毎日ご苦労様です。
最近は、屋根がはがれてきましたね。
お友達が、木陰をつくってくれていますね。
もくれんさんですね。
いつか、喜ばしい報せをお腹に入れてくださいね!
追伸
お部屋3つもあったんですか(笑)
日々の生活のなかの写真と短い英文のブログです。Crisp Autumn Breeze 今後はこちらのブログを中心に記事を投稿してまいります。
アメブロもときどき書き込みます。どうぞよろしくお願いします。
まだまだ暑い日が続いています。
昨日、ふぐすま市(福島市の現地語表記)は30度を超えました。
最近、私は歩くのが好きです。
特にこういう暑い日に、しかも太陽が中天に昇り最も日差しの強い午後2時ごろを狙って歩きに行きます。
歩くコースはご覧いただいている近所の河川敷です。
この堤防を2キロほど歩くと私が卒業した小学校にたどり着きます。
早歩きで15分ぐらいで着きます。小学校の近くの歩道橋に登って思い出の学び舎を眺めます。
何とも言えない感動で胸が苦しくなります。
遠い日、幼い私は、図画工作の時間、この歩道橋の上から見える町の絵を描きました。
あの日消しゴムを買いに立ち寄った文房具屋さんや通りの和菓子屋さん、校庭の二宮金次郎の銅像、飯坂電車の線路。
永遠に戻ることのできない古い日の時間を構成していた一つ一つが変わらずそこにはあり、町並みを見つめる自分の眼差しに少しずつ当時の眼差しが重なり始めます。
歩いて行ける世界が世界のすべてであり、目の前の現実を夢中で吸い込んで胸いっぱいに満たし、小さなことに感動しては生きることの喜びを全身で感じ取っていたあの頃の自分が、心に蘇ってくるのを感じます。
時計の針を巻き戻しても二度と帰って行けない時空間。
しかし身に帯びた知識や余計な理屈を払って「心の煙突のすす払い」をし、しばらく佇んでいおりますと心の純真無垢な感覚が乾いた地面に注いだ水のようにじゅわ~っと身体に沁みこんでくるのが感じられます。
あの遠い日、たしかにぼくはここにいた。
まるで炎天下の蜃気楼のように、それは実態を失った幻影のようなもの。
しかし、ほんの一瞬、大人の自分が遥か彼方の幼き自分と焦点がピッタリ合う瞬間があります。
恐らく、人間は気の遠くなるような時間が過ぎ去っても、社会や人生の風雨にさらされ何かを忘れ去っても、永遠に失われない心の原風景があり、
それをもう一度心に蘇らせるには、たとえば、卒業した小学校の校庭の前に立ち尽くしてみる。
そんな時間を一年に一回だけでも持ってみる。
それはとっても素敵なことではないでしょうか。
追懐を通して、人は自分の原点を見つけ直すことができるのではないでしょうか。
想い出は、自分だけの文化遺産。
オウムの金色の食指に身体を持ち上げられたナウシカが、身にまとうあらゆる苦悩や恐れから解放され、一人の少女としてのナウシカに還ることができるように、
想い出は自分を在りし日の天衣無縫なる穢れなき自分へと導いてくれるもの。
そこで英気を養い、また現実へと戻って行く。
これを書いて、自分には幸せすぎるほど幸せな時間がたしかにあったことを確認できたことが何よりうれしい。
春には「さくら街道」となる近所の堤防
"To Kill a Mochkingbird"を持って今日も東口のミスドに行った。いつものカウンター席にて小一時間ほど読んで一息付いたとき、このミスドのこの席で読書することがもたらす深遠な意味に万感の想いがした。が、しばらく経ってふとした別の思いが頭をもたげた。
「確かに、ここでの読書は素晴らしい。俄かには言葉にできないが感情としてそれがいかに素晴らしいかは体験し尽くしている。いくつもの得難い読書体験をここでした。ただ、なぜ自分の部屋で嘗てそうしてきたように同じことがもはやできなくなってしまったのか。」
思えば、このミスドに本を持って足繁く通うようになったのは高々この2,3年の話しである。切っ掛けはあったが、それはここでは書けない。その頃を境に本は「外で読むもの」となった。それまでの長い間、自分の部屋で静かに本の世界を心行くまで徘徊できていた。特に夜のしじまの静寂の中で卓上蛍光灯の明かりを頼りに本の世界に滑り落ちていくのはたまらない感覚であった。それが今やその机は、外で読んできた本を積んで置く場所に凋落してしまった。
