めていることであり,もっというと現世でのビジネスも神が予めその人に与えたもの(=コーリング)であると捉えます。

 そうすると,プロテスタントにとってはビジネスに精を出し蓄財することは神の御心に適う行為ということになります。

 このような考えのもと,プロテスタントを担い手として資本主義が発達していきます。

 以上は,マックス・ウェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が指摘していることです。

 

 デフォーは,ペストが流行するロンドンに残留する決意を固めます。