01 咲



 休日の昼下がり。

 窓から差し込む光があったかくてほわんとしつつ、机に肘をつきながら市松さんとおしゃべり。ちなみに、市松さんは普段は人形の姿でいる事が多い。

 あ、『市松さん』って言うのは、私が無意識に“名付け”という行為をしてしまったらしい、女の子の市松人形を器に持つ男性の物の怪の事。本当の名前は『唐子松』。嫌いなのか億劫なのか近寄りがたいのか知らないけど、今の社会の流れに全く入ろうとしないスタイルを貫いている。

 例えば、『ケーキ』とか『パート』とか、今言った『スタイル』とか。そういう用語が通じない。意味を伝えるためには別の用語で説明しないとダメ。『小麦粉の焼き菓子』とかね。ざっくりニュアンス(あっと、この用語もそのままじゃ伝わらないわね)だけ伝えれば済む事が殆どだから、私としてもそんなに苦労はしないんだけど。

 でも、たまに思う事がある。

 そういういわゆる外来語って、普段普通に使ってるけど、意味を正確に理解して使っている用語って、結構少ないんじゃないかって。

 最近テレビ見てると政治家とかが結構使ってたりするけど、見てる側は結構ニュアンスだけ受け取っちゃってる感じがする。正確に言いたい事を受け止められないと言うか。たまに何言ってるか分からないし。そういう意図が働いてるのかもだけどね。でもたまに、ニュアンスすら掴めない用語が流れていく事もある。そういうのを演説に混ぜるとおしゃれな感じとかちょっと頭良いように見えたりとかするのかも知れないけど、大事なのはそこじゃなくて意味を正確に誰にでも伝えられる事じゃない? みたいな。

 あっと、話がずれた。でもね、こういう時に、私は市松さんの気持ちが分かるなって思うんだ。日本語で会話していたはずなのに、気付いたら間に知らない単語が混じって会話が意味不明になるって、きっとこういう感じなんだなって。

 長い間人間社会とは深く関わってなかったみたいだから、『慣れろ』って言われて『はいそうですか』は難しいだろうな。市松さんからしてみれば玉手箱を開けた浦島太郎みたいな気分だと思うし。言葉も文化も文明も、知らなきゃいけない事だらけじゃ大変よね。

 だから、今も昔も(と言っても限度はあるけど)知っている私の方が合わせれば良い。市松さんが困っていたら説明してあげれば良いじゃない。それくらいなら、いつも守って貰っている私でもしてあげられる。

 そう、思ってたんだけど。

「咲」

 市松さんに言われて、私は机に置かれていたスマホを見る。着信音と共に一回のみの振動は、メールの知らせだ。

「……先輩?」

 果たして、送り主は先輩で料理部の部長で神社の息子でもある、慧羽月司先輩だった。何事かとメールを開く。

『悪い。年齢の暴力に抗えなかった』

「……はい?」

 簡潔だけど説明不足すぎる文章に、私は首を傾げる。市松さんに「どうした?」と問われ、私はメールの画面をそのまま市松さんに見せた。

「何だと思う?」

「んー……?」

 今は人形の姿だから表情とか変わらないけど、唸り声聞いただけで悩んでるのが分かる。まぁ、市松さん物の怪だけど超能力者な訳じゃないから、文面だけ見て当ててってのは無理な話よね。

 でも、私たちがこの謎について考える時間は殆どなかった。

「咲ちゃーん、お客さんよー」

 階下で響くインターホンの音。それに続いてお母さんの呼び声。

「はーい!」

 私は咄嗟に大声で返事して、慌てて部屋を出る。階段を駆け下りて玄関に立って、そこで硬直した。

「どもー。遊びに来たよん」

 おどけて敬礼のポーズをとるのは、すっごく綺麗な長身の女の人。

「ええっ?! あ、あの……あ、こんにちは」

 予想外すぎて思わず素っ頓狂な声が出る。

 長い黒髪をポニーテールにして、白いシャツに青いデニムのズボン、茜色の秋物コートを身に纏っているのは、さっきメールをくれた慧羽月司先輩の上のお姉さん(先輩には二人のお姉さんがいる)、慧羽月雅さんだ。こういうおしゃれな服をさらっと着こなせるのは凄いと思う。デニムのズボンは一緒だけど、普通におしゃれ感ゼロのトップスを着ている私はどっかに隠れたくなるわ。