何かに依存すると、依存する必要がなかったそれ以前の自分が異次元の自分に思えてくる。あんな自分がかつてはいたんだね~、と不思議でたまらない。二つの感情が共起する。この喜びを知らなかった嘗ての自分への優越感と、こんなものに頼らずとも十分に幸せであった嘗ての自分への劣等感。優越感を後押しするのは、人生とは常に前に進んでゆくものでありその過程で新しいことを多く経験し精神は発達していくのだ、という社会進化論のようなポジティブ思想。それも一理あることを認めると今度は、それがバカバカしく感じられ始める。新しい体験や経験をすることは一般に珍重されているが、新しい体験は新しい脳への刺激として受け取られ、刺激はより強い刺激を求め、際限のない刺激獲得競争に自分を放り込んでしまうだけで、人間として健康で安定した最低限の暮らし向きを維持することが何よりも重要なのであって、しかもそうした枠の中で体験できる事柄からでも十二分に心を豊かにする要素は与えられるのであり、本当の意味での「自分に充足する」というなんとも言えない安堵感や満ち足りた心もち(ああそれこそが真実なる人生のひそやかなささやかな喜び!)はそうした「徒歩圏内の生活」のなかに見出せるのであって、新幹線や高速道路に乗れば想像を絶する彼方に自分を送ることはできるが、それは英語で言う「ライフ イン ザ ファースト レイン」という物で、一度アクセルを踏む加速感に身を焦がしたら、地味な一般道でゆっくり街道の風景を愉しむ余裕なんてなくなるに違いない。だから私は大前研一の本を読むと最初はそのアクセル全開な豪放磊落な生き方に鼓舞されても、次第にウンザリし出すんだ。もちろんこれは人それぞれの価値観だけれど、もう私は上昇志向や成功したいなんていう脂ぎった肌から黄色いオーラが湯気のように立ち上るようなギラツイタ欲望なんか尻目に、小学生のころのランドセルを背中に背負い直して、とぼとぼと通学路を、そうリンゴ畑の真ん中の砂利道の通学路を歩いたあの小路へと立ち還って行きたい。
感情に任せてキーボートを叩いていると、もはや最初にあった書くべき内容などどこかに吹っ飛んでしまった。作家に身をなぞるなんておこがましいにも程があることを承知で言えば、私は私小説は書けても、緻密な構想を必要とするミステリーは絶対に書けないタイプのようだ。
なぜそれまでそれに頼らずとも生活しえた対象があるときを境に生活の必須要件にまでのし上がってしまうのか。心理学の本でも読めばどこかに定見を見つけることもできるのだろうが、今のところ時間はあっても調べる気にならないので、勝手な私の理屈を述べることにする。
それは「強迫観念」がどこかで作用しているような気がする。オーストリアの精神科医に精神分析学を創始したジークムント・フロイトがいる。彼の精神分析理論にはあまり興味が抱けなかったが、彼の人物像には大いに興味を覚えた。彼は後世の伝記作家が勝手なことを書かぬよう自分に関する資料は殆ど生前処分してしまったらしい。しかし往復書簡や知人らの証言を基に彼の伝記は多く書かれた。そのうちの一冊に面白いことが書いてあった。フロイトは死ぬまで煙草を止めなかった。恐らく当時は葉巻だったのだろう。便宜上煙草とするが。ところが70代を迎えたころフロイトは過度の喫煙が祟って咽頭癌を発症してしまう。それにより喉の手術を何度も受けなければならなかった。しかしそれほどの大病を患わせた原因たる喫煙を彼は終生止めることはなかった。ここで彼の伝記作家は興味深い一節を加えている。
図書館に本はとっくに返したので記憶を頼りに引用する。
「フロイトは煙草が本当に好きで吸っていたというわけではないようだった。彼はあたかも喫煙が義務であるかのような強迫観念によって吸い続けたといっても言いだろう。フロイト自身、強迫性人格障害の傾向をはっきり示していた人物だった」
何かに依存している状態において、人間は必ずしもその依存の対象を愛しているわけではないように思われる。最初はその対象から快感情を得ていたことは確かであるにしろ、途中のどこかでそれが「強迫的」になされる行為にすり替わることが多くあるのではないだろうか。たとえば、喫煙者によくあることだが、4~5時間煙草を吸っていない、別段吸いたいとも思わない、しかし「あ、そういえば吸ってないな。じゃあ一本吸っとかないと」と頼まれてもいないのにおかしな「義務感」を感じてしまう。
