やはり私は普通の人には、全く理解されていない様で。

昨日、定例のボランティア的活動のグループで数名の会があり。

その中で私は現在オブザーバー的な立場に居り、組織が雇用関係でも何でも無く殆ど毎回、同じ顔ぶれでもあるので全くと言って良い程、何の遠慮も無く言いたい事を言っている。


というのも現在の状況になる迄は数々の先輩等の誰かが常に担当をしていて、年齢からも経歴からも口を差し挟める余地が殆ど無かったからで。

長年のその在り方が、この十年前後で様変わりをして来た事と、それに関する私達の様な立場の者に、色々な状況が生じて来たからでもある。


その中でも私は特に、そういった事に問題意識を持っているのと性格的な事も相まって昨日は、いつも以上にヒートアップする事となった。


四名いた内の同い年の女性と一人の男性は私と同じ立場にいて、その女性の夫は私達の上の立場の人でもあり、男性は二人共、年上である。


昨日は特に我々の後の世代に関しての話であった。

究極すれば根本的な事に帰り着くという事を私は言いたかったのだが、その三人は最後に私が涙も溢れんばかりに真剣に言い続けた段階で、やっと私の本気度を感じた様だった。


皆への感謝の表現としてのDIYの田舎庵ミニ茶会も、私にとっては貧乏ながらの苦肉の策なのだが、恐らく母譲りの着物を着る事すらも、ひけらかして居る様に思っていたのだろう。


又、私の個人としての付き合いから始まった地域の人との河川美化清掃活動も、その人達も携わってはいたものの、私が目立ちたいが故にやっているとでも思っていた様である。


先の根本的な事というのは、そのボランティア活動における根本的な在り方なのだが、その在り方を全うしようとすると基本的には真剣、真摯にならざるを得ない。


その上で人間の中での事であるので当然、様々な感情もあるであろうが、その本義から外れるのであれば、それは本末転倒になるであろう。


もうこれは、かれこれ40年に亘って感じながらも貫いて来た事なので、この儘、営々と私は続けて行くものと思われる。


人から、どれ程、変人の謗りを受けようとも。