短くしたらしたで、書きたい事詰め切れないね……。
まだまだ精進だわ、自分(爆)


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 もう空には夕焼けが見えるけど、今日も渡辺さんは雷鬼さんを探しているんだろうか。

 学校からの帰り道。私は空を見上げながら歩く。時折、溜息。

 先輩はさらっと言ってくれたけど、考え方を変えるって、そんな簡単に出来る事じゃない、と思う。まして渡辺さんはこれまで鬼を退治してきたっていう自負があるだろうし、そういう家系だから誇りもあるはずだし。そうなると余計に難しい訳で。

 鬼なら全部悪いってのが、今の渡辺さんの考え方みたいだからなぁ。っていうか、あの口ぶりだと鬼のみならず普段は人に認識されない事象全部が悪みたいな感じだったけど。

「はぁ……」

 もう何度目か分からない溜息をついて、立ち止まる。

 道の向こうで、夕日に照らされた金髪が翻る。それを追いかける黒髪は、まるで犬の尻尾みたいに激しく揺れていた。

「……!!」

 言葉にする暇も惜しんで、ここまで来た疲れも忘れて、私は駆け出す。

 やっぱり、いた!

「わっ……渡辺、さん!」

 駆けながら叫ぶ。いかんせん、相手はサル並みのすばしっこさを持っているから、追いつくのが至難の業だ。でもここで追いつけなかったら雷鬼さんが危ない。

 というか、前もこの辺りで見つかってたでしょうに、何でこの辺にいるかなぁ? ……あ、風鬼さんが見つからないようにわざと渡辺さんが感知しやすい場所にいるのかもしれない。だとしたら責められない。

 見つかりたくない。でも同族を見つけて欲しくない。風鬼さんを庇って逃がした雷鬼さんなら、そういう事考えるの、有り得る。

「渡辺さんてば!」

「……うん? 藤崎咲か。邪魔をしないでくれ。あたしは仕事中だ」

 そう言って駆ける渡辺さんの腰には、一振りの刀。

 えええちょっと待って? それ銃刀法違反だから!

「だから、雷鬼さんは悪い人じゃないんですってば!」

「きみが執拗にあの鬼を擁護するのは、あの鬼の妖術に掛かっているからだ。今からそれを証明してやるから、ちょっとその辺で大人しくしていてくれ」

 最初に会った時より、若干トーンが低い。多分、私に対しても警戒してるんだ。

 渡辺さんは腰に付けた鞄から何かを取り出して、走りながらも振りかぶる。

「だから止めてってば!」

 本気で走られたらかなわない。やるなら今しかなかった。

「うわっ?! 何をするんだ藤崎咲! 止めないか!」

 私は振りかぶられた渡辺さんの右腕に抱き付くように跳びついた。渡辺さんは体勢を崩して道路に倒れ込む。辺りにばらばらと豆が散らばった。

 ついでに私も倒れ込んだけど、すぐに立ち上がって駆け出す。

「……娘?」

 道の先で、雷鬼さんが呆然と立っていた。

「雷鬼さん! 早く逃げて下さい!」

「藤崎咲! 頭を下げないと当てるぞ!」

 すぐ後ろから、渡辺さんの声。私は瞬時に真っ青になった。

 え、嘘。どんだけ持ち直しが早いのよ?!

「……っ!」

「きゃあっ!」

 雷鬼さんが私の方へ向けて駆け出して、何か言おうとした時には片腕を掴まれて、あまりの勢いに視界がぐらついた。足がふらついたかと思うと、くしゃっと何かを踏み込む。

 草だ。それに一気に辺りが薄暗くなって……。

「ここって」

「帰りは唐子松を呼べ。私は行く。あの小娘はここまで来れるからな」

「そういう事だ!!」

「うわぁあっ!」

 またも背後からの声に私がびっくりして声を上げる。振り返ると真剣を構えた渡辺さんがいた。

「人目につかない場所に逃げ込んでくれたのは好都合だ。これを思う存分振るえるからな」

「…………」

 雷鬼さんは肩で息をしていた。ずっと逃げてて、多分大分疲れてるんだと思う。

 私は咄嗟に両腕を広げた。雷鬼さんを庇うように渡辺さんの前に立つ。

「愚かな真似はしない方が良いぞ、藤崎咲。あたしも人は斬りたくない」

「愚かなのはあんたでしょうが!! 雷鬼さんがぜんっぜん反撃してないの分からないの?!」

 雷鬼さんは、名前の通り雷を司る鬼だ。やろうと思えば、真剣を握る渡辺さんに攻撃する事も難しくないはず。(いい感じに避雷針になりそうよね、刀って)なのにそれをしないのは、雷鬼さんが渡辺さんに危害を加えるつもりがないからじゃないの? 自分は敵じゃないって、伝えたいからじゃないの?

