02司
神の名を知る。それは絆が深まり、より一層繋がりが強くなることを示す。そのメリットは、どちらかと言えば人間側の方が大きい。だからこそ、“その時”は神によって慎重に定められていた。
――お主が成人したら、わらわの名を教えるに相応しいか試してやろう。
それが、稲荷神の言い分だった。
神の名を知れば、神の力の行使は今よりかなり容易になる。だが、司は別段力を望んでいる訳ではなかった。
否。“他者から力を借りる事”を望んでいなかった。
望むのは、己の力。己が鍛え研ぎ澄ました己の刃。
だから、正直なところ、どうでも良い。
恐らく、稲荷神は司のそんな心境すら、お見通しだったのだろう。そうでなければ、藤崎を巻き込むような真似はしなかったはずだ。
いつの間にか藤崎の家に居候する物の怪に恩を売り、その返礼の約束まで取り付けていたらしい。しかもそれを恩を売った物の怪本人ではなく、その主に求めるとは。
一体、どこまで計算しているのだろう。
文化祭が終わるまでに稲荷神の名を当てなければ、司の試練はおろか、藤崎が成し得なければならない返礼までが失敗に終わる。居候の物の怪がどうなろうと司の知った所ではないが、藤崎自身に被害が向かうのは避けたい。という事は、否応無しに試験を受けなければならない。
全てが稲荷神の思うがままに仕組まれているようで良い気分はしなかったが、仕方がない。
「でも先輩。なんか心当たりあるんですか?」
藤崎が心配そうに司の顔を覗き込む。それに対し、彼は肩を竦めるしか答える手段がない。
ももがもたらした伝言という名の情報は、“試練の開始”を告げるだけのものだ。名前を当てる為の手掛かりは欠片もなく、この先得られるかどうかさえ定かではない。
そして、司自身が何らかの手掛かりを持っているかと問われれば、答えはNOだ。狐の耳と尾を持つ巫女服姿のあの神を『稲荷神』と呼ぶのは司だけではない。司の家族もまた、なのである。司以外は稲荷神の本当の名前を知っているはずだが、誰もその頭文字すらうっかり口にした事がない。
つまりは、手掛かりも展望も段取りもない試練に、司は挑まねばならないと言う事だ。
「……ただ」
顔に縦線が見えそうなくらい青褪める藤崎を宥めるように、司は言った。
「『祭りが終わるまで』つまり文化祭が終わるまでってタイムリミットを付けてきたのには意味があるはずだ。腐っても神だからな。まだ学生という立場の俺達が、こういう日に学校を抜け出せないのは分かってる。つまり、もしヒントを寄越すなら学校敷地内のどこかだ。……ヒントを寄越すならの、話だがな」
「でも、先輩稲荷神様の名前、全然知らないんですよね?」
「ああ。頭文字すら知らん」
「なら、きっとヒントくれます、よね?」
「……気が向けばくれるんじゃないか?」
巻き込まないようにと思うのに、藤崎が青くなるような発言をさらりとする。我ながら悪癖だと思いながらも、司は振り向きもせずに歩を進めた。
何か言われれば、とりあえず皮肉で返す。皮肉でなくとも相手に冷たいと取られる態度で返す。それは、幼少期から培われてきた、司なりの処世術だった。
人と霊の区別がつかなかったからこその、自己防衛の為の手段。そうしなければ、迂闊に優しい言葉を掛ければ、相手が悪霊だった場合、最悪の事態が容易に引き起こされてしまうから。
そうして誰が相手でも壁を作って接してきた司は、人と霊を何とか見分けられるようになってきた今でも、友人と呼べる人間が少ない。
だからこそ、分け隔てなく関わってくる者は大切にしなければならないのに。
「ふじ――」
「ぇえーーーーん!」
何か詫びでもと思い口にした言葉は、途中で塞き止められた。
司は呼び掛けの声を途中で飲み込み、藤崎は目を丸くすると辺りを見回した。
当てもなく進めていた歩は、気付けば体育館に繋がる外廊下の傍まで二人を導いていた。相変わらず人の入りは多いとは言えない。だが、どうやら雨は一時的に上がっているようだ。この状態が続けば、次第に学校は祭りとしての賑わいを見せるだろう。
「ぇえーーーーん!」
叫び声のような、掛け声のような、そもそも人の声なのかも怪しいが、とにかく不可解な声が再び聞こえた。二人は顔を見合わせるとおもむろに歩を踏み出し、音の出どころを探って外廊下へと繰り出す。
ダンッ、ダンッと床を踏み締める音が聞こえ、合間に何かが激しくぶつかり合う音と、認識不能の叫び声。
繰り返し音を聞くうちに、司は何となくその正体が掴めてきた。
「……剣道部、か?」
「あ、あります剣道部。午前中は体育館で体験コーナーやってるみたいです」
藤崎が、鞄から取り出した文化祭のパンフレットを読み上げる。横から覗き込むと、剣道着を着た人間のイラストの横に、”あなたも日本の武道に触れてみませんか?”の文字。
午前中は運動部が体験コーナーを設け、午後からは軽音楽部や演劇部の発表があるらしい。
あの叫び声は、剣道部の掛け声だったという事だ。
「ぇえーーーーん!」
納得のいった所で再び歩き出した二人は、体育館前で歩を止めた。二重扉はどちらも開かれており、中の様子がよく見える。
剣道着姿の部員と思わしき者達が円形にしゃがみ込む中心で、打ち合いが行われていた。