ここが問題なのではないだろうか?そもそも読書はミスドでしなければならないものではまったくない。ところが、何か良い本を見つけると、「これはあのミスドのあの席で読まにゃならん」と実におかしな発想に支配され矢も盾もたまらずミスドに直進している自分がいる。たしかに結果として多くの場合その読書体験は非常に素晴らしいものとなることは多い。だったらそれでいいのではないか、と言われてしまうが、私の中で、それは何か違うぞ、という感覚が最近働いている。その感覚については、やや感情的に書いた例の刺激や高速道路やらの部分をお読みいただければなんとなく分かって頂けるかもしれない。
金の切れ目は縁の切れ目、とは薄情な言い方だが、貧乏フリーターの私も月の半ばやり繰りを考えねばならぬので、そろそろ今月ミスドとは「金の切れ目は縁の切れ目」で対応してみようかと思う。
(記事には聖書の話が出てきます。宗教にアレルギーを感じる方も最後までお読みくだされば本当にありがたいです)
震災から今日でちょうど半年となりました。
ニューヨーク同時多発テロからちょうど10年となりました。
一つ蛇足を加えると、自分が生まれて今日で31年となりました。
大切なクリスチャンの友人が昔こんなことを言ってくれました。
私が心を患って苦しんでいたころでした。
「ゴンくん大丈夫だよ。人生はみんなが平等になるように神さまが調節してくれるはずだよ。苦しんだのと同じ分だけ、後で喜びが与えられるから。哀しんだら哀しんだ分、慰めが与えられるよ。オレは、神さまはそういうふうに計画していると思うなあ。」
世の中は一見不公平で不平等に満ちているように見えます。
でももしかしたら、いつか、どこかで、すべては平等に決着するように采配されているのかもしれませんね。
新約聖書にこんなお話しが出てきます。
イエスは弟子たちに向かって話されました。
ぶどう園を管理しているひとがおりました。しかし働き手が足りません。そこで管理人は「日当1デナリを支払うから働かないか」と人手を募集します。人が働きにやってきました。管理人はそれらすべての人と「1日1デナリ」の契約を結びました。
朝早くからぶどう園で働いている人。お昼頃から働いている人。夕方から最後の1時間だけ働いている人。労働はそれぞれ違いました。
日が暮れて清算の時間になりました。ぶどう園の管理人は働いた者たちを心から労い、夕方から手伝ってくれた者たちから順に給料を渡し始めました。
朝から働いていた者たちはそれを見てこう思いました。「最後の一時間だけ働いた者が1デナリなのだから、朝から働いている我々はいくらもらえるだろうか」。
しかし彼らに順番が回ってくると、管理人は同じように1デナリを支払いました。すると彼らは憤って文句を言いはじめました。「我々はあの者たちより遥かに多く働いたのだ。その分多く支払うべきではないか」。
しかしぶどう園の管理人はこう言いました。
「私はあなたたちとも彼らとも、全員と1日1デナリの契約を結んだではありませんか。それに私は夕方から働きに来てくれた人にもあなたがたと同じように支払ってやりたいのです」
もちろん、このぶどう園の管理人こそ神さまです。
これを読みますと、「なんだ不公平だな。朝から働いたひとはバカを見たではないか」と考えがちですが、このお話しには神さまの二つの性質がよく表れていると思います。
それは、「愛」と「義」です。
管理人はぶどう園の労務者と1日1デナリの契約を結びました。契約を結んだのです。しかもその契約には「あなたがもしこれだけ働いたのなら」という条件は一切ありませんでした。
神が自らの約束を反故(ほご)にするようなことは一切ありません。これが「義」ではないでしょうか。
そして「あなたがこんな立派な人間ならば」とか「あなたがこれだけ長く頑張ったのなら」という条件を一切不問に付して、どんな人にも約束した通りの報酬を与えることを惜しまない。それが「愛」ではないでしょうか。
慰められない悲しみはなく、癒されない傷はなく、報われない苦労はない。いや、あのヨブのように苦しみはその何倍もの喜びを約束するものではないでしょうか。
東日本大震災から半年。
私の近所にも沿岸部や原発の近くから避難してきておられる方が多くいらっしゃいます。
毎朝、バイトするコンビニにそういう方々が来られます。一人の知的障害のある男性は、津波で家を流され両親と兄弟を失い天涯孤独の身となりました。毎朝、日々の出来事を私たち店員に報告してくれるのですが、非常に辛いのは、障害ゆえなのか一見身に起こった悲劇の意味がピンと来ていないかのような印象を受けるのですが、その優しい心はその奥底でどれほど深い悲しみに耐えているのだろうかと想像すると胸が詰まります。