 でもそうか。先輩が言っていたのって、お姉さんの事だったんだ。……あの書き方はどうかと思うけど。

「いきなりごめんねー。今日、時間平気?」

「あ、はい」

「唐子松さん、いる?」

「はい、います。呼んで」

「あー呼ばなくて良い呼ばなくて良い。普段どうしてるか知りたいんだ。覗かせて貰っても良い?」

「えと、はい、どうぞ」

 雅さんは私の予定を聞きつつも有無を言わさぬ勢いで話を進め、居場所を聞くと楽し気に階段を上って行った。跳ねるように軽い足取りで上がっていくのに足音が全くしないのは、普段からこうなのか、何か凄い訓練でもしてるのか……って、別に神社の巫女さんしてるからってそういう訓練がある訳ないわね。でも、紙袋持ってるのに雅さんの動きに合わせて結構動いてるのに、全く音立てないのは……なんで?

「綺麗な人ねぇ」

 私の隣でほぅと息を吐くのはお母さん。説明を求めてこないのは、多分自己紹介されたんだろうな。私は同意の首振りを数回してから階段を上る。私の部屋の扉の前に、雅さんは立っていた。

「どうぞ」

 扉を開ける私に笑顔で頷いて、雅さんは部屋に入ってくる。入れてから思ったけど、私の部屋はそんなに片付いている訳じゃないし、服装からしておしゃれな雅さんからしてみればものすごくじみーな色合いの家具ばっかりだから、いろんな意味で見せるのが恥ずかしいなぁ。

 もう遅いけど。

「咲。外に……」

 さっきまでと変わらず人形の姿で机に座っていた市松さんは、私の後に続いて入ってきた雅さんを見て言葉を止めた。多分、人の姿だったら表情も固まってるところだ。

 そりゃ驚くわよね。私だってびっくりだわよ。

「えー意外! 人形の姿なんだ!」

 雅さんは部屋に入るなり驚きの声を上げた。紙袋を両手で持って前かがみになり、しげしげと市松さんを眺めまわしている。

「何が意外なのだ……いやその前に、何故ここに? それと、一体何を連れて来た?」

 既に狼狽した様子の市松さんの声。え、でもちょっと待って。市松さん『連れて来た』って言った? もしかして、あの紙袋に何かいわくつきのものでも入ってるんだろうか(あ、知らない人が見れば市松さんもある種の“いわくつき”だった)。

「あー。やっぱ分かっちゃうか」

 雅さんは笑みを浮かべて頬を掻く。仕草は申し訳なさそうだけど、笑顔にその影は微塵もない。後でドッキリにしようと思ってた仕掛けが事前にばれちゃった、とでも言いたげな、悪戯の見つかった子供みたいな顔だ。

「あーくんの事は後で紹介するよ。とりあえずさ、唐子松さん」

「……何だ?」

「何で人形の姿なの? さつきなんか一日のうち人形の姿になってる事の方が少ないよ? 別に人の姿になると負担が大きいとかそういう事、ないでしょ?」

 雅さんが言っているのは、訳あって先輩の家(雅さんの家でもあるんだけど)に住む事になった、五月人形に入ってしまった女の子の物の怪(つまり市松さんの真逆の立場って事)の、鎧武者ちゃんの事だ。本名が『牛丸』で全く女の子らしさがなくて本人も気に入らないみたいで、私なんかは『鎧武者ちゃん』と呼ぶ事が多い。

 でも変だな。市松さんの話じゃ、本来、“名付け”は名前を付けた本人しか呼べないって聞いた気がするんだけど……。と思って訊いてみようと開きかけた口を、私はぱくんと閉じた。市松さんの方が先に話し出したからだ。

「確かにそういう事はないが……人の姿は場所をとるだろう。話をするだけならこっちの方が都合が良い」

 市松さんは人の姿になると、雅さんよりちょっと高いかなってくらいの背丈になる。市松さんの言った言葉の裏の意味が分かった気がして、私は思わず口を開いた。

「……ごめんね、部屋狭くて」

「さっ、咲のせいではないだろう? 別にそういう意味で言った訳ではなくてだな」

 私の言葉に、すぐさま(声だけ)慌てふためく市松さん。声音だけでいつもの“捨てられそうな子犬顔”になっているのが想像出来る。

「効率とかだけ考えるならそれもアリだけどさ。それじゃ咲ちゃんから唐子松さんの顔は見えないじゃん」

「必要なら人の姿になる事もある。今日はたまたまそうじゃなかっただけで……って、何故お前に弁解をせねばならんのだ」

 相変わらず人形の姿だから表情は確かに分かんないけど、市松さんって声の表情が豊かだから結構どんな顔してるか分かるのよね。今は明らかに疲弊してる感じ。まぁ、唐突に来て質問攻めにされれば誰だってそうなるわよね。

