「なんでそんなことするの?」
とよく聞かれる。理由はよくわからない。

でも唯一わかっているのは、「わたしはしなくてはいけない」ということだけ。


2013年2月、学生最後の旅として自分のルーツを辿る旅をした。それから2年半以上が経ち、やっと今、その旅に一応の区切りをつけることができた。
わたしにとって旅はネバーエンディングストーリー。終わりのない物語。一つ一つの旅や出会いが、つながり、またつながり、その広がりは無限で終わりない。






真っ暗な中に滑走路を示す2本の明かりだけが目立つ。4時間も遅延した飛行機は想像以上にスムーズに目的の空港に滑り込んだ。タラップを降りて徒歩で向かった空港の建物はとても小さく、“国際”空港なんて名前がジョークに思えるほど、簡素なものだった。


「Welcome to LEYTE Island~」

荷物が流れてくるベルトの横で空港スタッフが10人ほど並んで歌っていた。「レイテ島へようこそ」。そんな歌、歌わんでも、とちょっと笑いそうになったが、なんだか陽気なフィリピン人らしくて、これはこれでいいなと妙に納得してしまった。



適当に声をかけられたタクシーに乗って予約していた宿へ向かった。レイテ島は雨が多いと聞いていたけれど、予想をはるかに超える土砂降りで、舗装されていない道は泥水でぐちゃぐちゃだった。それでもやっと、そして無事、ここまで来られたことの嬉しさで、滝のように降る雨にもあまり不安は誘われなかった。




首都マニラがあるルソン島から飛行機で一時間、セブ島のすぐ右隣に位置するこの島に来ることは2年半以上前から決めていた。


冒頭でも述べたが、学生最後の春休みを私は自分の父方のルーツを探るため、九州を一人、旅していた。父方の親戚の多くは宮崎県の日向市とその近郊の村に住んでいる。また、父方の先祖は代々そこらの地主で、世が世なら私は立派な地主さんのお嬢さんだった。


そんな話はなんとなく知っていたんだけれど、この目で確かめたくて父方の先祖が眠る墓へと私はお参りに行った。そこで見つけたのが「フィリピン」そして「レイテ島」という場所だった。



「レイテ島ヨリカエラズ。骨ソノ他スベテモドラズ。」
「為一 享年21歳」



彼の墓は一族の墓がいくつも立つ墓地の一角にひっそりと立っていた。




訪れた当時の自分よりも年下だったわたしの曽祖父の弟。
祖父のおじさん。父の大おじさん。


為一おじさんは、獣医を志す青年だった。
1944年に彼は出征し、レイテ島で死んだ。
その4年後の1948年に遺骨が戻らないまま、彼の墓は建てられた。


おじさんは、郷里の村から遠く離れた東京に出て、獣医になる勉強をしていた。宮崎では今も畜産が盛んだ。村の農家を助けるため、獣医を志したのではないかと察しがつく。わたしには一切、その才能が受け継がれていないのだけれど、父方の血筋は医師が多く、優秀な人が多かったと聞く。



第二次大戦中、戦局が苦しくなってくると、為一おじさんは学徒出陣の一環で、当時の満州へ従軍獣医として出征していった。彼が所属したのは陸軍第一師団で、のちにフィリピンへ送られ玉砕する部隊だ。


南洋での日本軍の敗北が目立ち始めると、満州からフィリピンのレイテ島に送られた為一おじさんたち陸軍第一師団は1944年10月、マッカーサー率いるアメリカ軍のレイテ島奪還作戦に対峙することとなる。



アメリカ軍はレイテ島東部タクロバンに上陸し、圧倒的な武器と兵力で日本軍の拠点を次々に制圧していった。日本軍はレイテ島の西側にあるオルモックから兵力やその他備品を補給していったのだけれど、アメリカ軍の猛攻に補給は追いつかず、あれよあれよという間に補給基地であったオルモックも制圧されてしまう。


為一おじさんの所属していた陸軍第一師団の参謀たちはおじさんを含め多くの兵隊をレイテ島に残したまま、隣のセブ島へと退避してしまった。とり残された日本兵たちは、武器も食料も十分に持たず、レイテ島のヤシの密林をさまようこととなった。


レイテ島の戦いはあまりメジャーな方ではないと思う。自分も詳しく調べるまで、なんとなく、フィリピンの島だよな、くらいの認識しかなかった。試しに何人かの友人にSNSで「レイテ島なう」と送ってみたのだけれど、みな一様に「どこそれ笑」と返してきた。



その島で、わたしのおじさんは死んだ。




実際に訪れて思う。

相当、それはもう相当に、つらかったと思う。

これは、言葉では言い表せない。ただただ、つらかったと思う。



見渡す限りのヤシの密林。続く高い峠の数々。当時は整備された道もない中、いつ敵が出てくるかもわからない恐怖の中、食料も鉄砲玉もなく、この原生林をさまようことは、気が狂うほどに、つらかったと思う。



現に、このレイテ島の戦いでは、戦って死んだ兵隊と同じくらい餓えや病気で死んだ兵隊がたくさんいるという。

私は最激戦地とされ、為一おじさんが所属した第一師団の慰霊碑のあるリモン峠に差し掛かった時、溢れる涙を止めることができなかった。


そこはあまりにも、絵に描いたようないわゆる「ジャングル」で、わたしは直視することができなかった。それまで、そんなものはあくまで映像や写真の中でのことで、実際にそこへ行ってみると、「そうでもなかったよ」「いまは昔。変わっちゃってたよ、はは」という感想をどこか期待していた。でも、現実はそこにあった。70年前と地形も様子もほぼ変わっていないという。

ここまで、しっかりと、“見ることができる”とは思っていなかったわたしは、その(自分にとっての)非現実的な現実の前に、ただただ泣くことしかできなかった。


そして、ありきたりだけど、思わずにはいられなかった。

こんなところで、飢えて、もしくは鉄砲にあたって、死にたくなかったろうに。
おにぎり、味噌汁、梅干し、母ちゃんの卵焼き、食べたかったろうに。郷里の土に、眠りたかったろうに。


もちろんわたしは、為一おじさんにあったことはない。どんな人か聞いたこともない。わたしが知っているのは、彼の足跡だけで、見たのは遺骨も何も入っていない彼の墓石だけだ。


でもたった70年前、ここで、自分と同じ血が流れる青年が、いろんなものを捨てて、国のためといって戦い、もしかしたら誰かを殺して、自分も死んだ。


これは事実だ。そして、わたしはこの事実を知った以上、ここを訪れなければいけなかった。訪れなければ、わたしは旅を先へは進められなかった。



「やっと、きたけん。もう少し待っててね。」

わたしは心の中でつぶやいた。曖昧に覚えた宮崎弁を織り交ぜた。それはわたしのせめてもの気遣いだった。わたしは宮崎に住んだことはない。父も祖父もとうの昔に郷里を離れた。とても、長い時間が経ってしまった。





カイワレ




つづく。