しかし、この苦難は失望で終わるものでは決してなく、苦難は忍耐を生じさせ、忍耐は練られた品性を生み、練られた品性はやがて希望となり、そしてその希望が裏切られることはありません。
艱難汝を玉とす。
いつかこの大地に眩い希望の光が降り注ぎますように
以下、少々小生意気な口調で分かったような物言いをしますが、「まだ若いんだな」とご寛大にお読みいただければ幸いです。論理的に一貫性を持った文章を書くように努めていますが、何分感情的な人間で、理論武装などできやしない人間です。途中、内容が迷走しだすかもしれません。
読み止しのまま部屋の隅に放り投げておいた"To Kill a Mockingbird"を持ってミスドに行った。時折本から目を上げて窓の外を眺めることのできるカウンター席がお気に入りだ。ひとしきり没頭した内容について色々思索を巡らせるには、目を外に転じるのはとても助けになる。今日もいつもそうしている様にカウンター席に座った。一時間ぐらい経った頃、女子高校生数名が連なって横に陣取った。英語を読むのに頭が疲れてきたこともあって、なんとはなしに話を聞いているとこれがなかなかどうして面白かった。カウンター席に友人と座る若い女性に極めて典型的なことだが、彼女たちもまた道行く人たちを次々に「欠席裁判」に掛け、他愛のない評価を下しあっては楽しんでいる様子だった。たとえば、目の前を通り過ぎる若い男性が、スタイルの良い女性が、仲睦ましげなカップルが、彼女たちの法廷で賞賛や嘲りの対象となっていた。
一人が「あの人マジカッコイイんだけど」などと発するとそれに続いて肯定否定を含めた反応が素早く返ってくる。私も気になって彼女たちに悟られぬようその男性を盗み見る。このようにして欠席裁判の頼まれぬ傍聴人を密かにやっていると実に興味深いことにいくつか気づいた。
窓外の通行人を合評している彼女たちは、思い思いにそれぞれの主観で捉えた認識を話しあう座に打ち興じているがために、客観性を著しく欠いている。逆に言えば、主観の世界の住人であるからこそ話しが盛り上がるのであって、客観的なものの見方はその場限りで作り出された熱気や空間に没頭することを妨げてしまう。ここで何が私の感興を刺激したかと言えば、彼女たちの「ワールド」(それは当事者が気づかぬから故彼らにとってワールドと成り得るのだが)を客観的に観察している私自身に気付いたこと、、、ではなくそのワールドを興味津々に傍から見ている私もまた彼女らの一言一句に何らかの評価を下している主観的な存在であることに気付いた客観的な自分を別なアングルから認識できたことであった。ただこうなってくると最後の客観的な自分が本当に客観性を担保できているのかと問いたくなってくるが、そうなるともはや私の浅学では及ば話しである。
こんなことがなぜ面白いのかと言うと、それは自分が気づいていないものの見方や世界というものがおおよそ何に対しても必ず存在していることを物語っているからである。映画を夢中になって見ている時、それ以外の一切は認識の蚊帳の外に置かれ、ともすると自分が今世界のどこに存在しているのかすら問題ではなくなる。気の置けない友人と談笑を愉しんでいるときも外界の事象には極めて無頓着になり、時に消防車のサイレンでさえ耳に入ってこないほど主観と客観の二つの世界に断絶が生じる。こうしたことはやや極端な例だが、私が今日感じたのは、実は私たちも日常の生活を送る中で「自分のものの見方考え方に閉じこもる」あまりその外側にある何かと自らの内界との間に断絶を生じさせていることに多くの場合気が付いていないのではないだろうかということであった。
人間が一個の統合された人格として安定的に生活を営むには、こうした断絶は必要である。自分の持続的な価値観や世界観を持ってそれに基づいて社会生活を営むから、日常は安定し他者からの信用も得られる。価値観を朝令暮改してばかりいる人は信頼できない。朝に念仏を唱えて夕べには聖母マリアの御顔を拝する人を誰が信用できるだろうか。また何事かの本質的な意味を感得するには、その対象に全身でどっぷり浸かって見るという経験が絶対に必要だ。宗教ばかり引き合いに出して恐縮だが、まさに宗教はその教え諭す内容になんの疑いも差し挟まずにどっぷり浸かって初めてその教義が本当の意味を持って当人の心に語りかけてくる。客観性を捨て去らなければたどり着けないのが精神的な境地とも言える。このブログ記事で書きたいことはその反対のことではなく、主観的世界への没頭と客観的視点を持つことのバランスを上手に取るところに人生を豊かなものとする契機が隠されているのではないだろうかということである。