「大体、何用で来たのだ。俺のやり方をとやかく言うためにわざわざ出向いたのではあるまい?」

「唐子松さんって、普段からこのカッコ? 他の服とか着る事ないの?」

「質問に質問で返すな!」

「ねーどっちー?」

「……普段からこの格好だ」

 市松さん、押しに弱い説。この場合は雅さんの押しが強いって言い方も出来る。というか多分そっち。

「って事は、咲ちゃんとどっか行ったりはしないんだ」

「まぁそうだな。呼ばれれば向かう事もあるが、最初から行動を共にする機会はあまりない。あっても人形のまま運んで貰っている」

 学校に用事があった時の事ね。文化祭みたいな行事のある時はまだしも、普段の学校に振り袖姿の男の人が現れたら大騒ぎになっちゃうからね。いろんな意味で。

「で? そろそろこちらの質問に答えては貰えんのか」

 市松さんの声が不機嫌さ丸出しで、さすがに雅さんもそれ以上の質問はしなかった。くるりと体の向きを変えて、満面の笑みを私に向ける。

「咲ちゃんは、唐子松さんとお出掛けしたいとかって思わない?」

「え」

 突然の問いに思考停止。でも黙ってる訳にいかないので、とりあえず素直に答える。

「考えた事……なかったです」

 市松さんと会ってから、どういう訳か妖物の類に絡まれる事が増えて。私にはとても事態の解決が見込めなくて。だからそういう時は市松さんに出てきて貰って対処して貰ってたけど、私にとって市松さんは、家に帰れば必ずいて、話す場所は殆ど自分の部屋で、それが当たり前で。どこかに一緒に出掛けたいとかなんて、全く考えた事がない。

 それは多分、市松さんが今の流れに全く乗ろうとしないスタンスを貫いているのを私が知ってるってのもあると思うし、外を出歩くには市松さんの格好はどうしても色々と難ありで無理っていうのもある。そんな感じで過ごすうちに、“市松さんは家にいる”っていうのが、当たり前になったんじゃないかな。前の家でもあまり外出はしてなかったって話だし、家で静かに過ごす方が好きなタイプなんだろうって思ってたしね。

 何より、私も外で周りに人がいる中で話すより、自分の部屋で静かに市松さんとおしゃべりするのが楽しいって思ってたのもある。

「そうなの? 全く? 全然?」

「はい」

 雅さんは私の反応が本当に予想外だったらしくて、目をまん丸にして驚いてる。

「そっかぁ。じゃあ、もしそういう機会があったら、行ってみたいと思う?」

 重ねられる問いに、一応は可能性として考えてみる、けど……。

 どこに?

「あ」

 そういえば、私が市松さんを誘ってどこかに行った事はなくても、市松さんに誘われて出掛けた事は何度かある事を思い出す私。でも、その話をしてみたら雅さんに微妙な反応をされた。

「それって、唐子松さんがあのカッコで出掛けられる範囲って事でしょ?」

「まぁ、そうです、ね」

 空の上も物の怪のお花見も、市松さんが市松さんだから行ける場所な訳で、当然、市松さんも物の怪として行くんだから見た目とか取り繕う必要はない訳で。

 つまり、雅さんが想定してる行き先は、妖物の集まる場所じゃなく、人間の集まる場所って事で。

 どこに?

