これからは新生活様式でやっていくのだという。いつのまに決まったのか、さっぱりわからない。それでいいですよと言った覚えはないし、それでいいですかと聞かれた覚えもない。ある日、エラそうな肩書き人が、こっちの顔にはいっさい見向きもしないで、こういうふうに暮らしなさい、と言う。冗談じゃない。暮らしかたなんてのは、自分が決めるもので、人様にとやかくいわれるものじゃない。そういうことを言っていいのは、自分の親だけにしてもらいたいね。実に馬鹿馬鹿しい話で、相手にするのもおかしいやと思っていたら、案外そんなふうに感じる人は少ないようで、どうにも参った。てめえの人生、他人に決められて平気な顔してる奴ばっかりだ。

 

ソーシャルディスタンスを守りましょう。こいつはどうやら家の外だけじゃなくて、家の中にも入り込んでくるらしい。できれば2メートル、最低でも1メートル。ようするに、体と体が触れ合うのはダメですよってことだ。それなら、この新生活様式がはじまったら、この国に子どもは産まれない。男と女が触れ合わなけりゃあ、子どもはできないんだから。来年の春は出産数ゼロ。そうじゃないと、陰口たたかれちゃうね。あそこのご夫婦はねェ。我慢できないのかしらねェ。まったくもってくだらない。

 

人間は、人と人との間に生きる社会的存在だ。人と人との間があいてたら、生きていけない。「人という字を書いてみなさい。互いに支えあっているんです」なんて、金パチ先生の授業も、ソーシャルディスタンスの時代になったら台無しさ。自分の右手でぜったいにつかめないものって、なーんだ。小学生がやるなぞなぞに、そんなのがあった。答えは右手の手首。輝いていたころの槇原敬之は「ぼくの背中は自分が思うより正直かい? 誰かに聞かなきゃ不安になってしまうよ」と歌った。そういうもんさ。だれか、自分じゃない人がいて、はじめて自分が存在できる。存在を確かなものにできる。それが人間の生きる道だ。

 

なんでこんな世の中になっちゃったんだろう。なんて、聞くだけ野暮。なんで、なんて、みんな考えて生きてない。ちょっとでも考えてる人がこの国の半分もいたら。いや、そんなことを考えてみること自体が野暮なんだ。現実を見なさいよ。半分どころか、万分の一もいやしない。それもこれもぜんぶコロナのせい。そんなわけあるか。それもこれもぜんぶ、いままで積み上げてきた自分たちの行いの結果です。「わざわい」という意味を表す漢字はふたつある。「禍」は人がもたらすもの、「災」は自然がもたらすもの。「コロナ禍」とは、ずいぶんピッタリと言ったものだネ。

 

この道は、なにかヘンだ。なにかおかしい。なにか違う。そう思ったら、立ち止まる人であれ。地図を見て、景色を見て、風の音に耳を済ませる人であれ。道を間違えたときには、もと来た道まで引き返せるように、印をつけて歩く人であれ。ほんとうに強い社会は、おかしいと感じたことを、おかしいと言い、いったん立ち止まり、風の音に耳を済ませ、ときに引き返すことのできる社会なんだ。

 

H・ヒルネスキー