俳句をはじめた。
その瞬間に見た景色や感じた想いを俳句で表現する。自分が心地いいと感じるリズムや、ふと思いついたフレーズを詠む。何を詠んでもいいし、どこで詠んでもいい。スピーディーかつ、濃密な時間が俳句にはある。
年末年始を岐阜の田舎で過ごした。霜の降りた朝。畑の側を歩いていると、足元からザクッと音が聞こえた。何かを踏んづけたと思い、そのまま足を上げる。残っていたのは足跡と湿った土だけ。ただ、足跡のまわりには霜柱が土の中からニョキっと伸びていた。白い息を吐きながらその霜柱をじっくりと見る。
草木より 先に芽を出す 霜柱
この感情を俳句にしたらどんな感じかな、と、やさしい気持ちで考える。その時間はとても丁寧で、心地がいい。何も上手な俳句を作ろうと熟考する必要はない。かといって、キレイな言葉がすらすらと出てくるとも限らない。俳句を詠みたいと思ったときに、ちょっとだけ考える。思いつかなければそこで終わり。俳句は無理に作るものではない。
自由律俳句というものがある。五七五の定型俳句に対し、定型に縛られない俳句のことをいう。尾崎放哉や種田山頭火らが自由律俳句の著名な俳人。季節のことを詠む必要はなく、感情を言葉のリズムだけで表現していく。
花粉で目が真っ赤になることがある。かゆくて、かゆくて、どうしようもない。ただ、目を擦ってしまえばさらに酷くなる。それはわかっている。だけど。
かゆい目に指
自分にとって心地いいと感じる言葉のリズムを、そのときの感情と組み合わせる。言葉の意味だけでは足りない感情を、言葉のリズムで鮮やかにしていく。言葉を紡いでいく。
遠いように感じる俳句も、日常に落とし込むことができれば、身近に感じることができる。上手にやろうとする必要はない。まずは中へ入ること。その一歩がなければ、関心は無関心になってしまう。俳句だけではない。何かに挑戦するとき、身のまわりを固めることだけに時間を費やし、行動には移さない。それではいつまでたっても遠いまま。さらに離れていくだけ。
身かるく やよいの朝に 意おもく
年が明けたら、あっという間に春がやってくる。それよりも少し寒いくらいに、はじめるのがちょうどいいのかも。
岡部悟志