「もう。唐子松さんが引きこもりを貫くから、咲ちゃんが『もしも』の想像まで出来なくなっちゃうんだよ」

「俺のせいなのか?!」

 唐突に話を振られて、ノリ突っ込みの勢いで叫ぶ市松さん。

「違うの? 唐子松さんがもっと積極的に人間社会に興味を示してたら、こうはならないんじゃない?」

「う……そ、それは」

「それは別に良いんですよ」

 私は基本的に、相手の意思を尊重したいって考えてる。だから、市松さんの場合は分からない事があれば説明するし、家で静かに過ごしたいって思いも否定したくない。市松さんがどういう理由で今の流れに乗ろうとしないかは知らないし、知って貰えば私の色んな配慮が要らなくなるのかも知れないけど、無理矢理乗せて嫌いになっちゃったら本末転倒。それに、全否定って訳でもない。

 既に繋がってる場合限定だけど、市松さん、スマホで電話使えるもの。現代の流れ全否定だったら、多分嫌がって触らないと思う。だから思うんだ。流れに乗る気はないけど、今の社会を否定してる訳じゃないんだって。だから私は、市松さんは市松さんのしたいようにすれば良いって思ってる。

「私は、市松さんが家にいてくれるだけで嬉しいですから」

 市松さんには随分助けられてる。対して、私に出来る事はあまりにも少ない。部活で作ったお菓子を持ち帰るとか、おしゃべりとか、そんなどうでも良い事ばっかりだ。せめて、自由にしていて欲しい。それだけは、今まで正体を隠して過ごしてきたどの家でも出来なかった事だと思うから。

「むー。思った以上に築いてるなぁ」

 雅さんは眉間にしわを寄せて、悩ましい声を上げる。

「ほえ?」

「……結局、お前は何用でここへ来たのだ?」

 再度なされた市松さんからの質問に、今度は雅さんも答えてくれた。

「いや、唐子松さんの事は司からも稲荷神様からも聞いてるんだけどさ。聞いた感じもしかして普通の外出はしないのかなって思って。唐子松さんが渋ってるだけなら説得しようと、お節介を承知で来たんだけど。ちょっと見当違いだったみたいだねぇ」

 言いながら雅さんは紙袋の中身を見せてくれた。何の物の怪が入ってるんだって私の予想は外れていて、あったのは白と黒と濃紺。畳まれてて詳細は分からないけど、洋服のセットだ。

「外に出るための服を買いに行こうって言っても、本人が振袖しか持ってないんじゃ無理があるじゃない? 前に唐子松さん私の服着て貰った時ほぼサイズぴったりだったから、じゃああーくんの服なら多分大丈夫だろうと思って借りて来たんだけど」

 そういえば、市松さん一回だけ洋服を着た(というか無理矢理着せられた)事があったわね。

 思えば私は市松さんが女性もの以外の服を着ている所を見た事がない訳で。外出うんぬんはともかく、メンズ服姿の市松さんはちょっと見てみたい。さっきまで市松さん側に立つ考えを示していたくせに、途端に手のひらを返した私は駄目な奴なんだろうか。

「着て貰ってみる?」

 無意識に紙袋の中身を凝視してしまった私に気付いた雅さんが、目配せで市松さんを示す。我に返った私は慌てて首を振った。

 いけないいけない。市松さんは多分私がお願いしたら嫌とは言えないだろうから。

「……貸せ」

「え?」

 声のする方に顔を向けた私はそのまま固まってしまった。

 いつの間に人の姿になった市松さんが、雅さんに向けて手を差し出している。但し、表情はかなり複雑そうだ。

「いっ、いいよ、市松さん。無理しないで」

 これは間違いなく私が物欲しそうな眼(という言い方がこの場合合ってるか分からないんだけど)で洋服を見つめちゃったのが原因よね。市松さんてば変な時に義理堅いと言うか、断れないと言うか、そういう所あるから私がああいう態度取っちゃいけなかったのに。

「構わん。……着替えている間は席を外して欲しいが」

「そりゃ勿論オッケーよ。でも唐子松さん、着方分かる?」

 雅さんの答えに「了解って意味だよ」と小声で注釈しつつ、私も雅さんに同意。

 振袖って確かに着るのに技術がいる服ではあるけれど、和服と洋服じゃ構造が根本から違う訳で。幾ら市松さんが技能を必要とする振袖を着られるからって、それで洋服が着れるかと問われれば別問題だ。

「カットソーとカーディガンは良いとして、パンツの履き方分かる? レクチャーしようか?」

「あ、あの、雅さん……市松さんはそういう用語が……」

 完全アウトだ(おっとこれも駄目だった)。今の雅さんの台詞、多分市松さんに一ミリも伝わってない。でも市松さんは仏頂面のまま「平気だ」と答えて、私たちは部屋から出されてしまった。いや別に自室から追い出された事に関して文句を言ったりはしないけど、これで本当に良かったんだろうか。市松さん無理してるんじゃなかろうか。

