閑話休題 釈迦仏教の「諸法無我」と大乗仏教の「真我」

 

 

「9月8日のフェイスブック」で「どこにも不変の自己など存在しない(無我)・(諸法無我)」と書きました。「上座部仏教」、ならびに「マインドフルとACT」の「無我」を紹介しました。今回は、大乗仏教の「我」を紹介させていただきます。

「そして、すべてのものごとの真実のありよう(法相)は、生じたり滅したりすることはなく、本来<>であります。

何を罪とし、何を福とするか。自分の心というものもおのずから「空」なのだから、これが罪であり、これが福であると定めることこともできない。一切のものごとは、このように」固定した実体があるのではなく、不生・不滅なのである。―こう懺悔して、われわれの心というものをよくよく観察してみると、これが心だと思っていたのは、ほんとうの心ではなくて迷いの、雲に過ぎず、また世の中のすべてのものごと(法)も、凡夫がその五官でとらえるようなあり方でしっかりと実在するものではない(法の中に住せず)ということが分かってくるのです。」「法華経の新しい解釈」p728

 そこで、人間がその世界を悟るには、無常なものへの執着から離れて常住のものを見る修行を完成して、はじめてそこへ到達できるわけです。

<我波羅蜜に安立せられたる処>・・・この我は、真我ということです。われわれが、これが自分だと考えて執着する心身の<>というものはないのだと、仏さま否定されました。そして、そういう現象的な<>の奥に、真実のわれすなわち<真我>が存在し、それは常住不変の実在であり、真の涅槃の境地であると説かれました。実相世界とは、そのような真我によって成り立ち、つねに安定した世界であるというのです。

したがって、実相世界というものは、われわれがその<真我>というものを徹底的に観ずることができたとき、はじめて悟りうる世界だというわけであります。」

「新釈法華三部経 10」p165