02 唐子松



 天御月が付けた髪飾り。それが宿す色。一体それの何が、咲の口を閉ざさせるのか。

 “名付け”は確かに首輪の面を持つ。だが同時に互いを繋ぐ絆でもある。人間側は気付かない事が多いが、それは相手を知るための最たる手法でもある。“名付け”の絆がなければ、咲の言葉をそのままの意味に受け取り、言葉が続かなかったかもしれない。真名で呼ぶと言った主の言葉を、己が不要になったも同然の意味と受け取って。そうならずに済んだのは、偏(ひとえ)に“名付け”のおかげである。

 好ましい色の情報は、それほど深層にある訳ではない。唐子松と咲の関係なら、容易に知る事の出来るものだ。だが、好ましい色を知っていても、それを隠している事には気付かなかった。あまり踏み込めば咲に不快感を与えるだろうし、何よりそれで軽蔑されるのが怖かった。咲を守る上で重要度の低いと思われる情報は、追々訊けば良いと考えていたのもある。

 母親によれば、唐子松が来る前と後で、咲の様子はがらりと変わったという。確かに、最初の頃は苗字を教えるのを躊躇っていた事もあった。恐らく、好ましい色の話題を避けるのも、彼女には何らかの意味あっての事なのだ。

 いつか、聞けるだろうか。その時、咲にとって信頼出来る相手に、なれているだろうか。

 ひとまずは怒りを収めてくれた主に従い、唐子松は先ほどから前屈みの姿勢になっている。そうしないと届かないと言われたせいだ。咲は型が同じで色の違う洋服を傍らに並べ、一つずつ唐子松の体に当てては、首を傾げたり唸り声を上げたり、どういう基準か戻した服を仕分けたりしている。

 和服に使われる織物と違って厚みがあり、ふわふわしている布地だった。咲に次々と服を当てられている間、唐子松は袖の部分を摘まんでは触り心地を確かめるものの、素材まで思い至らない。今の流れをようやく理解し始めた唐子松に“化学繊維”という単語もその存在も、まだまだ遠い存在である。

「咲」

「なーに?」

「この服には、何か名称があるのか?」

「タートルネックだよ。えっと……タートルって亀の事ね。こうやって首の詰まった服の事、そう呼ぶの」

 言いながらまた唸り出す咲。機嫌は大分直っているようだが、どこか不満げである。

「どう……した?」

「振袖の赤は似合うのに、タートルネックの赤だと違和感あるの何でかなぁって」

 現在唐子松の体に当てられているのは、確かに赤のタートルネックだった。いつも着ている振袖の赤よりは若干明るめに見える。模様はなく単色のそれを前に、咲は延々唸り声を上げているのだった。唐子松としては洋服という未知の領域を前に、己に似合うものがどれかなど見当もつかない。

「それは色というより服のデザインの問題じゃないかなー。あーでも確かにそれはビミョーかも。もうちょっと落ち着いた色の赤なら似合うかもねー」

 延々唸り声を上げる咲を見かねたのか、雅が会話に入ってくる。彼女は持っていた服を天御月に預けると、咲と並んで唐子松に服を当て始めた。

「単色ではなく、柄や他の色の入った型だと印象が変わるかも知れませんよ?」

 服を抱えたまま天御月が言い出し、女性組が新しく選んできた服を次々と唐子松に当てる。

「……好きにしてくれ」

 これで咲の機嫌が直るなら安いものだ。微妙な表情を崩せないものの、唐子松は諦めた調子で呟いた。



 深緑と白のタートルネック。今着ているような白いシャツと、芥子色のシャツ。焦げ茶のズボンに黒のコート。会話に使われた単語に理解が及ばないまでも、咲と雅の会話からそれらが選び出されたのは何となく把握出来た。だが、唐子松は結果などどうでもよくなっていた。