「ぇえーーーーん!」
「っそーーーーっ!」
綺麗に面を決めた選手の後頭部で、黒く長いポニーテールが踊る。やられた選手が悔しげな声を上げる。
「ぉおーーーーっ!」
「もう一回ーーーーっ!」
同じポニーテールの選手が今度は胴を入れる。これも綺麗に決まり、もはや頼みこむような叫びが体育館に響く。
「ってーーーー!」
「うわあああああああっ!」
「しゅっ、主将!」
「部長、しっかりっ!」
三回目の試合で小手が入ると、相手選手は絶望的な叫びを上げると同時に床に崩れ落ちた。周りで見守っていた部員たちが慌てて駆け寄っていく。
どうやら、挑戦者の圧勝らしい。
「うわー、強いですねあの人」
隣で、藤崎が感心した声を出す。司も内心で同じことを考えながら、踵を返そうとした。聞こえた声が気になっただけで、そんなに興味はなかったからだ。
しかし。
「もう終わりー?」
間延びした声がポニーテールの選手から発せられた瞬間、彼らに背を向けかけていた司の動きが止まる。くるりと体育館内に視線を戻すと、確かめるように歩を踏み出した。
「くそう……くそう! 俺は県大会にも出場した事があるんだぞ! 準優勝した経験だってあるってのに……なんなんだ一体! 一般人に負けるなんて!」
崩れ落ちた部長らしき人物が、小手を巻く拳を何度も床に叩き付ける。それを、ポニーテールの選手が不思議そうに眺めていた。
「小手しててもそんな事したら痛いんじゃないかなぁ?」
面をしているせいで多少曇ってはいるが、ポニーテールの選手から発せられるのはマイペースさを窺わせる女声。今は剣道着を身に着けているが、身長も立ち姿もここ数か月で見慣れたもの。
「さつき、か?」
「あっ、つかさだ~」
嫌な予感を抱きつつその背に呼び掛けると、ポニーテールの女性……司の家に居候中の物の怪、さつきが嬉しそうな声と共に振り返った。
“さつき”というのは本名ではなく、司の“名付け”により付けられた二つ名だ。彼女は何らかの手違いで五月人形、つまり男の人形に宿ってしまった女性の物の怪で、そのせいか真名は“牛丸”。当然ながら本人はこの名前を嫌っていて、居候が決まった時に司が仕方なく名前を付け直してやったのだ。
普段は家にいて、司が呼ぶまでは外出するはずもないのだが。
司がさつきに関しての考察をしていられたのは、そこまでだった。
「慧羽月っ!!」
先程まで床に突っ伏していたはずの部長が何時の間に司の目の前にいて、彼のワイシャツを掴み上げていた。身長はそれ程変わらないが、体格差がかなりある。司の体は、つま先を残して浮かび上がっていた。
「てめぇの知り合いかあっ!!」
人の精神を狂わせる“文化祭の魔”とやらでもいるのだろうか。今日はやたらと精神が不安定な人間にばかり絡まれる。
司は呆れた視線で相手を見下した。何分、首元が掴み上げられているおかげで頭が反り上がり、そうしないと下が見えないのだ。
「せせせ先輩っ?!」
背後で藤崎の慌てた声が聞こえたが、反応してやる暇がない。
「……遠戚だ。というか離せ」
咄嗟にさつきとの関係性をでっち上げつつ、司は掴みかかられている相手の手首を掴み、更にもう片方の手で関節に手刀を叩き込む。がくんと高度が下がって両足がしっかり地についたのを確認すると、不快そのものの表情で相手から距離を置いた。
「お前がさつきに負けたからと言って俺が絡まれる謂れはない」
言いながらワイシャツを直す。不安そうに覗き込んできた藤崎に「大丈夫だ」と呟いた。
「こいつはストーカー対策に我流ながら武術を身に着けているからな。一般人の括りには入らない。女だからと馬鹿にしていると痛い目に遭うというのが分かって良かったじゃないか」
「つかさ。すとぉかぁってな」
さつきが余計な発言をしそうになった所を、司は睨み付ける事で止めた。
ついでに、司の言葉で逆上しかけた部長も同じようにして牽制する。
「というか、お前も何でこんな所にいる……んだ」
さつきを問い質そうと言い掛けた所で、その理由に思い当たってしまった気がして司は口ごもった。さつきも司の心境には気付いたようで、にっこりと微笑む。
「あのね、つかさ。この学校には“一度も勝った事がない防具”があるんだって」
唐突に、突拍子もない事を言い出す。
確かにさつきと初めて会ったのはこの校舎内で、だからこの学校に関する知識を彼女が持っていても不思議ではない……否、そんなはずはない。
さつきと会ったのは確かにこの学校が最初だが、己の体を恨み女子の体を求めて彷徨った挙句この学校に入り込んだ経歴、ほぼこの学校に関係のない五月人形だったことを考慮すれば、彼女がこの学校に関する知識を持っているはずがない。
同族で情報提供者がいるとすればももだが、部長に掴みかかられたと同時にその覇気で吹っ飛ばされた少女は、打ち付けたらしい腰を擦りながら恨みがましそうに司を見上げている。司のもの問いたい視線には肩を竦めるのみだ。
彼女ではない。という事は、学校に関係がなくとも、広範囲に縄張りを持てるような、もっと上位の……。
「本当か?」
とは言え、まずはさつきの言葉自体信憑性が薄いので、司は確認を求めるように部員の方へと目をやった。
