桜井浜江記念市民ギャラリー(三鷹市下連雀)が開館した、という簡素な記事が三鷹の市報に載っていた。
「長年三鷹市に在住した画家で、三岸節子らとともに女流画家の草分け的存在として知られる――」と。いや、知らない。だからこそ、知りたいと思った。
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 桜井浜江。一九〇八(明治四一)年、山形県山形市宮町生まれ。十五代続く地主の家の六男四女の次女として育つ。山県市第三尋常小学校、山形県山形第一高等女学校卒業。十七歳のときに用意された縁談を断り、翌年、家出同然に上京した。浜江、十八歳の春である。
 東京にだれか頼れる人があるわけでもない。デパートの売り子は山形弁が強すぎるからと続かず、浅草で踊り子になろうと直談判したら、主役の裾を持つ「裾持ち」の仕事をあてがわれた。しかし、そうして東京に根を下ろしていくあいだにも、浜江の心にあったのは「人生は短く、芸術は長い」といういつか兄から聞かされた言葉だった。
 二十歳。代々木の洋画研究所に入り、制作活動が軌道に乗り出す。仲間が増え、展覧会への出品もはじまった。二四歳のときに秋沢三郎と結婚し、高円寺、阿佐ヶ谷のあたりを転々とする。秋沢の旧帝大の後輩で、文学仲間でもあった太宰治が家に出入りし、浜江と知り合うのもこのころだった。
 結婚生活は六年余り続いたが三一歳で離婚。新宿のガード下で浜江が告げた別れの言葉は、「あんたはそっち、わたしはこっち。じゃあね」。その年、父の省三が購入してくれた三鷹町下連雀の住宅に引っ越した。(続く)

 

(『そよかぜ』2022年5月号/このまち わがまち)