 長時間同じ姿勢を続けていたせいで、体がすっかり固まってしまっている。

「雅。少し“休憩”してきても良いですか?」

 見かねたのか、会計に向かうという雅と咲に向け、天御月が言った。意味ありげな言葉の響きに唐子松が顔を上げると、彼は言葉通りの笑みを浮かべていた。

「いいよー。あ、そうだ唐子松さん」

「……何だ?」

「ついでだからちょっと咲ちゃん借りて良い?」

「それは俺ではなく咲本人に了解を取ってくれ」

「分かったー。じゃあ借りるねー。いってらっしゃーい」

「え? え?!」

 ……それは了解を取ったと言わない。

 驚き戸惑う咲の背を押してそそくさと立ち去る雅に唐子松は思ったが、反論するだけの元気はなかった。

「雅はあれで面倒見が良いですから。危害を加えるような真似は致しませんよ」

「別にそんな事は考えていないがな。咲が迷惑しなければ良いと思っただけだ」

「そうですか。ならば良いのですが。……参りましょうか」

 天御月がそう口にした瞬間、唐子松は空気が変わるのを感じた。人間の気配が遠ざかり、冷たい空気が頬を撫でる。緑の匂いが濃くなり、唐子松にとって慣れ親しんだ気配が辺りに満ちる。

 隠裏世だ。

「……休憩、か」

 木々に覆われた空を見上げ、自分の為だけに言い出したのではないなと確信する。

「人間に化けるというのも、なかなか疲れる作業でな」

 全く隠すつもりのない強大な霊気。体から淡く発せられる金色の光。長い金髪に同じ色の長い獣耳と枝分かれした尾。白と薄紫の狩衣に身を包んだ狐の神。顔立ちだけが、人の時と変わらない。

「なら何故人の子を娶るなど考える」

「我とて、雅が言い寄ってこなければそんな事は考えぬ」

 唐子松の言葉に、天御月はあからさまに不快な顔をした。耳の間に挟まれるように載せられた烏帽子を外し、手の中で弄ぶ。

「我の許に来ると言う事は、人の時間から外れると言う事。だと言うにあの娘は我の許に来ると言って聞かぬ。説得してくれる者がいるなら頼みたいものだ。貴殿も先程までで悟った事と思うが、雅は押しが強い娘での。言い出したら聞かぬ」

「人の子など、お前には取るに足らぬ存在であろう? 断るのは難しくないはずだ」

「貴殿は、雅のあの押しの強さを前に断る力があると」

「…………ないな」

「だろう?」

 そもそも断る力があれば、洋服など着ていない。いや、咲が望んでいるのを悟ったからこそ、こうしてこの場にいる訳なのだが。

「まだやる事があるから待ってくれと言ってくれてな。雅は己が為に言ったのだろうが、我にとっても今は貴重な猶予なのだ。我の答えが雅の一生を左右すると思うと、なかなかどちらにも踏み切れぬ」

「秋時雨は? 知り合いだろう?」

 雅は咲と同じ学校に通う慧羽月司の姉である。実家は神社で、秋時雨という稲荷神がいる。現状、彼女が最も口を出せる立場にいるはずだ。

「あぁ。だがあやつは雅が望むままにすれば良いと思うている。ついでに我もあの神社、界隈を守護する役を負えば尚良いと考えているだろうな。全く。我の悩みなど考慮しとらん」

「……野良なのか?」

「今はな」

 昔に比べ、神も物の怪も妖怪も過ごしにくい場所になったとは知っている。だが、拠点となる社を持たぬ天御月を前に、寂しさを覚えずにはいられない。こうして忘れられていくのだと。捨てられていくのだと。そう思うと、彼が雅に対する想いに悩むのは、仕方ないと思える。

 彼女たちのような理解者は、今となっては貴重だ。

「貴殿は?」

「え? ……あぁ。俺と咲はそういうんじゃない。主従だ」

「本当に?」

「…………」

「本当に、それだけですか?」

「何故突然人の話し方になる?!」

「いや、何となくだが」

 動揺する唐子松を尻目に、天御月は余裕の笑みを浮かべる。相手は神だ。物の怪よりも、隠し立てできる範囲が狭い。

「俺は……俺は、咲がどの道でも選べるよう、布石は打っている」

「ほう?」

「というか、俺は元々女子の成長を願う身なのだ。主にそんな感情は」

「ほーう?」

「……お前、思ったより嫌な奴だな」

「いつから私を『良い人』だと思っていたのでしょうか?」

「ほんっっとうに嫌な奴だな!」

 唐子松が怒号を上げようが、天御月は涼しい顔で佇む。唐子松としては嵌められたという思いが否めないが、先に失言してしまった以上、弁明するほど墓穴を掘るだけだ。

「そう怒るな。見た所貴殿は我より猶予があるように見える。その中で己が最善と思う行動を選べるのだから良いではないか。まぁ、我も同類を見つけたと思うて少々浮かれてしまったのは詫びよう。悪いとは思っておらんが」