目の前の精神不安定な部長は丸無視である。
「へっ? ……あぁ、確かにある。縁起悪くて誰も使わないから、倉庫の奥に半分くらい封印状態。よく知ってるな。この学校の卒業生?」
「ね、つかさ」
まるで周りの人間が全く見えていないかのように、周りの意見が全く聞こえていないように、さつきは言った。
「それ使って、ぼくと打ち合いしようよ」
「は?」
部員から出された素朴な疑問をスルーするには格好の口実となったが、内容は全く頂けない。
物の怪の中では若者の部類に入るとは言え、さつきは五月人形の物の怪である。刀と鎧を標準装備し、その辺の悪霊相手なら引けを取らない程度の強さだ。人とは少し違う者が見えるが故に人より特別な訓練をし、それなりに運動神経の良い司であろうとも、まともにやり合える相手ではない。
大体。
「……俺は柔道の選択者だったんだが」
“眼鏡が面に引っかかるだろう”という理由で、体育の選択科目で柔道を選んだ司である。中学、高校と、剣道と言えば遠目に見る種目だった。
「やろ?」
司の苦い表情も、さつきの笑みの前に抹消されてしまう。恐らく、拒否の選択肢は司に残されていない。初めから何もかもがおかしすぎるのだ。
“名付け”をし、主のような存在になった現在、さつきが司の命もなく動く、更に主と敵対しようなどと思って行動するのは容易ではない。司よりも上位の存在が、何らかの意図を以ってさつきを動かしたとしか思えない。
そして、その上位の存在は、この場合、一人しかいない。
「るーるは無視で良いよ。ぼくもちゃんと分かってる訳じゃないし。後、つかさの方が圧倒的に不利だから、ぼくに何度打たれても負け判定にはしないからね。とにかく、つかさはぼくの攻撃を潜り抜けて、ぼくに一撃お見舞いする。そこでやっと試合終了。わかった?」
「……分かった」
拒否権はない。ならば、受けるしかない。
司は溜息と共に、鞄を置くとブレザーを脱いだ。
「これが、件の防具だけど」
勝手に進行する話に戸惑うことなく、部員の一人が“一度も勝った事のない防具”とやらを持ち出していた。見かけは普通の剣道着だが、さつきがわざわざ指名するほどだ。何かしらのいわくつきの品である事は間違いないだろう。
「藤崎」
「あ、はい」
「荷物、預かっていてくれ」
呆然と事の成り行きを見守っていた後輩に鞄を示し、眼鏡を預ける。気の進まないまま溜息交じりに防具の元へ向かうと、それだけで嫌な予感がした。
触れる前から、嫌な気を感じる。出来る事なら触りたくない。しかしこれを着なければ勝負が始まらないので、仕方なく防具に手を触れた。
触れた所から肌が粟立った。
「防具の付け方、分かるか?」
「いや、全く分からん」
それでも平常心で剣道部員の手を借り、防具を身に着ける。小手を付け、面をはめる頃には、かなり気分が悪くなっていた。気持ちが重くなっていた、とも言えるだろうか。
竹刀を持ってさつきの前に立つ頃には、戦う前から力が入らない有様になっていた。
――どうせ勝てないんだ。
――勝てるはずがない。
――また負けるんだろうなぁ。
防具からひしひしと、歴代の戦士たちの溜息が感じられる。戦う前からこんな後ろ向きな気持ちをぶつけられては、たとえ百戦錬磨の猛者であろうとも戦意が奪われると思われた。
これだけ人の感情が入り込み、防具自体が意志を持ち始めている。物の怪として目覚めていてもおかしくはなさそうだが、しかしそうなっていないのは不幸中の幸いと言えた。
負の感情しかないこれから目覚めた物の怪は、さぞ碌でもない存在になる違いない。
「いっくよー」
目の前で、さつきののんびりとした声が聞こえる。面の視野狭窄に相俟って眼鏡を付けていない事による視力の低下で、相手との距離感が掴み辛い。
ガンッ
「っ?!」
「っぇえーーーーん!」
衝撃からかなり遅れて声が聞こえた。
認識が追いつかない。
今度はガツッという衝撃と共に、体がよろめいた。
「っぉおーーーー!」
背後に回っていた黒き風が、前方へと吹き流れていく。くるりと舞ったポニーテールが、再び司目掛けて突進する。
ゴンッ
思考が認識から指令に切り替わる頃、再び脳天に衝撃が来た。竹刀を構える暇も、相手を探す隙すらない。さつきの動きが早すぎる。ただでさえ相手を認識するのに必死だというのに、防具のマイナス思考さが鈍足に磨きをかけてくる。
これで、さつきに一撃を食らわせろって言うのか
思わず、心の中で不満を漏らさずにはいられない。
さつきは、たとえ主相手であろうと手加減をするつもりはないようだ。恐らく稲荷様からそう命じられている為だろう。
「っぇえーーーーん!」
否。
適度に相手しろと言われていても、彼女なら全力で向かって来たに違いない。そう確信させてくれるような、楽しげに弾んだ掛け声だった。
容赦なく叩き込まれる攻撃に耐えつつ、竹刀を構えて相手を探す。防御しようと竹刀を構え始めた頃には攻撃が決まり、攻撃しようと歩を踏み出した頃にそこに敵はいない。
さつきが早すぎるのもあるが、司が遅すぎるのも厄介な要因と言えた。しかもそれが、司自身ではなく、防具に難があるのだから笑えない。
――あぁ、痛い。あとどれくらい我慢すればいいんだろう?
