★分かりやすく言う菩提心
①菩提心と言う言葉を私は常々用います
菩提心
これは仏法を学び実践する中で非常に重要な心の在り方
言い換えれば菩提心が無ければ、いくら仏法を学び実践しても、何の結果ももたらさないばかりか、仏法自体に誤った考えや用い方をしてしまう事になります
菩提心の菩提とは「悟り」と言う意味
しかし悟りには五十二のレベルがある
これは悟りの体験の深さが五十二のレベルを経て仏陀の悟りの境地に至る
体験とは、学びや実践により心を見つめ、様々な分析をし、心が成熟し変容していく事により、捉え方や見え方、考え方などが変わっていく事で体験する「心の体験」と、ここでは説明しておきます
その最も微細なまでに心の変容をさせ、心の体験をする悟りが「阿耨多羅三藐三菩提(anuttarāṃ-)samyak-sambodhiṃ)」と言い、その意味は「最も優れ勝った正しい智慧の理解」となる
この体験をした者を「正覚」と言い、仏陀つまり「目覚めた者」と呼ばれる
このが「阿耨多羅三藐三菩提」は大乗仏教の専売特許の様に説明がなされている事が多いですが、これは全くもって部派や上座部を「小乗」と見下し揶揄する、誤った大乗至上主義からの見解で、部派や上座部でも用いられています
仏法を学び実践する目的は、このが「阿耨多羅三藐三菩提」と言うゴールを目指す事です
これは出家をした僧侶だろうが、在家であろうが関係無く、全ての教えと実践はその為にある
そのが「阿耨多羅三藐三菩提」に「行こう!」「行くんだ!」と言う「心」を「起こす」事が「菩提心」なのです
その菩提心が無くて、一体どこを目指して仏法を学び、様々な実践をしているのでしょうか?
目先の苦しみや受け入れ難い事の解消、またなりたい自分や、思い通りに様々な物事を引き寄せるなどの為に、仏法を学び実践をしているのは、全くもって道から外れているのです
それも道だと仰っしゃる方もいますが、その目先の事の先には何があるのでしょうか?
間違い無く何も無く、また新たな苦悩や欲しいものが溢れ出てきます
そしてまた新しい自己啓発やスピリチュアル系に頭を突っ込む
いま皆さんが学び実践している事に、菩提心を大切に説かれる中にいますか?
その教えや実践を説く僧侶が、菩提心を発し道を歩んでいる方ですか?
貴方自身が菩提心を発していますか?
もし無いならば道を誤る事になるので、速やかに教えや僧侶から離れるべきであり、菩提心を発していないのならば、菩提心を説き、菩提心を発した僧侶に就いて、菩提心を発し道を歩むべきです
理由は簡単
菩提へと歩んでいない者に仏法は説けるはずもなく、菩提を発していない者が説く仏法は、利己心と欲望を増大させることにしかならないのですから。
★分かりやすく言う悟りとは?
②昨日は菩提心について、その必要性をお話をしました
仏法におけるあらゆる言葉にはその前後の意味や、その修行者のレベルにおいて、様々な解釈の仕方があります
例えば部派における菩提心とは、「この六道のあらゆる苦しみを嫌悪し、そのサイクルから抜け出したい」という意味
大乗波羅蜜乗であれば「一切衆生の苦悩を我が苦悩とし、その解決と救済のために悟りを目指す」
真言密教ならば「本来全ての衆生は本能的に悟りを目指し開悟する能力を持ち合わせており、その心を見出すために発心する」
大乗真言乗の無上瑜伽タントラ系ならば「男女の性瑜伽により和合した精子と経血が菩提心なり(グヒヤサマージャタントラ 原文ママ)」となる
この様に菩提心一つ取っても、重層的にその意味や解釈をしている
特に無上瑜伽タントラに至っては、恐らく「こんなものはもはや仏法じゃない!」と非難するでしょうね(笑)
つまり何を言いたいのか?