高校生のとき読んだ、ある英語の受験参考書の前書きに書かれてあった内容を今も時々思い出す。
「青いサングラスを掛けると世界は青く見える。そして自分が青いサングラスを掛けているその事実を完全に忘れてしまえば、その人にとって世界は永遠に青いままである。」
もう一つ引用する。これは大学時代、社会思想史の講義で聞いた内容だが、これもよく覚えている。先生が何かの話のなかで「パラダイム」という言葉を使った。するとある学生が「パラダイムとは何ですか」と尋ねたが、先生の即座の説明が非常に見事で心打たれた記憶があって今もよく覚えている。
「たとえば、サル。進化論という学説を知らない人がサルを見ればそれは一万年前のサルも数百年前のサルも今目の前にいるサルも横並びの同じサルです。他方、進化論という学説を取り込んでいる人がサルを見れば、原始のサルがいて直立二足歩行を始める直前のサルがいてやがて人間へと進化したサルがいてという具合に、目の前のサルを長い立ての系譜を持った存在としてのサルだと見ることもできます。この場合、進化論という考え方がパラダイムです。すなわち、それは一つのものの見方であり、それを知っているのと知らないのとでは世界の見え方に違いが生じてくる、そのようなものですね」
青色のサングラスを掛けていることを忘れること。それは「安定」を意味する。安定した職業と収入を確保することは人生の歩みを整え落ち着いた心で日々の暮らしを楽しむ上で欠かせない要件と言える。(それを持たぬ私がどれほど不安と苦悩に満ちた生活を強いられているかは、ブログに痛いほど反映してしまっておりますが。。。)ただ、その青いサングラスを掛けているから世界は青く知覚されているということを忘れるのは、大袈裟に言えば既存の社会秩序や一般常識に自分が取り込まれていることを疑うことなく一生を終えることなのだろう。それは基本的にはハッピーなことかもしれない。井の中の蛙は大海原が広がっていることを知らないから幸せでいられるのであって、井戸の外に別天地が広がっていることを知っていながらそれでも井の中にいることを強いられるのは拷問以外の何物でもなくなる。(そのあとの「されど空の高きを知る」という部分が個人的には好きです)
ある死刑囚が銃殺刑に処せされる間際、官吏が目隠しを彼に渡そうとした。目の前に死刑執行人が銃を構えている。それを直視するあまりの恐怖に配慮したのだろう。しかし彼は手渡された目隠しを突き返し、目を見開いて銃弾を受け死んでいった。この男は第一次世界大戦にイギリス軍兵として従軍したか、戦場の無残な光景からPTSDを発症し上官の命令に背いて戦線を離脱した。それにより軍法会議に掛けられ「弱虫罪」という罪状によって処刑されたのだが、目隠しを拒否して銃弾を受けた彼が弱虫でなかったことは明らかである。
時に普段掛けているメガネを取り外して世界を見ることは、このように勇気のいることだがそこには人間としての矜持、生まれたからには出来うる限り一個の固有の人格として生涯を貫徹することへの信念という強靭な精神のほかに、単純にそのことによって真新しい世界との邂逅を果たし慣れ親しんだ価値観の外側に実はあった見事なまでの種種雑多の考え方や認識、意見に触れ、降る日照る日一木一草のなかに違った輝きを見出す精神の瑞々しい働きを活性化すること、その大きな人生の喜びに通ずることでもあるのではないだろうか。
新しいパラダイムを獲得することはある種の覚悟を要求する。なぜなら人間は一度何かを知ってしまえば、それを知り得る以前の自分には殆どの場合もはや立ち戻ることは許されないからである。知らぬが華という言葉もあるが、何事をも知らないのでもなく、何事をも知っているのでもないそんな人間になりたい。つまり、知らぬ存ぜぬとウソぶいて適当に処する自分もあれば、何か直観的に自分の深い部分と脈打っている少なくとも自分にとって大切なものから逃げることなくその混沌とした渦の中に火中の栗を拾いに行く自分。そういう二面性をもった大人を今風に表現すれば「チョイワル」なんて呼ぶのでしょうかね。
文中、主観と客観、安定とリスクなどと二極分解するのではなくそのバランスを大切にしたい旨書いた主旨はこの辺りにある。
