“Attendre et espérer.(待て、そして希望を持て)”というのは、アレクサンドル・デュマ『巌窟王』に出てくる主人公エドモン・ダンテスのセリフで、小学生のときにはじめて読んで以来、ずっとこころに染みついている。もちろん子どもには未来がたくさんあって、どんな可能性でも肯定できる若さにあふれているから、待て、のことばにも現実味があるというか、夢があるわけで、希望なんて、あえて口に出さなくても、待て、の中にすでに含まれていた。待て。待て。
そのうちに月日は流れて、未来の幅が少しずつ狭まっていく。それは子どもが体中から全方位に向かって発散している途方もない可能性や無尽のエネルギーが、しだいにある方向に収れんしていくような、たとえてみると、お釈迦様の後光があるときレーザービームのようにひとつの束になってある一方向を照らすとしたら、その光の強さはかなりのものだと思うけれど、つまりはきっと、この世に生きている生身の人間として、自身の残り時間が短くなってきたときに、自分の持っているエネルギーをどう使うか、その工夫の表れなんだ。
ところが人生というのは、子どものころに思い描いていた未来とはずいぶん違うものになる。そんなことは当たり前といえば当たり前で、たいていのことは思い通りに運ばない。自分のからだひとつで空を自由に飛び回ることはできないし、どこでも好きなところへ一瞬で移動したり、過去や未来にいって重要な決断をやり直したりすることはできない。そう、人生とはやり直しのきかないもの。だから、人生をやり直そう、なんてファンタジーの中に住んでいる人が言うセリフだ。
どうしてもあきらめきれないものがあるとき、子どものころは、よく盗んだ。駄菓子屋さん、近所のスーパー、おもちゃ屋さん。ほしくても手に入らないものを、どうにかして、手に入れたいという気持ちを直接的に満足させる方法は、ジャイアニズム。おまえのものはおれのもの、おれのものもおれのもの。もちろん、小学生のすることなんてすぐに親にバレる。家の中に買った覚えのないおもちゃやお菓子があるわけで、それにすぐ顔に出る。店にあやまりに行かされて、おもちゃであれば返し、お菓子であれば代金を親が払って、怒られて、泣かれて、あやまって、それでおしまい。
おとなになるにつれて、そういう直接的な行動に出ることはしなくなっていくのだけれど、それは、どうしてもあきらめきれないものが無くなった、消滅した、あるいは物欲から解脱した、というわけではなくて、たんに我慢することを覚えたにすぎない。手を出したくなる気持ちを抑えて、待て。ただし、希望もなにもあったものじゃない。待ての先にあるのは、それと引き換えに与えられる罰や利益との比較衡量。よく考えろ、もっといいタイミングがあるはずだ。待て。待て。
そんなこんなですっかりおとなになって、人生の残り時間を想うお年頃になった。自分自身のエネルギーの使い方が上手になったかどうかはわからない。いまでも未来を描くし、空を飛ぶ夢を見るし、無限の可能性を信じているし、その割には将来の計画とか、何年後の目標とか、そういう未来を狭めるものはまったく持ち合わせていなくて、相変わらず、やりたいことをやりたいようにやっている。もちろん生活の糧がなければ生きていけないわけで、仕事という意味ではどうにか食べていけるだけの成長ぶりは見せられている、のかもしれない。
しばらくはどうもこういうふうにして生きていくんだろうなあと思っていたら、やはり人生は思い通りにならないもので、どうしてもあきらめられないものに出会ってしまった。こんどはモノじゃなくて人間だから、盗んでやろうとか、自分のものにしようとか、そういうわけにはいかないし、所有や支配で満足をおぼえるような、たんなる欲望の対象ではなくて、でも、いつも、いつでも心の交流ができるといいのになあ、と淡い希望を抱いている。もっとも、こっちにはそういう気持ちがあっても、あちらさんにはそういう気持ちがあるかどうかはわからない。わからないなら、直接本人に確かめるのが手っ取り早いに決まってる。とはいえ、いまとなってはいろいろ事情が込み入っておりまして、ムニャムニャ。
そこで、待つ。わたしは待つ。そこには希望があるから。いや、これは現実逃避か。はたまた現状維持による被害拡大防止なのか。いや、いや、いや。待てば海路の日和あり。待つ。待て。待とう。でも、そのあいだにも時間は流れて、未来の幅はどんどん狭くなってゆく。それにしても、心の傷をいやすのはただ時間のみというから、じっと見て見ぬふり、聞いて聞かぬふり、気になって気にならぬふりを続けて、もう1年を過ぎた。なのに、深い傷口はいまだ塞がらず、ちょっとの振動で、刺すように胸が痛い。
さりとて、待つことのほかになにができる? 希望を持ち続けることができる? いやはや、なにをか言わんや。そういう考え方そのものが自分を守るための方便であって、真実から目を背ける第一歩だろうに。我慢を覚えたおとなのすることなんて、しょせん真実から目を背けて、自分の世界を守ることだけ。ああ、胸が痛い。
待て、そして希望を持て。エドモンというファンタジーを現実世界に引っ張り出してまで、きょうもわたしは待っている。
H・ヒルネスキー