今からちょうど4年前の8月わたしは西ヨーロッパを一人、旅をしていた。バルセロナから入って、スペイン南部を周遊し、ポルトガルに少し寄り道をしてからマドリードに入った。

 

 

 

確かマドリードにきて数日たった昼過ぎだったと思う。その日は晴れていてとても暑く、移動の疲れで数日伏せっていたわたしは2日ぶりに町歩きを再開していた。マドリードのマヨール広場の近くに有名なハム屋兼バルがあるというのを友達から聞いていたので、なまった身体にガゾリン、ではないけれど、景気付けに昼から一杯やりに出てみたのだった。

 

 

 

「Museo del Jamon」、“ハムの博物館”と名前がついたそのバルはマヨール広場の東側、地下鉄ソル駅との中間に位置する場所にあった。壁一面には大きなハモンセラーノが吊り下げられていて、ハムに取り囲まれるようにバルカウンターがあり、平日の真昼間だというのに立ち飲み客でごった返していた。

 

 

混雑したバーカウンターの中で、やっとこさ一人分のスペースを確保して、わたしはグラス一杯のビールとハム一皿を注文した。店員さんに問われるがままろくに確認もせずに注文した末に出てきたのは、小ぶりなグラスに入ったビールと、ふぐ刺しのように大皿に盛られた大量のハムだった。

 

 

驚いたわたしはすぐさまハムを運んできてくれた店員さんに値段を確認したのだけれど、帰ってきた答えは「3ユーロ」。そんなわけあるかぁ、と思って聞き返したのだけれど、やっぱり答えは3ユーロ。いくらヨーロッパの中でも物価が安いスペインであってもあまりにも安すぎだろと思いつつ、店員がそういうのだからそうなのだろう。わたしは目の前一杯にあるハムを、生唾を飲んで食べ出す前に、記念に一枚写真を撮ろうとカメラを構えた。

 

 

 

シャッターを押そうとした瞬間にニュッと隣からピースサインが入ってきた。間に合わずシャッターを切ってしまったわたしがカメラから目を外すと、隣に立っていた大柄のおじさんがふふっと笑いながらこっちを見ていた。

 

 

「おねーちゃん、ひとりかい?」

 

 

ビールを片手におじさんが聞いてきた。そうだと答えると、仲間だな、といってまたおかしそうに笑った。ビールとハムがよく似合う恰幅の良いおじさんだった。

 

 

聞くと、おじさんはブラジル在住のイタリア人で、休暇を使ってスペインを訪れているという。

 

「スペイン語はからっきしダメだけど、イタリア語とポルトガル語でなんとかやってるわ!」

 

はははっとわらいながらおじさんはペース早めにビールを飲んで行った。自然とわたしはおじさんと二人で飲む格好になり、ハムをシェアする代わりに、おじさんが何杯かビールをおごってくれた。

 

 

一時間ほどそうして飲んであと、すこしほろ酔いになったわたしは「見たい場所があるから」といってバルを出た。店を出る前に最後に二人で写真を撮った。おじさんはその写真をうれしそうに確認してから、またな、といって手を振って送り出してくれた。

 

 

スペインの夏の午後は引き続き晴れ渡っていて、若干千鳥足気味になりながら見上げた空はどこまでも青く、わたしは旅の偶然の出会いに心底感謝していた。

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

あの夏からちょうど、4年。

 

 

旅はやっぱり、偶然とともにドラマチックな演出をわたしに投げかけてくれる。

 

 

なんの因果かしらないけれど、4年前の8月マドリードの街で杯を交わしたおじさんと、4年後の8月ニューヨークの片隅の安宿で偶然の再会を果たした。当初、全くわたしのことを覚えていなかったおじさんは、おじさんとマドリードのあのバルで撮った写真を見せると、あぁ!と言って笑顔になった。

 

 

「まったく思い出せなかった!ははは」

 

 

そういっておじさんは頭を書いた。おかしそうに笑うその笑顔は4年前のそれとまったく変わっていなかった。

 

