ふたたび東京にオリンピックがやってくる。いま目の前のオリンピックが錦のみ旗になっているように、五十六年前もまた、人々は熱狂的にオリンピックを迎えた。ふたつのオリンピックの間になにが変わり、なにが残ったのか。いまこそ一九六四年の話をしよう。
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アテネのオリンピアで採火された聖火は日本全土を四つのコースに分けて縦断しながら、丸の内の都庁(当時)を目指していた。日本国内の聖火リレーの総距離は六七五五㌔(四三七四区間)。一区間につき正走者(聖火のトーチを持つ)一名、副走者二名、随走者二〇名以内と定められていた。
一九六四年十月八日。このまちを通過したのは鹿児島からスタートした第一コース。府中市から受け継がれた聖火は、まず調布市内の約五・五㌔三区間を通過し、世田谷区へ。そして世田谷区から少し戻るかたちで三鷹市へと受け継がれ、三鷹市内の四・八㌔三区間を抜け、武蔵野市へとわたっていった。調布布市と三鷹市をあわせて六人の正走者と十二人の副走者、一二〇人の隋走者が聖火ランナーとして走り抜けた。
調布市の走者は、「市内中学校およびスポーツ少年団体の若人を主力とした六十九名」。事務報告書には「聖火リレーは全小中学校が見学した」とある。
高度経済成長期の真っただ中、日本が大きく変化してゆく時代の中で、オリンピックとはなんだったのか。当時、聖火ランナーとしてこのまちを走った六人に話を聞いてみたいと思った。(続)
(『そよかぜ』2020年1月号/このまち わがまち)