不満げな防具の念。成長や進展を望まず、ただただ時間が過ぎるのを待つだけの、まるで投げやりな思念。
全くだ。何でこんな事。暑いし蒸れるし視界は悪いし、良い事が一つも……。
「…………!」
ガンッ
思わず防具に倣って愚痴を吐きかけた心が、頭への衝撃で現実へと戻される。
待っても試合は終わらない。文句を言っても稲荷神は答えない。
やらなければならない事は、一つ。
「ってーーーーっ!!」
パァンッ
さつきの竹刀が司の小手に当たり、衝撃で竹刀が吹き飛ばされる。直後に胴を叩かれてバランスを失い、竹刀の落ちた場所から遠く離れて行く。
――ほら、やっぱり今回も……。
「……っ、ふざけるな!!」
体勢を立て直し、力強く床を踏み締めると、ありったけの声で怒鳴りつける。
ぐちぐちと不満を撒き散らす防具に、それに引きずられかけた自分に。
向かい来る黒い風を見据えると、竹刀が振り下ろされる前に、司は動いた。体のすぐ脇に竹刀が振り下ろされ、風が唸り声を上げる。外したと気付くや否や斬り上げられた竹刀をもかわすと、自らの竹刀が落ちている場所目掛けて駆け出す。
背後からさつきが追う足音が聞こえる。防具があきらめの声を吐き出すのを感じる。動きを鈍らせようとする防具の念を無視し、さつきの存在も忘れて竹刀の元へ行く事だけに集中する。
そうして竹刀の落ちた場所へ向かい、拾っている間に背中に衝撃があったが、構いやしなかった。
これは模擬試合。使っているのは真剣ではなく竹の剣。
賭けられたのは命ではなく、試練。
これを乗り越えようとする意志。
「っぇえーーーーん!!」
さつきの声が体育館内に響く。竹刀は狙いを外れて床を打つ。
司はしゃがんだ状態から体を捻り、床を蹴って矢の如く飛び出す。
「っおおおおおおお!!」
竹刀が、さつきの喉元へと吸い込まれていった。
「ふぁわお!」
気の抜ける声がして、追撃を掛けようとしていたさつきの動きが止まった。喉元に、司の竹刀の先端が食い込まんばかりの勢いで突き付けられている。
空気が止まる。音が消え、体育館内を静寂が包む。
数秒後。
「すごーいすごーい! つかさ、つよーい!」
相変わらず気の抜けたさつきの声が空間を満たし、ようやく司も今に現実味を感じられた。
突きつけていた竹刀を下ろし、どっと疲れの伸し掛かった肩を落とす。
「勝……った、のか?」
「うんうん。やっぱりつかさは凄いねー。ぱちぱちぱちー」
竹刀を小脇に抱え、さつきはマイペースに拍手をしている。先程まで鬼気迫る勢いで竹刀を振っていたのと同一人物に思えない変貌ぶりだ。
「……全く」
面を取り、汗で張り付いた髪を払うように頭を振る。傍らに人気を感じて顔を向けると、鞄を抱き締めるように抱えた藤崎と目が合った。
「お疲れ、さまです」
「あぁ」
疲れた声で応じながら、防具を外しに掛かる。
もう、後ろ向きな声は聞こえてこなかった。
「なんでだ! 慧羽月に勝てて俺が勝てない訳ないだろ!」
新たに聞こえてきた不満声は剣道部部長のものだったが、司はこれを無視。防具をすべて外すと藤崎から眼鏡を受け取った。
「あっついな」
「先輩、もろ制服で運動しちゃいましたからね……」
ワイシャツが汗でへばりついている。だがこの事態を予測していなかった為着替えがない。
「風邪引いたら責任とってもらうぞ」
「はーい」
睨むようにさつきを見遣ったが、未だ面を付けたままの物の怪はどんな表情をしているか分からなかった。いつもと変わらぬのんびりとした返事が戻るだけだ。
「くそう! リベンジだ! もう一回俺と勝負しろ!!」
「ふえ?」
気が付けば、剣道部部長がフル装備でさつきに対峙していた。彼女は暫く首を傾げた後、こっくりと頷く。
「うん、良いよぉ。あ、でもちょっと待って」
「お前、ほどほどに……」
彼女が物の怪である事が、この場にいる者たちに露見ては面倒なのだ。だが、司の心配をよそに、さつきは防具をごそごそとまさぐり、何かを取り出した。
「はい、つかさ。ぼくはもうちょっとこの人の相手するから、残りもがんばってね」
「いや、だからほどほどに」
「わかってるよぉ。……“らしく”するから、だいじょーぶ」
司の小言に小声で答えると、さつきは取り出したものを司の手に押し付けた。
手の平に収まってしまうような、小さな封筒。金封のような紙の包みだったが当然の如く中身は紙幣ではない。
「……『寺』?」
厚みのある上等な和紙に達筆な筆文字で一言、『寺』とだけ書かれている。それ以外に文字はなく、それ以外に同封されているものもない。
「お寺に行けって事ですか?」
「んな訳ないだろ。近場に寺はないし、本当に寺に行けってんならもっと具体的に名前を書いて寄越すはずだ。最初も言ったが『文化祭の間に』って枷があるんだ。外部の施設を舞台に使うはずがない」
