ないというのは、なにもない。なにもない状態を表現しようがないのだけれど、あえて探してみると、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』に出てくる「虚無」の世界――「そこに目をやると、急に盲(めしい)になったような」――が近いように思う。わたしは盲目になったことがないから、目が見えない状態をはっきりとはつかめないけれど、たぶんそういう感覚だ。ただし、そこにはなにもないのであって、なにかがあるのに見えない、ということではない。あとにも先にも、どこまでいっても、なにもない。それが「なにもない」世界だ。

 

「ある」世界のことを考えたときに、なにかがひとつだけある世界もありえるでしょう、と言った。その最後のひとつを取り去った世界が、「ない」世界かといえば、違う。それは、かつてひとつのなにかが「あった」世界であって、「なにもない」世界とは異なる。なにもない、は、最初から最後まで、なにもない。いや、そこには「最初」も「最後」もないから、やはり、文字すると「なにもない」。たとえば、世界がひとつの大きな空間(箱とか入れ物)だとして、その中にはなにもない、としても、やはりそこには、なにもない空間が「ある」わけであって、空間そのものすら「ない」のが「なにもない」世界だ。

 

しかし、「なにもない」世界はたしかに「ある」。以前に紹介したジョーク、“There is nothing.”は「Nothing(ゼロのもの)」という意味の「何か」を表している以上、「なにもない」を表現できていないのだけれど、たとえば、“There is ___ .”というように書いてみると、「なにもない」が「ある」ように見える(読める)気がするだろうか。それは見えないし、聞こえないし、感じられないし、理解もイメージもできない。けれど、それはある。見たこともないし、聞いたこともないし、感じたこともないし、理解することもイメージすることもできない世界が「ある」ということを、わたしたちはすでに知っているから。

 

問題は、なぜ「なにもない」世界が「ある」のか。言い方を変えると、「ある」世界は「なにもない」世界をも含むのか。わたしたちはすでに、「ある」のあり方は無限だと理解した。なにかがひとつだけある世界から、ありとあらゆるものが無限にある世界まで、無限に増殖を繰り返しながら広がっていく世界。それが「ある」世界の姿だった。ではなぜ、世界は無限に広がっていくのか。なにが、世界に、無限に広がることを命じているのか。それは神ではない。神というなにか形のあるもの、存在であるものが、無限の世界をつくることはできない。なぜなら、神のいない世界も「ある」からだ。神のいない世界は、それ自体でやはり無限に広がっていく。ならば、無限に広がることを命じているのは神ではない。

 

無限に広がれと命じているもの。それこそが、世界の仕組みだ。仕組みというのは、たとえば、わたしたちが生きているこの世界の物理の法則のようなもので、あらゆるものは法則に則って動く。もちろん、この世界の法則が、別の世界でも法則として通用するとは限らない。それぞれの世界にそれぞれの法則があるだろうし、それは互いに何の関連性もないかもしれない。しかし、そういう無限にあるであろうそれぞれの世界の法則をすべてひっくるめた、どの世界にも及ぶ上位の法則として機能しているものがあって、それをここでは世界の仕組みと呼ぶ。そして、その世界の仕組みは、ひとつの命令と、その命令をさらに上位で包括するひとつの法則でできている。

 

ひとつの命令とはなにか。その命令を包括する上位の法則とはなにか。「ある」と「ない」を両立させる法則とはなにか。世界の仕組みの核心に迫ろう。

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この世界の仕組みと、この世界でどう生きるかは、密接に関連しあっているけれど、本質的には別の問題だ。まずは世界の仕組みを理解する。そして、その仕組みにうまく合った生き方を実践する。「遠きに行くには必ず邇(ちか)きよりす」。ものごとには順番がある。

H・ヒルネスキー