一見するとそれぞれが解釈する菩提心には、全く関係性が無いし別々の仏法だと考えてしますが、しかしその狭い見解で捉える事が危険な事なのです
部派の菩提心は個人の枠での捉え方。つまり苦しい、こんな世界に何の楽しみも無いから、その束縛から解放されたいので、仏法により解決しよう
しかしその輪廻な苦悩しているのは自分一人か?と考えた時に、それは違う、私だけでなく全ての命も同じ苦悩を抱え、その解決を様々な方法を用いて実践をしている。そう気付いて利他の実践へと入ると大乗波羅蜜の教えに入る
大乗波羅蜜の実践をしている中で、皆がそう苦悩の解決をしようとしているが、実は様々な心の在り方で本来衆生は、既に持っている仏陀となる資質の機能を停止させているのだから、それに気付き、そして速やかに仏陀の境地に至る為の実践をして、人々を救おうとして真言密教に入る
さらに密教は進化をして、日本には正式に伝わらなかったのですが、無上瑜伽タントラの中で、仏陀も単に突然湧いてきたのではなく、因果の法則により生じてきたはずだ。そして肉身を持って生まれなくては衆生を救えない。その一番の根本原理は命の源である精子と卵子であり、それが和合して母の胎内で成長し生まれてくるのと同じ。それが無ければ仏陀も菩薩も、智慧も慈悲も、利他行も、さらにはその心も意識も何もかもが生じてはこない
だから、男女の交わりと死と再生のプロセスに則って、自身が仏陀として生まれてくる追体験をし、顕教と密教の教えを元に意識を変容させて速やかに仏陀の境地に至ろう
と、言うように全てが繋がっているのです
従って、この四つのどれかだけを正しいとし、他は違うとすると当然の事、狭い見解に陥り、その一つの菩提心を自分の宗派の菩提心として採択し、他は間違いだとか誤りだとか、そんな事はお釈迦様は言ってないと言う「錯誤」に陥るのです
しかしそれぞれの菩提心が、その前後のプロセスとして関係性を持っていると言う見解を持つならば、因果関係を有しており、仏陀の境地に至るために「必要な教えと実践」と言う理解となるのです
さらに無上瑜伽タントラから部派へと戻る見解をすれば、菩提心がいかに大切なのかが分かると思います
最も重要な事は、これらの内容について仏教書を読んで勉強した事を「鵜呑みに」にしてしまったり、スピリチュアル系・自己啓発・セミナーで説明された「伝統的相伝を受けていない説明」にて学ぶことは、絶対にしてはなりません
特に密教の類については、やはり真言僧や無上瑜伽タントラを相伝しているラマから、キチンとした手順に則って手解きをしなければなりません
何故「秘密」と言うのか?
それは隠しているのではなく、正しい見解と理解をする能力に至ってないから、分からないと言う意味での「秘密」なのです
無上瑜伽タントラの菩提心の解釈を読み、直感でその真意を理解できたならば、それは既に密教の門に入る準備が整っている
しかしそうではないならば、それは密教の門に入る準備には程遠い
直感は勉強して得れるものではなく、それまでの正しい学びと実践の積み重ねでしか得られない
正しい学びと実践は、キチンとした師に就いておこなう事が大前提となる
菩提心一つ取っても、その教えや実践のレベルでの解釈や説明が異なる事に注意しなければならない
そして、一側面の解釈と説明が全てでは無い事に留意しなければなりません
仏法を点として捉えて全てとするのか
そうではなく、点と点を結び付けいき一つの道としていくのか
それをどうするかは、学び実践する「動機」に全て掛かっているのです。
★スピリチュアル好きな方に読んで頂きたい菩提心。
③菩提心をどの様にしたら起こす事が出来るのでしょうか?と、言うご質問を頂いた
これは非常に重要なご質問です
菩提心の意味については、これまで再三にわたりお話をしていますから、詳細なお話は割愛します
菩提心をどうしたら起こせるのか?