コンビニのレジに立っていると束の間軽度の人間不信に陥ることがある。「人間、この罪深き者」などといういささか鷹揚な構えなど失って、邪悪なヘドロを人の形に象った存在という印象すら彼らから受ける時がある。これは多くの人には大袈裟に聞こえるかもしれないが、どうも私は他人の愛すべき部分に対しても醜い部分に対してもそれらを非常に繊細に芯で感じてしまう鋭敏な神経の持ち主らしいのでそういう表現になってしまった。
無論、私の心にも醜く稚拙な部分は多くある。逆に言えば、そうした自らに潜む「悪」と同様の影を他者の中に感じ取ったとき、私の中で蠢く自らに対する失望がその攻撃の対象を獲得するのかもしれない。心理学には詳しくないが、もしかするとこれが所謂「投影」もしくは「近親憎悪」などと呼ばれる心の働きなのかもしれない。
哲学者の中島義道氏は著書のなかで概略次のような洞察を披歴している。文章そのものは失念したが内容は合っているはずだ。
「自分の罪深さを自覚するとき大抵意識されないもう一人の自分は、自分の罪を自覚することのできた清らかな自らの部分に密かに満足している。そしてそれもまた非常に罪深いことである。つまり、罪深い自分は紛れもなく罪深く、それを認めることのできたもう一人の自分は罪深くないとする情緒も実は同様に罪深いのだから結局人間はどこまで行っても罪深いのである。」
この話は取りも直さず、「人間の限界」を示すものだと思う。たとえば聖書には「汝情欲の目で女を見たれば即ち姦淫の罪を犯したに等しきなり」の聖句があるが、この天空の如く高邁な倫理基準を免れ無罪放免となる人間はこの世には存在しない。「義人はいない。一人もいない」とも書かれている。人間の限界である。
以前私はこのような考えに対して懐疑的だった。確かに人間は罪深き存在かもしれない。しかしそうであるからこそ人の世に多くの人間模様が生まれドラマが生まれ、そしてそれこそが真実愛すべき人の世の在り様なのである。そう信じていた。たとえば、お釈迦様が夕日の見える丘の上に立ち街を眼下に、「人の世は美しい。人生とは甘美なものだ」と言ったその言葉は、喜びも哀しみもすべてを受け入れた上で総体としての人の世の麗しさを耽美する至言だと礼賛していた。
しかし、人間の営みの埒外でそれと無関係に存在している事物・事象を虚心に観察してみると、そもそもの全き原初の私たち人間は、このようなもの達と同じような性質を宿して形作られた生命であったのではないだろうか、と思われてきてならない。
地軸の傾きと太陽との距離の絶妙な関係によって大気に寒暖の差が生じ、季節はめぐって行く。春が来て大地は輝き、夏が来て緑が繁茂し、秋が来て木々の葉が色づき、冬が来て立ち枯れてゆく。この透徹した自然の摂理には、一点一画の穢れもなくまた非常に厳かなものでもある。私は「自然の摂理」に想像を巡らせるとき決まって次のような映像を心で再生する。真空管の中のような無音の空間。まったき静寂が辺りを包む。目をつぶるとしかし水が水面に滴り落ちるぴたんちゃぽんという響きが極限まで澄み切った空気を貫いて聴こえてくる。まるでそれはこちらに近づいてくる神さまの足音のようだ。もはやあらゆる言い逃れも詭弁もまかり通らぬ究極の空間。熱したフライパンに水を垂らすとシューっと音を立てて一瞬にしてはじけ飛んでしまうような絶対の瞬間。そう、これが私のイメージする「摂理」というものの真実の姿。
私たちは思いがけず本当はこのような摂理の世界の住人なのではないだろうか。風がどこから吹いてくるのかを知る者は誰もおらず、虹の根っこを探そうと駆けて行っても虹の壺は見当たらず、しかし人間の知恵とは無関係に、風は渡り、虹は空にかかる。このこと、つまり実にこの自然と人間とを対照させたときにどうしようもなく陽の下にさらけ出される人間の姿。それは俗塵にまみれた目で見ればごく普通の姿かもしれない。しかし果たしてそれは厳粛なる摂理の目にはどのように映るのだろうか。
分厚い塀を巡らせたヴァチカンのなかの聖職者になるのでも、切り立った崖の上の行者になるのでもなく、コンビニのレジカウンターのなかでもう一度本当に大切なことはなにか、と自らに問うてみたい。
お久しぶりです。
本当に久方ぶりに英文ブログを更新しました。(リンクは↑)
秋めいてきたので、それに合わせてタイトルやテンプレートも変えて見ました。
日本語のブログも英語のブログも同じ写真を使いました。
一見、イギリスのどこかの街に見えませんか?