「市松さん! お願い、来て!!」

 私は初めて、明確な意志を持って市松さんの名前を呼んだ。多分、一方的な『助けて』じゃなくて、『力を貸してほしい』って思って呼んだのは、これが初めてじゃないかな。

「何を唐突に叫んでいるのだ? まぁいい。そこを退いてくれ。いつまであたしに悪役じみた台詞を言わせるつもりだ」

「十分悪役です!」

 ついでに思ったけど、私誰かにこんな敵意剥き出しの台詞吐くの初めてかも知れない。

 どうしても、自分の名前がトラウマで、親しくない人相手だと消極的になりがちだったのに。自分がこんな喧嘩腰になる日が来ようとは。

「何故そんなに人外の者を守ろうとする? ……まぁ良い。今更語った所で、相容れぬことに変わりはない」

 そう言って、渡辺さんは私に向けて刀を構えた。……私、丸腰なんですけど。

「娘、私は」

「雷鬼さんは黙ってて下さい!」

 多分『逃げろ』とか言いたかったんでしょうけど、聞き入れませんから!

 反論の言葉は来なかった。どうやら素直に口を閉じてくれたらしい。

「……ふむ」

 渡辺さんが、私達を見て意味ありげな声を出した。

「成程な」

「な、何か?」

 私が問い返した頃には、渡辺さんはそこに立ってなくて。

「へ?」

「娘、避けろ!」

 疾風より早いんじゃないかって勢いで、銀色の切っ先が私目掛けて突っ込んできていた。

 丸腰の人間相手でも容赦しないわねあんた!

「ふえ、え?!」

 雷鬼さんに後ろから腕を引かれた瞬間。

 キンッ! って音がして、目の前に赤い風が現れた。

「なっ!」

 渡辺さんの戸惑いの声に続いて、金属がぶつかり合う音が凄い勢いで繰り返される。

 市松さんが来てくれたんだ。

 市松さんは目にも留まらぬ速さで、渡辺さんを押していく。赤い振袖と長い黒髪が揺れる合間に見える渡辺さんの顔は、見ただけで劣勢と分かるくらい焦っていた。

「市松さん、殺しちゃ……駄目だよ?」

 二人の動きが早すぎて、私には視認できない。でも、まさかそんな事はしないと思いつつ、でもこの刀と薙刀がぶつかり合う凄い音の中で聞こえないよなとかも思いつつ、私は言った。殆どいつも喋るのと同じくらいの声だったから、多分聞こえないわよね……。

「唐子松もそこまで愚かじゃない。娘がいる目の前で殺しはしないだろう」

 引っ張られた事で体勢を崩した私を立たせてくれながら、雷鬼さんが言う。

 それ、私がいない所だったら殺すかもしれないって言ってるようなもんなんですけど。とは思ったけど、大分疲弊してて突っ込む体力もなさそうな雷鬼さんだったから、余計な事を言わないでおく。