少しその方の仏法の向き合い方をお聞きしました、仏法の勉強は難しくてよく分からないから、色々な仏さんなどを拝んでいますと
なるほど、この様なタイプの方は多いですね
結論からすれば、この様な方法でも菩提心を起こす事は「可能」です
しかし、その在り方つまり「心の向け方」に誤りがある
先ず一つは「菩提心は授かるもの」と考えてはいないでしょうか?
これは日本仏教に一番多い「誤り」なのです
悟りにしろ、智慧、慈悲、功徳など、仏陀の境地に至るまでに必要な資質や能力は、仏菩薩などを信仰し、しっかり拝んだり、祈ったりしていれば、やがてその様なモノが仏菩薩から「授かる」と思っている
その様なものは拝んだり、祈ったりしてどうにかなるものではありません
もちろん「キッカケ」になる要素としてはあるでしょう
しかし、菩提心にしろその様な資質や能力は、自分自身が何故仏法を学び、様々な実践をし、どこを目指したいかと言う「明確な目標」が定まっているから育て養われ、身に付いていくのです
菩提心もまたそうであり、ご自身が「何故悟りに向かいたいのか?」と言う、明確な理由や動機があるから、それが種になって菩提心を起こしていくのです
例えば昨日投稿した4つの菩提心の意味の中から、自分が何故仏法を学び実践したのかを当てはめても良いでしょう
菩提心を起こす最も重要なのは、「自分と他者を入れ替えて考える」この一点に尽きるのです
ここでは大乗に則ってお話をしますが、私たちが一番欠けているのは、他者の立場に立って物事を考えないで、利己的な立場で生きていることであり、立場に立っていると言っても最終的には利己的な結果に導こうとする「心のクセ」を持っています
その利己的な考えや利己心を変えていかなくては、とうてい菩提心は起こすことなどできないのです
だから自分と他者とを入れ替えて、自分がその立場になって考えた時に、利己心に塗れている事がいかに愚かな事であるか、また入れ替える事によりその他者が、何とかして今の状況を変えたい、変えるためにどうしたら良いのか?と、必死にもがき苦しんでいるかを知る事ができます
それが自分ならばどうするのか?
同じ様に何とかしたい、どうにかしたいとなるのではないでしょうか?
それが菩提心の全てのスタートなのです
拝んだり祈ったりして、では菩提心を得られるのでしょうか?
もし祈ったり拝んだりして得たいのならば、菩提心を授けて欲しいと言う「利己心」を捨て去りなさい
そして、嫌なことや苦しい事、受け入れ難い事と向き合い、また家族や友人と共に解決するために悩みさない
そうゆう下地が無いと菩提心の種は蒔かれないのです
拝む祈る行為の質を、自己と向き合い考える方法に変えてみましょう
先日、流行りのマインドフルネスやヨガの瞑想をすると、攻撃性や依存性が高まるまと言う研究が発表されましたが、これは当然だと思います
早い話が菩提心が無いからです
さらに言えば、思考や瞑想の対象が自分であり、自己解決の為であり、他者の立場になって思考や分析が無いからであり、また崇高な存在や高い境地を目指そうとする、つまり「利己心」を増大させる内容とやり方だからです
なりたい自分になるには、他者の協力と理解、そして踏み台にし迷惑を掛け、苦悩を与えないと出来ないのではないでしょうか?
思い通りに生きる事も同じ
キラーストレスを与えている人や対象もまた、自分も他者にしているのではなないでしょうか?
その様な分析や思索もしないで、何が思い通りに生きたいだの、自分らしく生きるだの、キラーストレスを解消するだのなんでしょうか?
崇高な存在や高い境地ばかり目指して、目の前の事を疎かにして、何が瞑想なんでしょうか?
仏法の要素を排除したマインドフルネスの結果がこれです
哲学を学ばずに健康法としてヨガを学ぶ結果です
菩提心を得たいならば、先ずは他者の立場になり考えていくこと
それしか無いのです。