娘と灘に行ったあの日、この詩を読んで
涙しながら問題を解いていた男の子たちがいた。
一体、どんな気持ちであの詩にふれたのだろう。
一部では「冷静さを試されている?」とか
言われていたけど、精神力を試すのなら、
灘ならもっと別のことで試すことができるはず。
試すとか、試さないとか、そんなことじゃない。
答えのない世界で、この痛みを、
見て見ぬふりをする大人にはならないでほしい。
ここに挑んだものとして、
この痛みを、どうか忘れないでほしい。
私はこの問いに、祈りのような願いを感じていた。
けどー
それだけじゃないことに気がついたので、
寒い日の朝の通学路で、娘に話しをしてみた。
「この詩には、もう1つ、
灘からの大切なメッセージが込められているよ」と。
* * *
この詩は受験生だけでなく、
おそらく、子どもたち、保護者、先生、
周囲の人にも向けられたメッセージがある。
詩の中の「かずじゃない おなまえがあるの」の表現、
これは点数や偏差値といった「数字」で見ることに対する
強烈なアンチテーゼではないか。
灘を受験する受験生の子どもたちの足に
黒い油性のマーカーペンで書かれた数字はない。
だけど、もっとよく見てほしい。
みんないつも言っている偏差値、点数、順位・・・
子どもたちの足には、
透明のインクで数字が書かれていないだろうか?
ガザと日本は場所が違うけど、
周囲の大人は子どもたちを一人の人間として
尊厳をもって大切にできているのだろうか?
そして受験番号。
この詩を扱うと決意した灘自身も矛盾をかかえている。
点数で合否を決め、番号で合否を伝えることになるからだ。
灘自身も、矛盾と向き合いながら、
ガザの子どもたちを数字で語らないでほしいと願っているだろう。
この世の中は矛盾だらけだ。
親も周囲も、塾も学校も。
善悪さえも壊されていく世界で
どうか君たちは、他者を数字で語る人にならないでほしい。
数字で語られてきた君たちに
そんなことを言うのも、またそこに矛盾があるのだけど。
この先、娘と同じクラスの男の子たちは
「灘中の過去問2026」でこの問いと出会うだろう。
だけど現実世界では「過去問」ではない。
今後、10年後、20年後も
灘が存続し続ける限り、多くの人がこの問いにふれるだろう。
いつかこの問いを、解いてくれないか。
灘に行きたいと願い、ここに辿り着いた君たちにー
そんな願いをを感じた。
考えすぎかもだけどね。
* * *
ママはそんな風に感じたよ、と話しをした。
すると娘は、
「もしそうだとすると・・・
ええ!? ママ、鳥肌がたった!
灘すごい。わたしも灘に行きたい!」
と言って、驚いていた。
いつかこの子も、
彼らと同じように数字をまとうだろう。
偏差値、点数、順位・・・
将来、それに嫌気がさしたとして、
たとえそこから離れたとしても、
SNSのフォロワー数、いいねの数、再生回数・・・
たくさんの数字と出会うだろう。
そして彼女自身もまた、
他者を数字で語るかもしれない。
その時、この詩を思い出すことができるだろうか。
透明なインクの下にある、
生身の人間の声に耳を傾けることができるだろうか。
数字には善悪もない。
だけど数を使う側、読む側の人間は
その時、人の声が聞こえるだろうか。
数字で語られることをいやがりつつ、
数字で判定される世界に挑む子どもたち自身も、
世の中の矛盾に気がつくだろう。
数は、ときに人から尊厳を奪うものであること、
それを心に刻んでほしいー
算数の日本最高峰、灘中学校からの問い。
人類が解くことができていないこの数の問いを
いつかこの子たちは解いてくれるだろうか。
そして、灘とこの詩と出会えた私たちは、
10年後も20年後も、
心に刻むことができるだろうか。