「あっ!」

 一際高い音が響いて、空中を銀色の何かが高速回転する。多分、あの長さなら渡辺さんの刀だ。それは放物線を描いて、渡辺さんより後ろの地面へ落ちていった。

「くっ……何者だ、貴様は」

 丸腰になった渡辺さんにそれ以上斬りかかる事はせず、それでも構えは解かずに市松さんは立っていた。相手の問い掛けに答える様子はない。

「あたしは鬼を斬るのが専門だ。他の者はそれが専門の同業者に任せている。……だが、邪魔をするというのなら貴様も斬るぞ!」

「斬れてはいないようだが?」

「ぐっ……それは、突然の事に手加減をしたからだ! あたしは基本的に鬼しか斬らない!」

「そんなものが、理由になると思うか?」

 市松さんの声は静かで、すごく落ち着いていた。雷鬼さんがずっと狙われてたから怒ってるかなって思ったんだけど、意外だ。

 いや。もしかしたら怒りを通り越したせいであんな声になってるのかもしれないけど。

 渡辺さんは反論の言葉が見つからないのか、悔しげに表情を歪ませながらも黙っている。

 確かに、本物の武器でやりあう以上は、いきなり来たから手を抜いたとか、理由にならないわね。相手が本気で命を狙ってきてるのに手を抜いたら、殺されるの自分じゃないの。

「まぁ、良い。俺がお前と問答しても仕方ない」

 市松さんは構えを解いて、身を引いた。渡辺さんと私が対峙する形になる。

「何の……つもりだ、貴様」

「俺はお前から武器を剥がす為に来ただけだ。ついでに何の言葉も受け入れないその考えなしの頭も剥がしてやろうかと思ったが、止めておく」

 さらっと物騒な台詞吐かないで市松さん。

「説明になっていないぞ!」

「咲と話をしろ」

 市松さんの言葉に、渡辺さんが目を丸くする。

 多分、ももちゃんの件とか鬼斬りが本物だって点から考えて、渡辺さんは人間とそうでないものを見分けるだけの“目”は持ってると思うのね。という事は、市松さんが物の怪だって事には気付いているはず。でも、雷鬼さんを庇いに来たんだと思った市松さんから私の名前が出て、びっくりした……んだと思うんだ。

 だって、ものすんごく何か訊きたそうな視線を感じるから。

「俺は、お前が咲と落ち着いて話が出来る環境を作る為に呼ばれただけだ」

 ……確かにそうなんだけど。名前呼んだだけでそこまで分かる?

「藤崎咲とは散々話をした。互いに相容れぬ事は既に分かっている。きみはあたしの考え方を変えたいらしいが、それは無理な話。そしてあたしはきみにさんざ忠告をしたが、聞き入れなかった。これ以上何の話が出来る?」

 渡辺さんは最初は市松さんに、後は私にそう言った。もう端から話を聞くって雰囲気じゃない。もう終わった事だって言いたげ。でも終わらせられちゃ困るのよ。このままじゃ、雷鬼さんだけじゃなくて風鬼さんも危ない。二人は確かに人間じゃない。鬼だけど、でも。

 知り合いが辛い思いをするのは、嫌なんだ。

「渡辺さんは、友達でも、容赦なく殺すの?」

「……どういう意味だ? あぁ、先程きみに斬りかかったのは、きみに掛けられた妖術をいっそ物理で壊してやろうと思っただけだ。執拗に鬼を庇うその精神。もはや自分でもわからないくらいに術が纏わりついて離れないのだと思ってな」

 私が渡辺さんの事友達だって言ったように解釈されたけど、申し訳ないけど現状私は渡辺さんを友達とは思ってないから。せいぜいクラスメイトだから。

「見えないから完全なる勘頼りだったがな。きみが頑なに鬼を守るのは間違いなく鬼の妖術に掛けられているからだ。あたしの経験がそう言ってる」

 見えないなら斬りかかるな!!

 だからさっき『成程』とか言ってたのね? 勘違いもここまでくるとうんざりだわよ。

「術なんてかけられてないし、そういう意味で言ったんじゃないの。渡辺さんのしてる事、苗字に『鬼』がついている人はたとえ善い人間でも殺すって、そう言ってるように聞こえる。確かに悪い人だっているかもしれないけど、でも少なくとも雷鬼さんはそうじゃない。無防備で無抵抗な人を殺すなんて間違ってる!」

「藤崎咲。きみは妖物を『人』という時点で間違っている」

 私の言葉を、渡辺さんは一言で切り捨てた。

 駄目だ。本当に平行線だ。

「奴らは人の姿を取り我々を誑かそうと目論んでいるだけだ。物事の表層しか見れないでいると、そのうち痛い目を見るぞ」

「……わよ」

「何だって?」

「その言葉、そっくりそのままお返しするわよ!」

 ああーもう! 堪忍袋の緒が切れたわよ! とっくに切れてたけど!

「私にとって、市松さんも雷鬼さんも風鬼さんも大事な人なの! 危害加えられたり罵倒されたり軽視されたりするのは耐えられないの! これ以上危害加えようってんなら、こっちだって容赦しませんからね!」

 まさかの、私の台詞に”!”が急増する事態。久しぶりに、こんなに怒ったかもしれない。

「渡辺さんだって大事な人はいるでしょ? その大事な人が、見ず知らずいきなりふらっと現れた意味不明な奴に殺されそうになったら怒るでしょう?!」

「……まぁ、そうだな」

 若干ドン引かれている気がするけど、気にしない。ここは隠裏世。普通は人間が知らない道。だから、私は遠慮なく怒鳴り続ける。

「私は今そういう状態なの! 皆に勝手に手出ししたら許さないから!」

 叫びきった。息が切れる。顔が熱い。久しぶりの怒りで、感情が上手くコントロールできない。でも、渡辺さんがまだ何か言うようなら、絶対反論してやるって思ってる。

 自分で自分が新鮮だ。私こんな人だったっけ?

