この世界の仕組みがどうなっているかに興味がある人なら、たとえばこんなふうに考えてみる。この世界は神がつくったものだ。もっとも、それぞれのお国に「神さま」はたくさんいるようだし、「うちの神さん」が全員この世をつくった当の本人というわけでもないだろうから、ここでいう「神」は創造主、唯一神、ただひとりの存在というほどの意味にしておこう。そうじゃないと、この世界をつくったのはだれか、についての筋の通った考え方ができなくなる。もし「神さまたち」が集まってつくった、となると、その「神さまたち」はだれとだれなのか、どこに集まったのか、なにをつくるかをどうやって決めたのか、どういう役割分担だったのか、と疑問が次から次へと湧いてきて、とりとめがない。

ひとまず、唯一絶対の創造主たる存在(神)がいるとして、第一の疑問は、その存在(神)はどこから来たのか。そして、その先にあるのは、ハイデガーたちが考え続けた哲学の第一の問い「なぜ(なにもないのではなく)あるのか」だ。この世界がつくられる前には、この世界(がこれからつくられるところ)にはなにもない。そこに「神さま」が登場して、光あれ。で、世界がつくられた。はてな。「神さま」はどこからやってきたのか。「神さま」は光をどうやって(材料とか道具とか)つくったのか。神は完璧な存在だから、なんでもできる。自分自身をもつくりだすことができる。それで、まあ、そうか、「神さま」だから、そういうものかなと。

神とはなにか、――神である。みたいなやりとりは、答えにも説明にもなんにもなっていないのだけれど、人はなにかにすがらないと生きていけない存在だから、「神さま」というキーワードは、この世界におこる人間の力ではとても及ばない自然のダイナミズムに直面したときに、心のよりどころとして重宝される。うれしいことがあれば神の恵み、悲しいことがあれば神の試練、さみしいときには神の愛、苦しいときには神の導き。すべては神の御心のまま、すべては許される。とまあ、そんな具合に「神さま」は人々の生活の中にしっかり食い込んで、中心的な地位を占めてきたわけだ。ようするに、神とは、人が生きるためにすがるものであり、生きる上での方便であり、この世界の仕組みとは関係がない。

なぜなにもないのではなく、あるのか。神がつくったから、は答えとしてうまくいかない。では、ちょっと視点を変えて、「無から有は生じるか」という問いはどうだろう。英語の哲学ジョークに“There is nothing.”がある。日本語にすると「なにもない」。だから「無」のことなんだけど、There isは「~がある(存在する)」という意味だから、ここでは「無(という存在)がある」と解釈できてしまう。つまり、「無」は「ある」。あるいは、「白いカラスはいない」という言い回しがあるけれど、存在しないことを証明することが、イコール、「無」ではない。「無」は存在を前提としていないから、「無はある」とか、「存在するかしないかわからない」とか、「ひょっとしたら存在するかもしれないけれど、その証明はできない」のではなくて、そもそも「なにもない」。ゆえに無から有は生じない。というよりも、無と有はつながっていないのだ。

無と有をおなじ天秤に乗せようとするから、どうにも行き詰る。そこで、なぜなにもないのか、と、なぜあるのかを、ふたつに分けて考えてみたらどうか。するとおもしろいことに、「ない」と「ある」を包含する世界があらわれる。「ない」こともあるし、「ある」こともある。では、なぜなにもなかったり、あったりするのか。もちろん、この世界がそういうふうにできているから。そういう仕組みで成り立っているからにちがいない。そうか。その仕組みを探るために、まずは「ある」世界の理解からはじめよう。

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この世界の仕組みと、この世界でどう生きるかは、密接に関連しあっているけれど、本質的には別の問題だ。まずは世界の仕組みを理解する。そして、その仕組みにうまく合った生き方を実践する。「遠きに行くには必ず邇(ちか)きよりす」。ものごとには順番がある。

H・ヒルネスキー