このお話は私が高校生の時の恋のお話です。
ノンフィクションです。
第二話 「はちみつのど飴」
第三話 「雨、濡れた制服、涙
」
第四話 「大歓声が聞こえる。」
第五話 「誰もいない教室で」
第六話 「冬星の下、どこまでも」
第七話 「バイバイ、マタアシタ」
LOVELETTER
第十八話 「同じ空の下・それぞれの道」
「あ、いいから!出るから!」
きっとケイタだ。
私はベルの鳴らし主を思って、スニーカーを乱暴に脱ぎ捨てた。
リビングに飛び込んで、はいはいと母親がのんびりと電話に歩み寄っている横から、ザッと受話器を取り上げた。
「なんやのんあんた!」
母親はいきなり帰ってきて、しかもいきなり目の前の受話器をかっさらった私に目を丸くしていた。
「もしもし」
私が出ると、
「・・・もしもし。秋山ですけど・・・・。安藤?」
「うん」
私はその声を聞いただけで、涙がじんわり溢れそうになった。
ケイタは電話で話す時は、いつもうんと優しい声をしていたから。
家族がそばにいたのも手伝って、かすかに歪んだ視界をなんとか振り払った。
「ちょっと待ってな。今子機に変えるから。」
私はそう言って親機の受話器を置くと、自分の部屋の子機に転送した。
「あんた、ちょっと雪で濡れてる!タオルで拭き!」
母親が私にタオルを投げるのをもどかしく受け取り、階段を駆け上がった。
「もしもし、ごめん」
息が弾んでいるのを悟られないよう、空気を飲むようにして、受話器の向こうで待つ愛しい人に謝った。
「どしたん?俺に電話したやろ?」
そう聞かれて、瞬時に何か理由を作ろうとしたけれど、どれも言い訳がましくなりそうで、私はすぐに観念した。
「あ、別に・・・何も用事なかってんけどな」
答えながらタオルで雪水をぽんぽん拭った。
髪も予想以上に濡れていて、受話器を持つ手にポタリポタリ涙のように雫が落ちた。
「なんやねん、俺が部の練習で遅いの知ってるやんけー」
「うん、ごめんごめん。あー・・・。なんか雪やし・・・帰り大丈夫かな思って」
「チャリはしんどいなー。俺が帰る頃にはかなり積もってたからな。」
「うん」
ケイタの声が脳髄に染みた。
あぁ私は。私は、この人が好きだ。
「でもな、綺麗やな。雪。今な、外がめちゃ綺麗やったから散歩しながら紅茶買ってきた。めちゃ濡れたわ」
「傘差さんと行ったん?」
「うん。なんかめちゃ気持ちよかったし」
「あほちゃうか!ちゃんと拭かな、風邪引くでぇ」
私は、ケイタ本人は優しいと思っていないであろう、彼が放つその言葉に、涙が溢れた。
彼の優しい言葉や行動に心揺らいだり、期待したり、しなかったり、求めたり、くり返したけれど。
ただただ稲穂がいつしか自身の穂の重みで頭を垂れるように、ケイタからもらった沢山の事で胸がずっしりとなって。
涙がひとつふたつぽろりぽろとこぼれた。
優しさが仇になるだとか、思わせぶりはやめてだとか、優しさをまるで悪いことのように変換するのをよく聞くけれど、そういうのは受け手側の問題だ。
優しい人はただ「優しい」のだ。
「うん・・・。ありがとう」
「・・・・でもほんま雪綺麗やな。チャリ漕ぐには最悪やったけど」
「そうやねん、綺麗やろー?!」
私はなぜか自分の手柄のように得意気に言った。
「おぉ。それと・・・・辰に聞いてると思うけど。今日の放課後の話」
「あ、うん・・・・」
一瞬、何のこと?ととぼけそうになったけれど、あきらめた。
きっと、私の気持ちは見透かされていた。
「まぁ今はサッカーに集中せなあかんしなぁ、俺」
ケイタはそれだけ言って、少し黙った。
その静寂に、何を言えばいいのかわからなかった。
「そうなんや・・・あんな可愛い子やのに!もったいない」
気づくと、私は軽口を叩いていた。
「まぁな。あぁもったいな!どうでもええけど、辰はホンマしゃべりやな。びっくりするわ」
「ほんまやなぁ」
相槌を打ちながら、窓の外しんしん降りしきる雪を見ていた。
同じ空の下で、同じ時間に、同じ雪に包まれていた。
一本のラインが繋ぐ二人の言葉たち。
私たちが飽きもせず繰る言葉たちは、ハラリハラリ積もって、幸せの記憶として根雪となった。
いつか、春が来て解け出し、雪を割りながら前へ前へと力強く流れる日まで。
「じゃあ今配った用紙に進路希望書いて、終業式までに提出するように」
二年生のラスト、学年末試験の最終日。
やっと試験勉強から解放された喜びでいつもより騒がしい教室内に、担任の声が響いた。
進路調査だった。
それまでにも何度かあったけれど、2年末ということで、本格的な用紙が配られた。
ホームルームが終わって、
「じゃあな」
教室を出ていくケイタを、
「あ、待ってや」
私は呼び止めた。
「どしてん。あ、今日は練習終わったらまっすぐ家に帰るけど、近いうちまたおまえん家行くわ」
「あ、わかった。それとな」
早足で歩くケイタに半ば駆け足になりながらついて、私は続けた。
彼はキャプテンになってから、誰よりも早くグラウンドに行って、誰よりも遅くまでグラウンドに残った。
「進路調査、なんて書くん?」
いちいちウザいかなと思いつつも、聞かずにはいられなかった。
昇降口には、生徒が魚の群れのように押し寄せて、これからはじまる休みに向けて様々な口約束をしたり、笑い合いながら、皆ガラス扉の向こうに飛び出していく。
「俺は、名古屋の大学行こう思ってる」
下駄箱の前で、スニーカーをひっかけて答えたケイタに私は聞き返した。
「え?なんの大学?」
「名古屋の大学や。サッカーで頑張ったら推薦で入れるし」
名古屋。
前回の調査では、進路なんかまだわからん、と答えていた彼の口から出たその言葉に、私は体が一瞬硬直した。
「名古屋かぁ・・・遠いなぁ」
「そうか?新幹線やったらすぐやで。てかまだ合格もしてへんし。そいじゃあな。また連絡するわ!」
ケイタは、光がいっぱいにこぼれ差すガラス扉を、ぐんと押し開けた。
まだ一年も先のこと。
一年もあるから。
けれど。
いずれ、皆違う道を進んでゆく。
誰もがそれを知っているのに、輝けるのは今しかなくて。
今だけを見つめて駆けてゆく。
もうすぐで春が滲んでくるはずの冷たい空気の中。
遠ざかるケイタのブレザーの紺が妙にくっきりとした縁取りで私の胸に迫ってきた。
第十九話 「抱きしめる 前編」 へ続く