「それは詫びとは言わん!」

「雅は」

 これ以上怒鳴られても面倒とばかり、天御月が冷静に言葉を挟み込む。唐子松は口を閉じると、不機嫌さをそのままに天御月を睨んだ。

「貴殿たちの関係に入り込む余地がないのなら、そのまま応援するつもりのようだった。だがもし少しでも隙間を見つける事が出来るなら」

「……男の子でも差し向けようとしているのか?」

「その通りだ」

 唐子松としては冗談で言ったつもりだったが、さらりと肯定されて勢いが萎えてしまった。天御月は“男の子”が誰であるか、正確に把握しているらしい。

「それも“やりたい事”の一つらしくてな。身内で弟ともなれば気にかかるだろう。雅は長女だが跡継ぎは弟に任せるつもりのようだし、我の所に来てしまえば早々手助けなどしてやれぬ。ともなれば気になるのは当然の事。見た所縁の繋ぎにくそうな男の子だったしなぁ」

「まぁ、近寄り難いのは確かだろうな。とはいえ、親しい者の為ならば身を挺するだけの度胸は持っておる。理解者がおればそう難しい事もなかろうて」

「……恋敵を随分と褒めるのだな?」

「薙刀を持ってくるんだった」

「貴殿に良い事を教えてやろう。それは銃刀法違反と言って、今の人の世ではご法度だ」

「知っとるわ」

 吐き捨てるように言うと、天御月は肩を震わせて笑った。

「まぁそういう訳だ。我らはなかなか良い相談相手になると思うでな。宜しく頼む」

「頼まれとうないが……そう言ってもお前は来るのだろうな」

「あぁ。今日雅についてきたのは居場所を把握しておく為だからな」

「ほんっっとうに」

「このくらいの強(したた)かさがなければ、とてもやっていられぬわ」

 次に吐き捨てるように言ったのは、天御月の方だった。相手の心境を悟り、唐子松も口調を和らげる。

「お前は……姉君の事をどう考えているのだ?」

「我が中途半端な思いで悩んでいると、貴殿はそう考えるのか」

 挑むように睨まれ、唐子松は肩を竦めた。

 天御月に雅を思う心がないのなら、初めから切り捨てれば済む話なのだ。それが出来ないでいるのは、人とそうでないものの世界の違いに悩むのは、天御月も。

「なかなかどうして、世の中は意地悪に出来ておる」

 はぐらかすように視線を逸らし、唐子松は腕を伸ばす。天御月が抱く悩みが、いずれ己も考えなければならぬ壁だと分かっていても、今は。

「とはいえ、暫くは俺の立ち位置は変わらん。せいぜい一人で悩んでくれ」

「……貴殿もなかなかに意地の悪い男だ」

 背後からの溜息に振り返ると、神は姿を消し、初め見た人の姿に化けた天御月がいた。

「そろそろ戻りましょう。雅が呼んでいます」

「あぁ」

 人の世に戻って来たものの、初めに立ち寄った店に二人はおらず。唐子松も天御月も己の内に響く主(もしくは婚約者)の声を頼りに進む。雑踏の合間を掻い潜り、少し開けた場所に出ると、ようやく見知った人影を見つけた。

「おーい。こっちこっちー」

「おや」

 雅の声に天御月が手を振り返すも、唐子松の方は言葉を失っていた。

「ど……ども」

 近付くと、咲が苦笑を浮かべるのが見えた。手を振る動きがぎこちないのは、唐子松の視線の意味を悟っているからなのだろう。

 服装が変わっている。

 どくん、と鼓動が高鳴るのを感じた。

「初めて会った時からコーディネイトしたくてたまらなかったんだよねー。かっわいいでしょー」

 硬直したままの咲の肩に手を乗せ、全て自分の手柄だと言わんばかりに微笑む雅。それすら唐子松の視界にはほぼ入っていない。

「ピンクベースのノルディック柄のセーターでしょ? キャメルのスカートに、ダッフルコートー。足はあんまり出したくないって事でタイツも合わせてみたよん。靴はショートブーツね。ほらほら~男子たち、褒め日和だぞ~」

「……私もその『男子』に入っているのでしょうか? そんな年齢では……いえ。よく似合ってらっしゃると思います。雅の趣味が全開の気もしますが……済みませんね、巻き込んでしまって」

