「すべての道はローマに通ず」ならぬ「すべての小説はドストエフスキーに通ず」という言葉を耳にしたのをきっかけに、いままで敬遠していたドストエフスキーの小説を読むようになった。『罪と罰』を読了し、現在は『カラマーゾフの兄弟』を読んでいる。しかし、ロシア文学では登場人物の呼び名がコロコロ変わることもあり、とにかく先に進まない。また、キリスト教になじみの薄い自分には、傑作だと名高い「大審問官」のすばらしさがいまひとつ理解できない。正直苦行のような気持ちで読んでいる。

 

時代をこえて読み継がれてきた古典を理解したい。けれども、自分の知性や経験が残念ながら追いつかず、楽しむことすらできない。そもそも娯楽であるはずの読書で、わざわざ苦しい思いをしなければならないのだろうか? これらのジレンマと「読書が楽しめない」というコンプレックスが相まって、しばらくの間『カラマーゾフの兄弟』を読み進めることができなかった。

 

この問題を解決したくて、「どうしたら読書を楽しめるようになるんですか?」と難しい哲学書や古典を好んで読んでいる知り合いに聞いてみた。するとこんな答えが返ってきた。

 

「楽しむ必要はないんじゃない? 自分も『意味わかんない』と言って苦しみながら読んでいるよ」

 

てっきり楽しいから読んでいるのだと思っていたので、意外な返答におどろいた。同時に、「楽しさ」にもいろいろな種類があることに気づいた。古典を読むといった「知的好奇心を満たすような楽しさ」は、YouTubeやSNSを見るといった「受動的な娯楽」とは種類がまったく違う。頭を使うからこそ得られる楽しさには、苦しみをともなうのが当たり前なのだ。

 

いまの私には、ドストエフスキーを理解するだけの知性や人生経験が足りていない。けれども、10年後、20年後に読み返したときに、いまより理解できている自分でありたい。そのためにも、まずは『カラマーゾフの兄弟』を読了したいと思う。

 

マリエ・アントワネット