 しばらく、渡辺さんは目を丸くしたまま、立ち尽くしていた。でも何を思ったのか、少しずつ肩を震わせて……。

「ふふ。……あははっ、あはははははっ!!」

 いきなり、笑い始めた。大丈夫? この人。

「な、何がおかしいのよ?」

 さすがに私も呆気に取られて、それしか言葉が見つからない。だって、この状況で笑う? 私何かおかしな事言った? それとも、ものすっごく馬鹿にされてるのかな? それはそれで腹が立つんだけど。

 渡辺さんは目尻に涙が浮かぶまで笑って(どうやら笑いのツボに入ったらしい)、それを指で拭いながらお腹を抱えて尚笑って、しまいには笑うのすら苦しくなったみたいで咳き込む事数回。ようやく落ち着きを取り戻した。

 まだ若干笑ってるけど。

「あー笑った。藤崎咲。それならそうと最初から言って欲しかったぞ」

 ……はい?

 いやだから、最初から言っていたつもりだったんだけど。何? この子そんなに日本語通じない子なの? どんだけ痛いの?

「そうかそうか。あたしもとんだ失礼をしたもんだ」

「……わ、分かってくれたなら、良いんだけど」

「うんうん。そりゃ、自分の配下の妖物を殺されちゃーたまったもんではないな」

 ……はい?

 今この子、何て言った?

 思わず、傍らに立つ市松さんを見上げる。市松さんは市松さんで、唖然として渡辺さんを見ていた。

 そりゃ、確かに市松さんは家族みたいなもので、市松さんからしたら私は主で。だから表現も内容も大分違うけど、五百万歩ぐらい譲れば、渡辺さんの言う関係になるのかもしれない。

 でも、雷鬼さんは市松さんの友達で、私とは知り合いくらいの間柄で。決して、配下ではない。私は従えてるつもり全くないし、それは雷鬼さんも同じだろう。

「いやぁ、実はあたしがこの地に越してきたのはじい様の命令でな。てっきり都会を追われた鬼たちが幅を利かせていて狩り放題なのかと思ったが……まさか妖物を従える統領に会う事になるとは。しかもそれが同年代の女の子とは思わなかった! いやはや想定外! 人生何があるか分からないってのはこの事だな!」

 あの、こっちの方が想定外なんですけど。

「そうかそうか。人間が従えているなら確かに安全だ。あたしの出る幕じゃーないな! いやぁ失礼した失礼した! どうか数々のご無礼、水に流してさらっと忘れて頂きたい!」

 …………。

 駄目だ。言葉が全く出てこない。

 謎な感じで口調がへりくだったのは、私を統領とかとして見てるからよね。止めてくんないかなそういうの。そもそも統領じゃないし。従えてないし。そっちの勘違いだし。

 って、思う事はいっぱいあるんだけど、どこから突っ込んで良いのか分からない。

「それにしてもその年で統領か! 藤崎咲、きみもなかなかにやる女ではないか! あたしは狩る側の人間だが、従える側の人間とは上手くやるつもりだぞ。勿論、己が立場を弁えぬ不届きものが現れた時は、このあたしの力、存分に振るうと誓おう。これだけ強い妖物を従えるきみの事だ。あたしみたいなちっぽけな人間の力は不要かと思うがね!」

 どうしよう。訂正した方が良いよね? でも何て言ったら聞き入れてくれるかな?

「おっと、もうこんな時間か。長々喋って悪かった。あたしは斬るのは得意だが治療はさっぱりなのだ。済まないがあたしが追い掛け回して付けてしまった傷の治療、きみに任せても構わないか? 勿論、治療費はあたしが払おう。きみの配下に怪我をさせてしまったからな。今後は気を付ける。きみの縄張りの妖物に関わりたい時は、きみの許可を得に行く事にするよ。では! また学校でよろしく頼む!」

 私が何て言っていいのか悩んでいる内に、渡辺さんは敬礼一つするといそいそと刀を拾って去ってしまった。

 口を挟む暇がなかった……。

「はう……」

 思わず脱力して地面に両手をつき、人生で初めてかと思うくらい撃沈する私。

「さ、咲?」

 心配した市松さんが体を支えてくれた。いつまでも地面に向かって落ち込んでる訳にいかないから、とりあえず顔を上げる。

 もうどうしたら良いのか分からない。不安で意味分からなくてパニックで。今私、どんな顔してるだろ?

