「0(ゼロ)」を発見したのはインドの人だった。「0」は「なにもない」から目には見えない。けれどある日、「0」が「ある」ことに気がついた。なにもない世界がある。そのことをわたしたちは、毎日の暮らしの中で経験している。貯金が「0」になりそうだとか、あの人と結婚する可能性は「0」だとか、今週の競馬はプラスマイナス「0」だったとか。世界は、なぜなにもないのではなく、あるのか。答えは、なにもない、があるからだ。
もし世界がなにもないとしたら、いまわたしたちが目にしている(生きている)この世界はどこからきたのか。この世界があるということは(人間の意識がつくりだしたまぼろしだとしても)、なにかがある世界があるということだ。なにもない世界の仕組みの中に、なにかがある世界は存在しない。なぜなら、なにもないはどこまでいってもなにもないから。だとすると、わたしたちが見ているこの世界はなんだ。なにもないはずがない。
このことを理解するための法則、世界の仕組みを「単純」と呼ぶことにしよう。世界の仕組みは「単純」に則って動いている。仕組みが単純だから、話も単純だ。世界はあるか、ないか。この単純な問いの答えは、やはり単純で、「ある」だ。もし、「ない」と答えたら、この世界が「ある」ことの説明がつかない。次の問い。「ある」というのは、どれくらいあるのか。答えは、これまでに考えてきた通り、「ある」世界はどこまでも無限にある。最後の問い。「なにもない」世界は「ある」か。答えはどうか。なにもない世界を、「ない」とすることはできない。なぜなら、最初の問いに、世界は「ある」と答え、次の問いに、世界は無限だと答えた。ならば、無限にある世界の中には「なにもない」世界も含まれるはずだ。
世界は「ある」。そのある世界には「なにもない」世界も含まれる。それは「0」の世界であり、きっと、「0」よりも小さい世界、マイナスの世界もあるにちがいない。そして、その無限にある世界もやはり単純な仕組みに則っている。すなわち、無限に広がれ、と世界に命じているのは「多様であれ」という単純な命令だ。ここで無限ということばを離れて、「多様」ということばに乗り換えた。無限が数を表現するのに対して、多様は性質を表現する。世界の数を数える場合には、無限にある、と言いえても、世界の性質を表現する場合には、多様である、がぴったりくる。「0」が数ではなく、性質を表しているのと同じことだ。
目の前の世界は多様であるが、一方で、世界の仕組みは単純である。このふたつのバランスが重要であって、どちらかだけでは世界は成り立たない。というよりも、仕組みだけが動くこともなければ、命令だけが動くこともない。仕組みと命令が連動してはじめて、世界は世界たりえる。仏教のことばに「而二不二(ににふに)」という。里見弴のことばでいえば、「二にして一ならざる、一にして二ならざるもの」。「ひとりでも生きていける二人がそれでも一緒にいるのが夫婦だと思う」と、コピーライティングを書いたのは眞木準だった。どちらか、ではなく、どちらも。それでいて、ないまぜの一緒くたにはならず、それぞれが自律しているもの。
単純で多様な世界。その世界の中で生きているわたしたちも、やはり世界の仕組みの中で生きている。仕組みにさからって、あるいは、仕組みのあり方を知らずに生きていくというのは、茶碗の中のサイコロのようなものだ。動くたびに角が当たって痛かろう。できることならば、上善は水の如し。茶碗の中の水になりたい。器(仕組み)に合わせて、形(生き方)を自在に変える。それでいて、水は水。世界の仕組みを理解したうえで、そうであるならば、わたしたちは単純で多様な生き方を目指すのがいい。これを「単多主義」と呼ぶことにする。
単多主義の考え方にもとづいて生きていくとはどういうことか。次からは、生き方の実践を具体的に考えてみよう。
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この世界の仕組みと、この世界でどう生きるかは、密接に関連しあっているけれど、本質的には別の問題だ。まずは世界の仕組みを理解する。そして、その仕組みにうまく合った生き方を実践する。「遠きに行くには必ず邇(ちか)きよりす」。ものごとには順番がある。
H・ヒルネスキー