1964年、イギリスで『アニマル・マシーン(Animal Machines)』が出版された。記者で、動物愛護活動家でもあるルース・ハリソンが、60年代のイギリスの家畜に対する残酷なあつかいを取材し、利益重視の工業的畜産の現状を「告発」した内容は世界中に衝撃を与えた。そしておよそ50年後。まだ学生だった私はこの本に出会い、同じく衝撃を受けた。
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1年ほど前、猟師の話を聞く機会があった。狩猟の道具や狩猟期間、害獣を捕らえる罠について話してくれた。彼らの仕事は、行政からの依頼でシカやイノシシなどの駆除をおこなう。駆除した動物は、できる限り苦しませないように殺処分し、ジビエとして「命」をいただく。
話を聞き、害獣だとしても殺すことに違和感を覚えた。農作物の被害を防ぐために殺処分をおこなう。何も被害を及ぼしていない動物が罠にかかったらどうするのか。被害を及ぼす可能性のある動物を処分することが本当に必要なのか。そもそも、動物たちが山から降りてくるようになったのは私たち人間の責任ではないか。すべては人間の勝手な都合。
しかし、そんなことを思いながらも、目の前に出されたジビエを食べている自分がいた。店で肉を購入する自分がいた。その矛盾が恐ろしかった。これまで動物のことを考えているようで、何も考えていなかったことに気づく。狩猟の殺処分については問いただそうとするが、家畜の屠殺は見て見ぬふり。
それからは悩んだ。いっそのこと肉を食べなければいいのか。そうすれば抱えた矛盾はなくなるのではないか。いや、それは自分の罪悪感をなくすだけ。どこか違う。肉を食べること自体を否定するような考えは安直な気がしてならなかった。
どうするべきか。発展途上の考えで実践していることがある。それは肉を食べる頻度を減らすということ。家では野菜中心の食事にする。外食時はできる限り肉料理以外を選ぶ。ときには大豆ミートと呼ばれる代替肉を選択肢に入れることも。これにより食の幅を広がり、少しずつだが、肉を食べる量が減ってきた。
肉は食べたいけれど、その量を減らせば自分の罪悪感を少しでもなくせる。他者から見ると、そう見えるか。そうなのかもしれない。自分自身、これが正しい選択かはわからない。ただ、この取り組みのおかげで命をいただくという意味がより鮮明になったと思う。
自分が持っている知識で考えた結果がいま。数年後には考えが変わるかもしれない。別に正解なんて求めてないし、あるとも思わない。だけど、命をいただいているということは、決して忘れたくない。
岡部悟志