実はアメリカです。2007年に訪れたマサチューセッツ州のケンブリッジというところで、ハーバード大学のすぐ近くの交差点です。
相変わらず、英語が上手に書けません(涙)
語彙力も表現力もなく、無い袖は振れませんね。。。
バイトに行く道すがら見つけた大ぶりの茄子をヒントに少しだけ記事を書いてみました。
よかったら覗いてください!
科学雑誌NatureのWebsiteで、ヨーグルトに含まれる腸内細菌プロバイオティクスが気分の安定に資する可能性があることをマウスを使った実験で証明した旨を伝える記事を読みました。以下、同記事から2つのパラグラフのみを抜粋しました。
Beneficial gut bacteria, or probiotics, have been shown in the past to alleviate symptoms of stress and anxiety, but it wasn't clear whether the bugs could have an impact on the brains of healthy animals. Now, John Cryan, a pharmacologist with the Alimentary Pharmabiotic Center at University Vollege Cork, Ireland, and colleagues ahve found that probiotics have a direct impact on mood neurotransmitters in mice. The findings further support the idea that one way to heal problems of the mind might be through the stomach.
普段、ヨーグルトを食べる習慣はありませんが、慢性的な心身の疲労感に悩まされている私としては、ストレス低減に対し科学的に効果があると認められた食品は習慣的に摂取するように心がけたいと思った次第です。ただ、記事をよく読みますと、マウスへの有効性は認められたが人間への有効性は今後更なる検証を重ねる必要があるとも書かれています。
この引用部分で最も興味を引かれたのは最後のセンテンスです。つまり、気分障害やストレス障害など様々な心の問題の治癒といわゆる「腸内環境清浄化(英語では広く腹部を指すことのできるStomackが使われていますが)とは関係があるのではないかと言っている部分です。これまでプロバイオティクスはストレスや不安を緩和する働きのあることが証明されてきました。しかしその腸内細菌が果たして脳内の神経伝達物質に直接の影響を与えるのかどうかは定かではありませんでした。今回の発見は少なくともマウスに関して言えば、その関係性を証明できた、そんな内容のパラグラフです
Previous work has shown that probiotics can improve the moods of patients with chronic fatigue syndrome or irritable bowel syndrome. and, in a study published eariler this year, a French research group showed that a concoction of Lactobacillus helveticus and Bifidobacterium longum, given over 30 days, improved healthy vonlunteer scores in arange of surveys designed to assess mental health.Cryan used to eat probiotics yoghurts himself until he was put off by the amount of sugar they contained. He says that it is difficult to extrapolate results from mice to people, and more works needs to be done to determine the precise effects of different bacterial strains. But he adds, "If I was in any way stressed I wouldn't mind taking this in tablet form". "Whether you should be taking probiotics for depression or not, time will tell," says Finlay
この段落で非常に面白いのは、マウスの実験でプロバイオティクスが脳内神経伝達物質に有効な影響を与えることを発見したクライアン博士自身、ヨーグルトに含まれる砂糖の分量に嫌気がさすまではプロバイオティクスヨーグルトを食べていたというくだりと、彼の「何であれストレスに苛まれたら、私は錠剤という形でそれを摂取するのもやぶさかではないね」というコメントでした。