世の中に絶えて桜のなかりせば
春の心はのどけからまし
『伊勢物語』『古今和歌集』
咲く前にはいまかまだかとそわそわし、咲いたそばから散らないうちにとせかせかし、散り始めるとやはり葉桜が一番だと言う。およそ一二〇〇年も前に在原業平が詠んだ歌がいまも生きている不思議。日本の文化は歌の中に息づいている。
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今年は春先からソロソロと動いている。移動距離が延びるにつれて体の中にリズムができる。人は移動する存在だ、と誰が言ったか。すっかり縮こまって固くなってしまった心がひとつ伸びをする。手を洗う。うがいをする。よく寝て、よく食べる。体の健康と同じくらい、心の健康にもしっかり耳を傾ける。人はパンのみにて生きるにあらず。
つい先日、仕事で広島と長崎を訪れた。二〇〇五年の八月六日に広島、九日に長崎。両市の戦後六十周年記念式典に参列して以来、十六年ぶりだ。小泉純一郎が総理大臣で、わたしはまだ二十代後半の若者だった。
長崎の変わったこと。観光客がいなくなって平和公園が静かなこと。中華街から活気が消えたこと。変わらないこと。カステラの味、雨のまち、港の汽笛。
広島の変わったこと。市民球場が移転したこと。路面電車がきれいになったこと。変わらないこと。日差しが強いこと。タクシーの運転手が親切なこと。平和の灯が消えていないこと。
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新緑の季節がやってくる。若芽は元気よく太り、やがて手を広げて光をからだいっぱいに浴びる。植物が生み出す力強いリズム。その音が聞こえるかい?
(『そよかぜ』2021年4月号/ひとやすみ)