ダニエル・デフォーは,最初のペスト犠牲者がロング・エイカーの家で出た1664年12月から1ヶ月間のロンドン市内の死亡者数推移を調べています。

 

 12月20日~12月27日   291人

 12月27日~ 1月 3日   349人

  1月 3日~ 1月10日   394人

  1月10日~ 1月17日   415人

  1月17日~ 1月24日   474人

 

 通常であれば,死亡者数は240人~300人の間が平均値であり,また,イギリスでは冬は死亡者が少ないシーズンなのだそうです。

 だから,この死亡者数は尋常じゃない,とロンドン市民は不安に陥りました。

 

 ただ,ペスト被害者の発生したセント・ジャイルズ教区を除き,他のロンドン市内は死亡者の増大は見られませんでした。

 

 ロンドンは初夏5月を迎えます。

 

 疫病は他の2,3の教区にも蔓延していった。しかもそのうえ,市民を慄然させたことは,とうとういわゆる城内のセント・メアリ・ウールチャーチ教区に1名の死亡者を出したことであった。・・・ この週の死亡者数のうち,ペストによるものは9名,発疹チフスによるものは6名であった。しかし,さらにいろいろ調べてみると,このベアバインダ小路でなくなった人はフランス人で,かつてはロング・エーカーの,例の感染家屋の近くに住んでいたことがあり,病気にかかるのを恐れて移ってきていたものであることがわかった。ところが実際には,その人はもう既に病気に感染していたのを,本人が気づかなかったのである。

 

 汚染地区から逃げ出したくなるのは,今の日本でも昔のロンドンでも一緒なのでしょう。

 コロナウィルスが猛威を奮っていた東京から軽井沢に避難した人がニュースで取り上げられていましたね。

 避難者から現地住人に感染が広まったというニュースは見ませんでしたから,避難した人の中には感染者は居なかったのか,軽井沢でもステイホームを守ったのでしょう。

 

 ボッカチオの書いたデカメロンは,ペストが大流行したフィレンツェから田舎に避難した男女10人が10日間に渡り小話をして互いを慰める,というお話でした。

 

 発疹チフスによる死者も,本当はペストで死んだのではないかと,デフォーは考えているようです。

 

 ここから,死亡者は増加していくのではないかと心配されたが,次の週のペスト犠牲者は3名を数えるのみでした。

 しかも,ロンドン中心部ではまだペストの死者は発生していない・・・。

 

 市民たちはもはやこんなことでごまかされなくなった。彼らは疑わしい家を片っ端から調べていった。そして,悪疫がもはや手のつけられないぐらい蔓延していて,日夜,おびただしい数の人々が死んでいることを発見した。・・・ たとえば,セント・ジャイルズ教区では病気は既にあちこちの町々に潜入しており,いくつかの家では全家族をあげて病床に呻吟しているというありさまだった。・・・ 週報にはロンドン全体における,疫病による死亡者としてわずか14名をあげているに過ぎなかったが,それはまったくのいんちきであり,ごまかしであった。

 

 どうも,この当時,発疹チフスなど他の病気で死んだと偽り,各教区ではペスト犠牲者数を過少申告していたようです。

 ロンドン市長が治安判事に本当の死因を徹底的に調べるよう命令しているのをみるに,ロンドン市当局はペスト死者数をごまかす動機はなさそうです。誰の意思でペスト流行の隠蔽が行われたのでしょう。

 

 それは多くの者が自分の病気を隠しおおせるかぎりは隠そうとしたからであった。そういう者たちは,近所の人たちが寄り付かなくなることを恐れ,また当局が家を閉鎖することを恐れていたのだった。この家屋閉鎖ということは,当時はまだ実施されていなかったが,早晩その実施は免れ難いとみられていた。市民たちのそれを恐れることは,非常なものであった。

 

 どうも市民自らがペストであることを隠したようです。

 でも,なんで当時のロンドン市当局は感染者の家を閉鎖しようとしたのだろう?

 ペストを出した家は汚染されているので居住者は外に追い出される,とした場合,その家に住んでいた感染者が離散しますます感染を広げるだろうと,現代の我々は考えますが,当時の人々はペストは場所に留まるものと考えていたのでしょうか。

 ペストが外国から入ってきたことは当時のロンドン市民も理解していたはずだから,なぜこのような措置をとったのか余計にわかりません。