「……凄まじい小娘だったな」

 市松さんに助けられて立ち上がった私の隣で、両腕を組んだ雷鬼さんがぽつりと呟く。

「まぁ、ひとまずは助かった。礼を言う」

「全然嬉しくないです……」

 間違いなく、渡辺さんの中で、私はこの辺りの妖物を従えている人になっちゃってる。訂正したらまた雷鬼さんが襲われそうだし、訂正しなくてもいつかはばれちゃうだろうし……。

 とんだ八方塞に放り込まれたもんだわ。

「ま、まぁ、対策は今後考えよう、な?」

 私が落ち込んでるからだよね。市松さんがフォローの言葉を入れてくれる。

「うん……」

 あまり心配もさせられないから、私は頷くしかなかった。

 鉛の頭、恐るべし。溶かすどころか転がり出したら止まらないじゃないの。

「とりあえず、私は一度戻らせて貰う。風鬼にも連絡を取らねばならないからな。この借りは、必ず返す」

「要らないです……借りになってないですし……」

「娘」

 どう足掻いても沈んだ声しか出ない私に、雷鬼さんが呼び掛けてくる。顔を向けると、くしゃっと頭を撫でられた。

「へ?」

「十分借りだ。娘にとって満足がいかなかったとは言え、おかげで私はもうあの娘に追い掛け回されずに済んだのだ。唐子松がいるとは言え、お前が庇うは本来、同族である人間であるはずだろう? なのに娘は私を、妖物を庇う事を選んだ。おかげで私は助かったのだ。とりあえずだとしても、それで十分だろう?」

 手が離れて、重みの余韻が頭に残る。雷鬼さんの言葉が、ゆっくりと私の思考回路を巡る。

「そうさな。咲はよくやったよ。……雷鬼を助けてくれて、ありがとうな」

「……うん」

 市松さんにも笑顔を向けられて、私はやっと、ちょっとだけ心が晴れた。



 雷鬼さんと別れて、いつもの帰り道。人が滅多に通らないのを良い事に、私は市松さんと並んで歩いている。そうして家に帰り着く手前の道、市松さんと出会ったあの空き地の横。ふと、市松さんが歩を止めた。

 市松さんと一緒に居ると、何となく懐かしくなって空き地を見てしまう私は、遅れて立ち止まる。市松さんの背中を眺める形だ。

「……なぁ、咲」

「どうしたの?」

 いくら人通りが滅多にないとはいえ、もし今誰かが通ったら若干言い訳出来ない状態なんだけど。でも変な事言って話の腰を折りたくないから黙っている。

「勘違いとは言え咲はとんだ立場になった訳だし、今も家には黒霧がいるし、これからも咲に仕えたいと言い出す者がいないとも限らないが」

 たしかにとんだ立場だわよ。でも実際は違うし私なんかに仕えて何が楽しいのって訊きたいし(そんな事言ったら市松さんに失礼か)、でもやっぱり口出し出来る状況じゃなくて、私は口を閉ざしたまま、市松さんの言葉を待つ。

 今日は何かと、口を挟めない日だわね。

「どんなにお前に仕える者が増えても、“名付け”だけはするな」

 ここで会って、知らないとはいえ勝手に名前を付けて。市松さんだったから良かったようなものだし、元から名前を持っている人にわざわざ名前を付ける趣味、私にはないし。第一そんなネーミングセンスもないし(市松人形だから市松さんって安直な名前を付けてる時点で察しよね)。

 だからこの先“名付け”をする機会なんか皆無だと思うんだけど、どうしていきなりそんな事言い出したの?

「市松、さん?」

「咲から名を賜るのは、俺だけで良い」

 ……あれ? これってもしかして。

 私から背を向ける形になっているから、市松さんの表情は分からない。けど、声音が心なしか拗ねている気がして、もし顔を覗き込んだら、いつもの“捨てられそうな子犬顔”になっている気がしないでもない。いや、声通り拗ねてるかも。

 もしかしなくとも、市松さん、嫉妬してる?

 渡辺さんが、雷鬼さんも私に仕えてる妖物だと思ったから? この界隈の妖物が全部私の配下だと勘違いされたから? 理由は分からないけど、とりあえず。

 市松さん、なんか可愛い。

 口に出して言ったら絶対怒られるというかそれこそ拗ねられるから言えないけど、可愛い。それに、何か嬉しい。

 きっと市松さんは市松さんで、私のところに最初に来た妖物って自負があるんだろうな。それは、勿論私も同じ。これから先どんな妖物に会っても、市松さん以上に親しくなる人はいないって、思うから。

「うん」

 私は頷いた。市松さんがちょっと振り向いて、安心したような笑みを見せる。

 うん、やっぱり可愛い。言えないのがもどかしい。

「そんな心配しなくても、私は市松さん以外に“名付け”なんかしないよっ」

 私は軽い足取りで市松さんに近付いて、茶化すように振袖を引いた。



 終。





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