 

「再会を祝して乾杯!」

 

豪快な飲みっぷりも、4年前とまったく同じだった。

 

 

 

 

これだから旅はやめられない、と心底思う。

 

 

どんな小説よりも、どんな映画よりも、現実に起こることは時たま奇妙でドラマチックで不可解だ。「偶然」という言葉でしか形容できないのだけれど、字足らず感が半端ない。旅をしていると、定住しているときよりもそんなドラマチックな偶然が間隔を開けずに押し寄せてくる。そして一人旅が故に、わたしはそれをすべて自分ひとりで受け止める。その感覚もまたわたしを魅了して止まない。

 

 

 

とんだ偶然だなこりゃ!と言ってガハハと笑うおじさんは、4年分だけ歳をとっていた。もちろんわたしもぴったり4年分だけ歳をとっていて、その間、わたしたちは地球のまったく別の場所でまったく別の仕事をして、まったく別のものを食べ、まったく別の人と酒を飲んできた。わたしたちはまったく別の道を歩いていた。

 

 

でも、そのまったく異なるふたつの道が、4年前の夏にマドリードで一瞬交差し、そして地球がちょうど4回まわったあと、またニューヨークという場所で交差したわけだ。「事実は小説よりも奇なり」。地球上に70億人いる人の中でまったくの他人とまったくの偶然で再会できる確率を考えて気が遠くなる。

 

 

 

 

ビールを2本空けたところで再開の記念に写真を撮ることにした。わたしたちはビールを片手に並んで笑顔を決める。写真を確認すると、4年前とまったく同じ構図、まったく同じ笑顔だった。なんだかおかしくて、二人ですこし笑った。

 

 

 

 

 

「明日の朝、宿を出るんだ。」

 

 

オリンピック中継も終わり、そろそろお開きにしようかという段でおじさんが言った。今日がおじさんのニューヨーク滞在の最終日だったらしい。なんて偶然なのだろうとまたしてもしびれた。1日でもずれていたらこの再会はなかったのだ。

 

 

いやもっといったら、マンハッタンの宿がローシーズンでもう少し安かったら、バスが遅れなくてこの時間に到着しなかったら、昼ごはんを大量に食べていてお腹がまったく空いていなかったら、ロサンゼルスの飛行機が遅延していなかったら・・・この再会が果たされなかった可能性はきっといくつもあっただろう。そしてこの再会が果たされたのは同じように偶然が幾重にも重なった末の結果なのだろう。

 

 

 

偶然の再会という一つの事象の裏にある、何万という偶然の積み重ね。ひとつでもかけ違っていればわたしはこの場にはいなかっただろうし、おじさんもそうだ。わたしたちは4年前からまったくの知らないもの同士だった可能性だってある。

 

 

 

でもわたしたちは4年前おなじ時におなじ場所にいて、4年後の今日、おなじ場所でおなじように酒を飲んだ。

 

 

偶然が何万個も重なった末に起きたこの一種の奇跡に、わたしはしびれた。このしびれるほどの興奮を味わうがために、わたしは旅をしているのかもしれない。

 

 

 

 

 

「楽しい旅を!またどこかで会おう!」

 

 

そう言っておじさんは寝床に戻っていった。また会えるかどうかは誰にもわからない。おじさんにはおじさんの物語があり、わたしにはわたしの物語がある。それでもわたしの物語にとって、おじさんという登場人物はなにかしらの意味があり、きっとおじさんの物語にもそうなのだろう。偶然と旅のおもしろさを再確認させてくれたこの出会いに、わたしは心の中で大げさに感謝した。

 

 

 

「またどこかで。」

 

おじさんの笑顔に、笑顔で返す。

またきっとどこかで会える、そんな気がしてならなかった。

 

 

 

 

 

 

⚫︎⚫︎Instagram⚫︎⚫︎→日々の写真をUP中。

 

にほんブログ村 旅行ブログ 世界一周へ
にほんブログ村