イスラム教徒(ムスリム)が左右の手を使い分けるということを、ムスリムである夫に出会って自分自身も改宗するまで、わたしは知らなかった。最後の預言者であるムハンマドの言行録『ハディース』にそのことが書かれている。ハディースには礼拝の作法や服装など、ムスリムが遵守すべき慣行がこと細かく記されている。

 

たとえば、食事の際、素手で食べる場合も、フォークなどのカラトリーを使う場合も、両手を使わなければならない状況を除いて、食べ物は基本的に右手で口に運ぶ。また、親戚や友人と会ったとき、ムスリムは同性同士で握手をしてあいさつをする。その際も必ず右手を使う。

 

逆に、トイレで用を足したあと、きれいにするのには左手を使う。手そのものに浄・不浄はないが、基本的にきれいなものには右手を、汚いものには左手をと使い分けている。

 

この「右手・左手ルール」が、簡単なようでいてなかなか身につかない。というのも、わたしは右利きなので、すでに右手が使用中のことが多いからだ。右手でパソコンのキーボードを操作しながら左手でコーヒーを飲むような「ながら」に慣れてしまっていて、これを逆にするのがなかなか難しい。

 

作業に集中しているときに話しかけられると、つい左手が出てしまう。一度、レストランで会計をするときに電話がかかってきて、右手でスマホを取り出しながらうっかり左手で代金を渡してしまい、あとで夫に注意された。ムスリムにとって、左手でお金を渡すことは大変失礼な行為なのだ。

 

それにしても、なぜこのようなルールができたのだろうか。もしかしたら、衛生状態がいまほど良くなかった時代、右手と左手を使い分けることで感染症を予防していたのだろうか。それはもちろん人智を超越した存在である神のみぞ知る、なのだが、わたしはときどきこう思う。

 

ムスリムにとってその根拠はそれほど重要ではなく、「神の定めた決まりを守る」こと自体に意味があるのだと。神のルールに忠実に従う、それはつまり教徒として良い行いをしていることの証であり、それによって信仰心を示すことができるのだ。「私は神を心から信じています」と何百回言うよりも、無言実行、態度で示せということだ。

 

と、頭では理解していても、長年の生活で身についた両手の使い方を修正するのは容易ではない。教えが体に染み込み、敬虔なムスリムになれるまで、まだまだ時間がかかりそうだ。

 

サルマ