「咲ちゃん、ちょっと」

 私は雅さんに手招きされ、自室扉前から離れて階段を途中まで下りた雅さんの許に向かった。

「唐子松さんって、外来語とか駄目?」

 あ、私がさっき言った事、聞いててくれたのね。

「はい。注釈入れれば分かってくれますけど。普段の会話では使わないようにしてます」

「結構気ぃ遣ってるねぇ」

「危ない時守って貰ってますから。お互い様です」

「そか。まぁその辺はあなた達の方針だから口は出さないけど」

 既に市松さんの服装の件で私たちの方針からかなり外れた案を出されてるんですが。まぁ良いか。

「ガチで断られたら無理強いするつもりはなかったんだけど。この分だと買い物とか付き合ってくれそうかな?」

 あ、連れていく気なんだ。どうやら誰かと一緒に来てるみたいだし、その人の事あまり待たせても悪い……って、そういえば。

「あの、連れの方待たせてるんじゃ……」

「あーくんの事? 大丈夫だいじょうぶ。気が長いんだ」

 そういう問題なんだろうか……。しかしそう言われてしまうと、これ以上話題を広げられない。でも黙ってると市松さんにしてしまった仕打ちとも言える行動が不安で、何でも良いから言葉を探す。

 そうだ。さっき聞きそびれた事がある。

「あ、あの、雅さんって、鎧武者ちゃんの事、先輩が“名付け”した名前で呼べるんですね」

「うん? あぁ、さつきの事? 司が付けた後に私たちも同じ名前で“名付け”してるから呼べるってだけだよ」

 “名付け”って上書き出来るのか。いやそもそもそれは上書きなのかな? 名前の上書きじゃなくて主を追加する意味の上書きなら説明がつくか。……つくかな?

「さらっと言うが、とどのつまりお前は男の子より格上の力の持ち主と言う事だな」

「ふわっ?!」

 背後(しかも上から)声がして、無防備だった私は思わず素っ頓狂な声を上げた。雅さんは全く意に介さない感じで「おー似合うじゃん」とか言ってる。

 そう。「似合う」って……。

「わ……!」

 振り返った私は、それ以上の言葉が出てこなかった。

 市松さんって、人形の姿の時は見た目が完全に女の子なんだけど(当たり前か)、人の姿になると中性的な感じになる。日本人だけど日本人とはちょっと違う彫りの深さがあって、けど濃すぎず薄すぎずの顔立ちは元が人形だって言われると何となく納得出来ちゃうような、そんな感じ。

 その市松さんが、Vネックの白いカットソーと、黒っぽい(完全な黒じゃなくて、光の加減で淡い感じに見える黒ってあるじゃない? あんな感じ)カーディガンに濃紺のデニムジーンズを着ている。ボタンがついてない服なのは多分その辺は承知していた雅さんがあえてそういうチョイスをしたんだと思うけど、ジーンズもちゃんと着れて(履けて)いるのは意外だ。チャック開けたまま出てきたらどうしようかと。

 いや、今はそんな事に安堵している場合じゃない。

「凄い! 全然違う人みたい!」

 思わず素直な感想が飛び出してしまった。いや、普通に似合うわ。今までずっと振袖(もしくは女性ものの洋服)姿しか見た事なかったから新鮮だってのもあるけど。

「下着も入れておいたんだけど気付いたー?」

「あぁ。何から何まで周到な事だな」

 あまりの変身ぶりに感動している私は、背後から投げかけられた雅さんのある意味凄い発言と、呆れ返りつつもちょっとまんざらでもなさそうな表情の市松さんの返答がいまいち思考に入ってこない。

 ホント凄いよこれ。テレビでよくあるビフォーアフターに出れるレベルだよこれ。市松さん物の怪だからメディアに出したら違う意味で大騒ぎになっちゃうけど。

「よく着方分かったねー」

「黒霧に手伝って貰ったからな。あれはあの見てくれでどうして、なかなか今の世に聡い」

 黒霧って、黒猫の猫又で、今は訳あってうちに居候中。人の姿に化けると少年くらいの見た目になる。確か服装は作務衣だったはずだから、洋服の着方を知ってるなら、確かに意外だ。