藤崎の言葉を一蹴し、司は『寺』と書かれた紙を元通り封筒に仕舞った。
稲荷神の名の一部なのかもしれないし、それを想起させる暗号の一部なのかもしれない。どの道たった一枚では判断のしようがない。
「まぁ、ヒントを寄越すつもりくらいはあるらしいな。他の場所も回ってみるか」
「っぇえーーーーん!!」
荷物を纏めた司の背後で、再び打ち合いが始まった。相変わらずさつきが圧倒的に強いが、今度は部長も軽く諦めるつもりがないらしい。何度打ち込まれようが果敢に向かって行っている。
「防具、どうだったんですか?」
打ち合いを見遣りながら、藤崎が訊ねる。
「名前に恥じない後ろ向きな代物だった。二度と着たくない」
正直に、更に辛辣に評価を下す司に、藤崎は苦笑いを浮かべた。何となく司の心境が掴めるといった風で首を竦める。
「さっきの試合」
「……うん?」
ぽつりと呟かれた言葉に司が頭を動かす。藤崎はさつきたちの試合を眺めながら、感嘆の息を漏らしていた。
「なんかもう、凄すぎて言葉が出て来なくて。応援しようと思ったんですけど、それよりびっくりが大きすぎて開いた口も塞がらなくて」
尊敬の色を湛えた横顔は、見ている方が恥ずかしい。
「そう、か」
司は踵を返すと、そっけない口調で言った。
「そろそろ行くぞ。観戦していたらきりがない」
言いながらも、耳に熱が集まるのを感じた。
……赤くなっていなければ良いが。
「あ、先輩待って下さいよう」
歩を踏み出すと、藤崎が慌てた様子で後を追って来る。
更にその後を。
「ふふーん」
意味ありげな笑みを浮かべたももが続く。
「……何だ」
「なーんでもなーい」
楽しげに浮遊する少女を横目で見やり、司は溜息をつく。その横顔を不思議そうに見遣る後輩を見て、悟られていない、とせめてもの安堵を抱くしかなかった。
03に続く。
「付物神と藤の花」目次へ
神の名を知る。それは絆が深まり、より一層繋がりが強くなることを示す。そのメリットは、どちらかと言えば人間側の方が大きい。だからこそ、“その時”は神によって慎重に定められていた。
――お主が成人したら、わらわの名を教えるに相応しいか試してやろう。
それが、稲荷神の言い分だった。
神の名を知れば、神の力の行使は今よりかなり容易になる。だが、司は別段力を望んでいる訳ではなかった。
否。“他者から力を借りる事”を望んでいなかった。
望むのは、己の力。己が鍛え研ぎ澄ました己の刃。
だから、正直なところ、どうでも良い。
恐らく、稲荷神は司のそんな心境すら、お見通しだったのだろう。そうでなければ、藤崎を巻き込むような真似はしなかったはずだ。
いつの間にか藤崎の家に居候する物の怪に恩を売り、その返礼の約束まで取り付けていたらしい。しかもそれを恩を売った物の怪本人ではなく、その主に求めるとは。
一体、どこまで計算しているのだろう。
文化祭が終わるまでに稲荷神の名を当てなければ、司の試練はおろか、藤崎が成し得なければならない返礼までが失敗に終わる。居候の物の怪がどうなろうと司の知った所ではないが、藤崎自身に被害が向かうのは避けたい。という事は、否応無しに試験を受けなければならない。
全てが稲荷神の思うがままに仕組まれているようで良い気分はしなかったが、仕方がない。
「でも先輩。なんか心当たりあるんですか?」
藤崎が心配そうに司の顔を覗き込む。それに対し、彼は肩を竦めるしか答える手段がない。
ももがもたらした伝言という名の情報は、“試練の開始”を告げるだけのものだ。名前を当てる為の手掛かりは欠片もなく、この先得られるかどうかさえ定かではない。
そして、司自身が何らかの手掛かりを持っているかと問われれば、答えはNOだ。狐の耳と尾を持つ巫女服姿のあの神を『稲荷神』と呼ぶのは司だけではない。司の家族もまた、なのである。司以外は稲荷神の本当の名前を知っているはずだが、誰もその頭文字すらうっかり口にした事がない。
つまりは、手掛かりも展望も段取りもない試練に、司は挑まねばならないと言う事だ。
「……ただ」
顔に縦線が見えそうなくらい青褪める藤崎を宥めるように、司は言った。
「『祭りが終わるまで』つまり文化祭が終わるまでってタイムリミットを付けてきたのには意味があるはずだ。腐っても神だからな。まだ学生という立場の俺達が、こういう日に学校を抜け出せないのは分かってる。つまり、もしヒントを寄越すなら学校敷地内のどこかだ。……ヒントを寄越すならの、話だがな」
「でも、先輩稲荷神様の名前、全然知らないんですよね?」
「ああ。頭文字すら知らん」
「なら、きっとヒントくれます、よね?」
「……気が向けばくれるんじゃないか?」
