偽文書をテーマにした本が話題になっている。本紙もごくローカルなミニコミ紙とはいえ、身の丈なりに地域の歴史をたどる動機も必要性も出てくるわけで、実体験を振り返りながら興味深く読んでみた。
ニセモノの記録がホンモノとして定着していく過程において重要な役割を果たしているのは、つまるところ人間の欲だ。古くは家格や由緒、土地、水利、入会権をめぐる争いであり、現代では町おこしや歴史教育に利用できるかどうかが、記録の真贋よりも価値がある。金、名誉、権力、あらゆる種類の権益にこびりついた欲が、過去も現在も未来もニセモノを求めている。
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本紙の過去の紙面から、この手の話題にぴったりなものを自戒を込めて、ふたつ紹介しよう。
ひとつは今年の一月号(二二三号)で取り上げた東京オリンピックの聖火リレーの記事。『調布市史』に掲載の写真を「調布市内を走る聖火リレーの様子」として紹介したが、のちの取材を通して、この写真は東京オリンピックの六年前、一九五八(昭和三三)年に行われた第三回アジア競技大会での聖火リレーの様子と判明した。この場を借りて、訂正したい。
もうひとつは、平成二五年七月号(一四五号)から京王線「北浦駅」についての記事。調布七中の敷地内に立つ標識に「北浦」と「国領」が別の駅として書かれているのはおかしいのではないか、という内容だ。ここで問題となるのは、七中の標識や別の場所に立てられている北浦駅跡の標柱が根拠にしている「大正六年の地図」が示す駅名、ならびに「小林家蔵古文書」だ。特に古文書に記されている駅名変更のてん末は、当の京王の社史には一切登場しない。ある一方の見方だけで歴史の事実を特定することは非常に困難である、と言っておこう。
ホンモノは、ごくふつうの暮らしの中、ごくふつうの人が書き残したものの中にある。欲得を捨ててこそ、ホンモノにたどりつくと心得よ。
(『そよかぜ』2020年9月号/このまち わがまち)