 こういう事が考えられるって事は、私も最初の衝撃から立ち直ってる証拠ね。

「市松さん、凄い似合うよ!」

「そう……か? まぁ、ありがとう、な」

 でもやっぱり興奮冷めやらずのまま言ったら、市松さんは困ったような、照れたような、そんな顔で笑った。良かった。本気で嫌がりながら出てきたらどうしようかと思ってたから。

「んじゃ、ちょっくら買い物に繰り出しますかー」

 雅さんは楽しげな声でそう言って階段を下りていく。そうだ。元々雅さんは市松さんの普段使いの服を買いに行く提案をしに来た訳で、今市松さんが着ている服は借り物な訳で。

 でも、一時的に着替えるのと、今後たびたび着替える事になるってのじゃ、考えは違ってくるわよね。

「あ、あのさ、市松さん」

「うん?」

「嫌なら嫌って……」

「器に合った服でありたいと思うのは確かだがな。咲が喜んでくれるのなら、たまにはこういうのも悪くはない」

 市松さんは私のいる段のすぐ上まで下りてきて、ぽんと私の頭に手を載せた。思わず心臓が跳ねる。今まで女性ものの服しか見た事がなかったからかもしれないけど、男性ものの服に袖を通した市松さんは今まで以上に“異性なんだ”って事を私に認識させる。

 とにかく、ギャップが凄い。しかも市松さんは平常運転で恥ずかしい台詞をさらっと言ってくれて、いつもと違う服装も相俟って、ドキッとするなという方が無理だ。これはひどい天然危険物だ。

「というか、むしろ俺は咲に金銭的な負担が掛かる事を危惧しているんだが」

 いつもの“捨てられそうな子犬顔”に困った笑みを足して二で割ったような顔で言われて、私も我に返る。

 そうだ。買い物行くって事は、お金がいるって事だ。

 私はバイトをしている訳じゃない。まだお小遣い制の中にいる。しかも、必要なものを買うお金しか貰わないから、普段の私の財布には余剰金というものがない。学校が家から遠いから、いざという時のバス代にちょっと食べ物が買えるかなくらいの値段しか入ってない。

 つまり、市松さんの洋服を買おうと思ったら、お母さんに相談しないといけない訳で。

「こっちが勝手に言い出したんだから、あたしが出すよー?」

 階段の下から顔を覗かせ、雅さんが言う。私は振り返って勢いよく首を振る。

 服って、買う場所にもよるけど結構値段のかかる買い物だ。いくら強制的な流れを作られたからと言って、金銭的な面でお世話になる訳にはいかない。

「いえ、ちょっとお母さんに……」

「あらあらあら。似合うじゃないの唐子松さんったら」

 雅さんの顔の後ろからひょっこりと新しい顔。その顔は輝かんばかりの笑顔で市松さんを見上げていた。

「は、母君……」

 背後で市松さんの声。多分、今振り返ったら引き攣った顔をしている気がする声音。

「幾らお入用かしら? 何着か買うんでしょうからねぇ」

 雅さんから説明が入っていたのか、階段で喋ってるのが聞こえたのか。お母さんは既に全て悟った様子で居間に戻ろうとする。

「え、ちょっとお母さん!」

「なぁに? 咲ちゃん」

「えと……」

 交渉する前からお金出してくれるの決定事項みたいに言ってくれるの嬉しいけど、良いのかそれで? とは思うものの、下手に口を出して『やっぱ止めた』と言われるのも困る。

 結果、口ごもるしかない、けど。

「後でサイズ教えてね」

「何するつもりなの?!」

 思わぬ言葉に光の速さでツッコミを入れてしまった。

 母、恐るべし……。



「あーくん、お待たせ~」

 家を出ると、いつかも見たピンク色の軽自動車が止まっていて、その傍で伸びをしている男の人がいた。

 ちなみにあの後、私はお母さんから軍資金を賜り、市松さんは髪を首の辺りで緩く縛った。そうすれば男の人には(かなり)珍しい長髪も、何となく目立たなくなるだろうという処置だ。確かにカーディガンが黒いから、結ばないより結んでいた方が髪の毛が服の色に溶けて目立ちにくくはなっている。ただ、何となく巫女さんぽく見えてしまうのは私だけだろうか。服装は完全メンズだから、髪形だけ見ての感想なんだけど。