「あ、いえ……」

「唐子松さんはー? 言う事ないのー?」

 名を呼ばれて我に返った唐子松は、主が不安に瞳を震わせて自分を見上げているのに気付いた。呆然と佇む姿を『褒め言葉が見つからない』と受け取られては困ると思い、慌てて口を開く。

「あ、あぁ。いつもと全然雰囲気が違って驚いた」

「……似合わないって、言って良いんだよ?」

「そんな事はない。月並みな事しか言えんで悪いが……よう似合っとるよ」

「ふぇ? ……あ、ありがと」

 もっと他に言葉があるのではないか。そう思ってもこういった場面に慣れていない唐子松には、それだけ言うのがやっとだ。幸い、咲には十分届いたらしく、彼女は頬を赤らめると俯いた。恥じらいの表情に、再び唐子松の鼓動が大きくなった。傍らに立つ天御月に気付かれては堪らないと、必死に取り繕う。

「ね? 言った通りでしょー。似合ってるんだって」

「は、はぅ……」

「まぁ事情はあるんだろうけどさ。自分の好きなものにくらい正直でないと。人生損しちゃうよん」

「私は……その」

 咲の陰った表情に、唐子松は胸が詰まる感覚を覚えた。己の感情ではない。主の感情が伝わってくるのだ。己の感情を沈めている所に訪れた激しい感情に戸惑いながらも、唐子松は口を開いた。

「無理せんで良い」

「え?」

「周りの為に己を作らんで良い。少なくとも今は、お前の言葉を否定する者はここにいない」

 見ようと思った訳ではない。探ろうと思った訳でも。恐らく、無意識的に主から助けを求められ、唐子松もまた無意識的に応じた結果だ。

 咲は周りからの糾弾を恐れている。苗字を明かしたがらなかったのは、苗字と名を繋ぐ音がからかわれ易かったから。好きな色を明かしたくなかったのは、名前の経験からくる心的苦痛が、同じ経験を繰り返したくないと願ったから。それらは同じ事を望んでいる。

 周りから否定されたくない。その思いは、唐子松もよく知っている。

 己が物の怪であるが故に。

「そうだねー。唐子松さんの言う通りっ! 言ったでしょ? あたしもその色は好きだよ。それに……ここで咲ちゃんに問題。あたしの車の色、何色だ?」

「へっ?! ……あ」

 ともすれば泣きそうに歪んでいた咲の表情が、突然の雅の問いに丸くなり、直後に拍子抜けしたように緩んでいく。強張っていた体から力が抜け、頬に赤みが差した。

 唐子松の中に宿っていた苦しみが引いていく。

「そゆ事。同じ色が好きな者同士、よろしくっ」

「あ……はい」

 雅の押しに引き気味ではあるものの、咲の表情が穏やかになったのを見て、唐子松は内心で安堵の息を吐いた。こうして少しずつでも、己を自由に出来る場所が増えてくれればと思う。

 主の幸せを願う者として。

「ところでさー、唐子松さん」

 咲を見守っていた所に不意に声を掛けられ、唐子松はびくりと我に返った。雅が意味ありげな笑みを浮かべてこちらを見つめている。

「……何だ?」

 相手の表情から不穏な空気を感じ取った唐子松は、早くも冷や汗を流す。

「もう一ラウンドいかない?」

「いちら……?」

 聞き覚えのない言葉に首を傾げると、咲が苦笑を浮かべた。

「この場合は、もう一回服屋さんに行かないかって、事だよ」

「まだやる気なのか?!」

「さっきは助言くらいしかしなかったからさー。今度はがっつりあたしが選びたいと思って」

「い、いや、もうこれ以上は……」

「いーじゃーん。折角来たんだし、この機会に色々試しておこうってー」

「いや、その……」

「咲ちゃんを楽しませてあげたいと思わないのー?」

「えぇ?! あ、いや、気にしなくて良いんだよ市松さん!」

「う……」

 気にしなくて良いと言われても、それが主の、咲の心を慰められるならと思ってしまうと、容易に断る事が出来ない唐子松である。

「ふふ。あなたも押しに弱いという点では私と同じですね」

「お前やっぱり嫌な奴だな!」

 逃げ場を失った唐子松は、自分は関係ないと言いたげに佇む天御月を腹立ち紛れに怒鳴りつけた。




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