巻き込まないようにと思うのに、藤崎が青くなるような発言をさらりとする。我ながら悪癖だと思いながらも、司は振り向きもせずに歩を進めた。
何か言われれば、とりあえず皮肉で返す。皮肉でなくとも相手に冷たいと取られる態度で返す。それは、幼少期から培われてきた、司なりの処世術だった。
人と霊の区別がつかなかったからこその、自己防衛の為の手段。そうしなければ、迂闊に優しい言葉を掛ければ、相手が悪霊だった場合、最悪の事態が容易に引き起こされてしまうから。
そうして誰が相手でも壁を作って接してきた司は、人と霊を何とか見分けられるようになってきた今でも、友人と呼べる人間が少ない。
だからこそ、分け隔てなく関わってくる者は大切にしなければならないのに。
「ふじ――」
「ぇえーーーーん!」
何か詫びでもと思い口にした言葉は、途中で塞き止められた。
司は呼び掛けの声を途中で飲み込み、藤崎は目を丸くすると辺りを見回した。
当てもなく進めていた歩は、気付けば体育館に繋がる外廊下の傍まで二人を導いていた。相変わらず人の入りは多いとは言えない。だが、どうやら雨は一時的に上がっているようだ。この状態が続けば、次第に学校は祭りとしての賑わいを見せるだろう。
「ぇえーーーーん!」
叫び声のような、掛け声のような、そもそも人の声なのかも怪しいが、とにかく不可解な声が再び聞こえた。二人は顔を見合わせるとおもむろに歩を踏み出し、音の出どころを探って外廊下へと繰り出す。
ダンッ、ダンッと床を踏み締める音が聞こえ、合間に何かが激しくぶつかり合う音と、認識不能の叫び声。
繰り返し音を聞くうちに、司は何となくその正体が掴めてきた。
「……剣道部、か?」
「あ、あります剣道部。午前中は体育館で体験コーナーやってるみたいです」
藤崎が、鞄から取り出した文化祭のパンフレットを読み上げる。横から覗き込むと、剣道着を着た人間のイラストの横に、”あなたも日本の武道に触れてみませんか?”の文字。
午前中は運動部が体験コーナーを設け、午後からは軽音楽部や演劇部の発表があるらしい。
あの叫び声は、剣道部の掛け声だったという事だ。
「ぇえーーーーん!」
納得のいった所で再び歩き出した二人は、体育館前で歩を止めた。二重扉はどちらも開かれており、中の様子がよく見える。
剣道着姿の部員と思わしき者達が円形にしゃがみ込む中心で、打ち合いが行われていた。
「ぇえーーーーん!」
「っそーーーーっ!」
綺麗に面を決めた選手の後頭部で、黒く長いポニーテールが踊る。やられた選手が悔しげな声を上げる。
「ぉおーーーーっ!」
「もう一回ーーーーっ!」
同じポニーテールの選手が今度は胴を入れる。これも綺麗に決まり、もはや頼みこむような叫びが体育館に響く。
「ってーーーー!」
「うわあああああああっ!」
「しゅっ、主将!」
「部長、しっかりっ!」
三回目の試合で小手が入ると、相手選手は絶望的な叫びを上げると同時に床に崩れ落ちた。周りで見守っていた部員たちが慌てて駆け寄っていく。
どうやら、挑戦者の圧勝らしい。
「うわー、強いですねあの人」
隣で、藤崎が感心した声を出す。司も内心で同じことを考えながら、踵を返そうとした。聞こえた声が気になっただけで、そんなに興味はなかったからだ。
しかし。
「もう終わりー?」
間延びした声がポニーテールの選手から発せられた瞬間、彼らに背を向けかけていた司の動きが止まる。くるりと体育館内に視線を戻すと、確かめるように歩を踏み出した。
「くそう……くそう! 俺は県大会にも出場した事があるんだぞ! 準優勝した経験だってあるってのに……なんなんだ一体! 一般人に負けるなんて!」
崩れ落ちた部長らしき人物が、小手を巻く拳を何度も床に叩き付ける。それを、ポニーテールの選手が不思議そうに眺めていた。
「小手しててもそんな事したら痛いんじゃないかなぁ?」
面をしているせいで多少曇ってはいるが、ポニーテールの選手から発せられるのはマイペースさを窺わせる女声。今は剣道着を身に着けているが、身長も立ち姿もここ数か月で見慣れたもの。
「さつき、か?」
「あっ、つかさだ~」
嫌な予感を抱きつつその背に呼び掛けると、ポニーテールの女性……司の家に居候中の物の怪、さつきが嬉しそうな声と共に振り返った。
“さつき”というのは本名ではなく、司の“名付け”により付けられた二つ名だ。彼女は何らかの手違いで五月人形、つまり男の人形に宿ってしまった女性の物の怪で、そのせいか真名は“牛丸”。当然ながら本人はこの名前を嫌っていて、居候が決まった時に司が仕方なく名前を付け直してやったのだ。
普段は家にいて、司が呼ぶまでは外出するはずもないのだが。
司がさつきに関しての考察をしていられたのは、そこまでだった。
「慧羽月っ!!」