 雅さんに『あーくん』と呼ばれた男性は、日向ぼっこ中の猫みたいにほにゃっとした笑みを見せた。伸びをしていた腕を下げると、私たちの方へ体を向ける。

 途端、市松さんがびくりとその場で硬直した。その事に気付いて私が振り返るも、市松さんは『あーくん』と呼ばれた人物から視線を外せずにいる。表情が完全に硬直している。

「どうしたの?」

「気配がおかしいとは思ったが……妖物どころか神ではないか!」

 市松さんは『話が違う!』とでも言いたげな勢いで雅さんに抗議する。当の雅さんは涼しい顔で「そうだよー?」と答えた。

 いやちょっと待て。市松さん今……。

「神、さま?」

 どこにでもいそうなショートカットヘア。色は金。色白で目まで金色だから、全体的に色素が薄い人に見える。えんじ色のコートに白いシャツとモスグリーンのズボン、黒い革のブーツという格好は現代的で、顔立ちが外人ぽいから雰囲気的には雷を司る鬼、雷鬼さんと雰囲気が似ている。

 さっきのほにゃっとした顔と言い、今の温和そうな顔立ちと言い、醸し出す雰囲気と言い、私から見るとちょっと珍しい外人さんにしか見えないんですけど。

 この人が神、さま?

「それ程驚かれる事でしょうか? 貴殿も神という意味では私と同じ存在でしょうに」

「俺は神などではない」

 市松さん、たびたびいろんな人から『付物神』だって言われるけど、本人は必ず否定してる。本当は、どっちなんだろ? 個人的には神様でない方が気楽に接せられるというか、神様だったら今までの不手際にどう言い訳をすれば良いのか……。

 『あーくん』と呼ばれた人……じゃなかった、神様は、市松さんの言葉を気にする風もなく微笑む。何というか、ヨーロッパの貴族みたいな人だ。人じゃなくて神様だった。多分日本の神様なのにヨーロッパの雰囲気を感じるとはこれいかに。

「天を御する月と書き、天御月と申します」

 『あーくん』こと“あまみつき”さんは、そう言って深々と一礼した。神様に頭を下げられるという事態を前に、私も慌ててお辞儀を返す。

「さっ……藤崎、咲とっ、申しますっ。今日はよろしくお願いしましゅ」

 名前だけ言いそうになって慌ててフルネームを名乗った挙句、そのままの勢いであわあわとしゃべったら噛んだ。神様を前に噛んだ(大事だから二回言うわよ)。恥ずかしくてお辞儀したまま顔を上げられない……。

「顔をお上げ下さい。今の私はただの人ですから」

 恐る恐る顔を上げると、天御月さんは優しく微笑んでいた。今は人だって言うけど、よくよく見れば天御月さんの瞳、瞳孔が縦に細い。猫系の神様なんだろうか……。

「……説明は貰えるんだろうか? 姉君」

 市松さんは引き攣った表情のまま、車のロックを解除している雅さんに呼び掛ける。運転席の扉を開けてから顔を上げた雅さんは、市松さんの質問に首を傾け、不思議そうな顔で平然と言った。

「え、あーくんの事? フィアンセだけど」

「えっ!!」

「……?」

 雅さんの言葉に私は素っ頓狂な声を上げるけど、市松さんは頭の上に『?』マークが浮かんでる。驚き冷めやらぬ私は、市松さんが分かってないの分かってるのに、『何で分かんないの!』とでも言いたげな勢いで「婚約者だよ!」と叫んでしまった。

「婚約者って……人間と、神が?」

 市松さんは私みたいな驚き方はしなかったけど、天御月さんと雅さんを見る目がまん丸になってる。そのまま完全に硬直してるから、驚き具合で言ったら私といい勝負だ。

「なーに。人間が神様好きになったらいけないんですかー?」

 雅さんは市松さんに向けて唇を尖らせる。子供っぽい仕草なのに、美人の雅さんがやると子供っぽく見えないのが不思議だ。むしろ色っぽいかもしれない。同じセリフを受けた天御月さんは黙って微笑んでいる。でもちょっとだけ、ほんのちょっとだけ眉が下がってる気がするのは、私だけかな?

「悪いとは言わん。というか他所の事に口を出すつもりはない」

「なら不満そうな声出さないでよねー。まぁいいや。さ、乗って乗って。出発するよー」

 未だに驚きが去らない私と、『口は出さない』と言いつつ何か言いたげなのを必死に堪える市松さんを乗せ、天御月さんを助手席に、雅さんは車を発進させた。


02へ


「付物神と藤の花」目次へ