『ルソン島 悲劇のゲリラ討伐作戦 ~秋田県・歩兵第17連隊~』 | da sowshall

『ルソン島 悲劇のゲリラ討伐作戦 ~秋田県・歩兵第17連隊~』

『証言記録 兵士たちの戦争 ルソン島 悲劇のゲリラ討伐作戦 ~秋田県・歩兵第17連隊~』

太平洋戦争末期、日本軍と米軍が激戦を繰り広げたフィリピン・ルソン島。秋田・歩兵第17連隊は、米軍に圧倒され、食糧や武器の補給も断たれるなか、過酷な持久戦を強いられた。しかし、この戦いで第17連隊を最も苦しめたのは、米軍と連携し、諜報活動や度重なる襲撃を加える抗日ゲリラの存在だった。兵士たちはゲリラの粛清を命ぜられ、今も消えぬ苦しみを抱いている。元兵士たちの証言から、ルソン島の戦いの悲劇に迫る。

ゲリラ討伐すなわち民間人の虐殺。誰がゲリラであるかが判別できない以上、村民は「わらし」にいたるまで殺した。女性には「殺されたくなかったら、尻を出せ」と迫り、抵抗すれば殺した。手や紐で首を絞め、銃剣で刺殺する方法はひとそれぞれだった。鎖骨の内側に銃剣を突き立てるとスッと心臓に達するらしい。玉砕を赦されぬ部隊は、飢えに苦しみ、人肉食にいたる。飯盒で人肉を煮ると白いあぶくが立ち、それとわかったという。
民間人の虐殺について、絶対に死ぬまで話さないし、書き残しもしない。地獄のことを生の場所では話せない。どう訊かれようが、「分からない」としか答えない。分からないことは答えようがないでしょう? と静かに笑う老人。
現在の自分の家族のことと重ねて考え、戦後虐殺の経験に苦しみ続けてきた老人の言葉が印象的だった。「なんでやったかなぁ。なんでやってしまったんかなぁ」
命令には誰も逆らえなかった。それは軍法における死刑に直結し、日本の家族も「世間」によって生きづらくしてしまうからだ。
もうひとつ。ゲリラと米軍の激しい攻撃に晒されながら、今日生き延びても明日死ぬ。あした生き延びてもいずれ死ぬ。生きるってこんなに苦しいことなのか。先に死んだ戦友がうらやましかった。という回想。生と死は紙一重だったという別の言葉とあわせて考えると、非常に重い。