先程まで床に突っ伏していたはずの部長が何時の間に司の目の前にいて、彼のワイシャツを掴み上げていた。身長はそれ程変わらないが、体格差がかなりある。司の体は、つま先を残して浮かび上がっていた。
「てめぇの知り合いかあっ!!」
人の精神を狂わせる“文化祭の魔”とやらでもいるのだろうか。今日はやたらと精神が不安定な人間にばかり絡まれる。
司は呆れた視線で相手を見下した。何分、首元が掴み上げられているおかげで頭が反り上がり、そうしないと下が見えないのだ。
「せせせ先輩っ?!」
背後で藤崎の慌てた声が聞こえたが、反応してやる暇がない。
「……遠戚だ。というか離せ」
咄嗟にさつきとの関係性をでっち上げつつ、司は掴みかかられている相手の手首を掴み、更にもう片方の手で関節に手刀を叩き込む。がくんと高度が下がって両足がしっかり地についたのを確認すると、不快そのものの表情で相手から距離を置いた。
「お前がさつきに負けたからと言って俺が絡まれる謂れはない」
言いながらワイシャツを直す。不安そうに覗き込んできた藤崎に「大丈夫だ」と呟いた。
「こいつはストーカー対策に我流ながら武術を身に着けているからな。一般人の括りには入らない。女だからと馬鹿にしていると痛い目に遭うというのが分かって良かったじゃないか」
「つかさ。すとぉかぁってな」
さつきが余計な発言をしそうになった所を、司は睨み付ける事で止めた。
ついでに、司の言葉で逆上しかけた部長も同じようにして牽制する。
「というか、お前も何でこんな所にいる……んだ」
さつきを問い質そうと言い掛けた所で、その理由に思い当たってしまった気がして司は口ごもった。さつきも司の心境には気付いたようで、にっこりと微笑む。
「あのね、つかさ。この学校には“一度も勝った事がない防具”があるんだって」
唐突に、突拍子もない事を言い出す。
確かにさつきと初めて会ったのはこの校舎内で、だからこの学校に関する知識を彼女が持っていても不思議ではない……否、そんなはずはない。
さつきと会ったのは確かにこの学校が最初だが、己の体を恨み女子の体を求めて彷徨った挙句この学校に入り込んだ経歴、ほぼこの学校に関係のない五月人形だったことを考慮すれば、彼女がこの学校に関する知識を持っているはずがない。
同族で情報提供者がいるとすればももだが、部長に掴みかかられたと同時にその覇気で吹っ飛ばされた少女は、打ち付けたらしい腰を擦りながら恨みがましそうに司を見上げている。司のもの問いたい視線には肩を竦めるのみだ。
彼女ではない。という事は、学校に関係がなくとも、広範囲に縄張りを持てるような、もっと上位の……。
「本当か?」
とは言え、まずはさつきの言葉自体信憑性が薄いので、司は確認を求めるように部員の方へと目をやった。
目の前の精神不安定な部長は丸無視である。
「へっ? ……あぁ、確かにある。縁起悪くて誰も使わないから、倉庫の奥に半分くらい封印状態。よく知ってるな。この学校の卒業生?」
「ね、つかさ」
まるで周りの人間が全く見えていないかのように、周りの意見が全く聞こえていないように、さつきは言った。
「それ使って、ぼくと打ち合いしようよ」
「は?」
部員から出された素朴な疑問をスルーするには格好の口実となったが、内容は全く頂けない。
物の怪の中では若者の部類に入るとは言え、さつきは五月人形の物の怪である。刀と鎧を標準装備し、その辺の悪霊相手なら引けを取らない程度の強さだ。人とは少し違う者が見えるが故に人より特別な訓練をし、それなりに運動神経の良い司であろうとも、まともにやり合える相手ではない。
大体。
「……俺は柔道の選択者だったんだが」
“眼鏡が面に引っかかるだろう”という理由で、体育の選択科目で柔道を選んだ司である。中学、高校と、剣道と言えば遠目に見る種目だった。
「やろ?」
司の苦い表情も、さつきの笑みの前に抹消されてしまう。恐らく、拒否の選択肢は司に残されていない。初めから何もかもがおかしすぎるのだ。
“名付け”をし、主のような存在になった現在、さつきが司の命もなく動く、更に主と敵対しようなどと思って行動するのは容易ではない。司よりも上位の存在が、何らかの意図を以ってさつきを動かしたとしか思えない。
そして、その上位の存在は、この場合、一人しかいない。
「るーるは無視で良いよ。ぼくもちゃんと分かってる訳じゃないし。後、つかさの方が圧倒的に不利だから、ぼくに何度打たれても負け判定にはしないからね。とにかく、つかさはぼくの攻撃を潜り抜けて、ぼくに一撃お見舞いする。そこでやっと試合終了。わかった?」
「……分かった」
拒否権はない。ならば、受けるしかない。
司は溜息と共に、鞄を置くとブレザーを脱いだ。
「これが、件の防具だけど」
勝手に進行する話に戸惑うことなく、部員の一人が“一度も勝った事のない防具”とやらを持ち出していた。見かけは普通の剣道着だが、さつきがわざわざ指名するほどだ。何かしらのいわくつきの品である事は間違いないだろう。
「藤崎」
「あ、はい」
「荷物、預かっていてくれ」
呆然と事の成り行きを見守っていた後輩に鞄を示し、眼鏡を預ける。気の進まないまま溜息交じりに防具の元へ向かうと、それだけで嫌な予感がした。
触れる前から、嫌な気を感じる。出来る事なら触りたくない。しかしこれを着なければ勝負が始まらないので、仕方なく防具に手を触れた。
触れた所から肌が粟立った。
「防具の付け方、分かるか?」
「いや、全く分からん」
それでも平常心で剣道部員の手を借り、防具を身に着ける。小手を付け、面をはめる頃には、かなり気分が悪くなっていた。気持ちが重くなっていた、とも言えるだろうか。
竹刀を持ってさつきの前に立つ頃には、戦う前から力が入らない有様になっていた。
――どうせ勝てないんだ。
――勝てるはずがない。
――また負けるんだろうなぁ。
防具からひしひしと、歴代の戦士たちの溜息が感じられる。戦う前からこんな後ろ向きな気持ちをぶつけられては、たとえ百戦錬磨の猛者であろうとも戦意が奪われると思われた。
これだけ人の感情が入り込み、防具自体が意志を持ち始めている。物の怪として目覚めていてもおかしくはなさそうだが、しかしそうなっていないのは不幸中の幸いと言えた。
負の感情しかないこれから目覚めた物の怪は、さぞ碌でもない存在になる違いない。
「いっくよー」
目の前で、さつきののんびりとした声が聞こえる。面の視野狭窄に相俟って眼鏡を付けていない事による視力の低下で、相手との距離感が掴み辛い。
ガンッ
「っ?!」
「っぇえーーーーん!」
衝撃からかなり遅れて声が聞こえた。
認識が追いつかない。
今度はガツッという衝撃と共に、体がよろめいた。
「っぉおーーーー!」
背後に回っていた黒き風が、前方へと吹き流れていく。くるりと舞ったポニーテールが、再び司目掛けて突進する。
ゴンッ
思考が認識から指令に切り替わる頃、再び脳天に衝撃が来た。竹刀を構える暇も、相手を探す隙すらない。さつきの動きが早すぎる。ただでさえ相手を認識するのに必死だというのに、防具のマイナス思考さが鈍足に磨きをかけてくる。
これで、さつきに一撃を食らわせろって言うのか
思わず、心の中で不満を漏らさずにはいられない。
さつきは、たとえ主相手であろうと手加減をするつもりはないようだ。恐らく稲荷様からそう命じられている為だろう。
「っぇえーーーーん!」
否。
適度に相手しろと言われていても、彼女なら全力で向かって来たに違いない。そう確信させてくれるような、楽しげに弾んだ掛け声だった。
容赦なく叩き込まれる攻撃に耐えつつ、竹刀を構えて相手を探す。防御しようと竹刀を構え始めた頃には攻撃が決まり、攻撃しようと歩を踏み出した頃にそこに敵はいない。
さつきが早すぎるのもあるが、司が遅すぎるのも厄介な要因と言えた。しかもそれが、司自身ではなく、防具に難があるのだから笑えない。
――あぁ、痛い。あとどれくらい我慢すればいいんだろう?
不満げな防具の念。成長や進展を望まず、ただただ時間が過ぎるのを待つだけの、まるで投げやりな思念。
全くだ。何でこんな事。暑いし蒸れるし視界は悪いし、良い事が一つも……。
「…………!」
ガンッ
思わず防具に倣って愚痴を吐きかけた心が、頭への衝撃で現実へと戻される。
待っても試合は終わらない。文句を言っても稲荷神は答えない。
やらなければならない事は、一つ。
「ってーーーーっ!!」
パァンッ
さつきの竹刀が司の小手に当たり、衝撃で竹刀が吹き飛ばされる。直後に胴を叩かれてバランスを失い、竹刀の落ちた場所から遠く離れて行く。
――ほら、やっぱり今回も……。
「……っ、ふざけるな!!」
体勢を立て直し、力強く床を踏み締めると、ありったけの声で怒鳴りつける。
ぐちぐちと不満を撒き散らす防具に、それに引きずられかけた自分に。
向かい来る黒い風を見据えると、竹刀が振り下ろされる前に、司は動いた。体のすぐ脇に竹刀が振り下ろされ、風が唸り声を上げる。外したと気付くや否や斬り上げられた竹刀をもかわすと、自らの竹刀が落ちている場所目掛けて駆け出す。
背後からさつきが追う足音が聞こえる。防具があきらめの声を吐き出すのを感じる。動きを鈍らせようとする防具の念を無視し、さつきの存在も忘れて竹刀の元へ行く事だけに集中する。
そうして竹刀の落ちた場所へ向かい、拾っている間に背中に衝撃があったが、構いやしなかった。
これは模擬試合。使っているのは真剣ではなく竹の剣。
賭けられたのは命ではなく、試練。
これを乗り越えようとする意志。
「っぇえーーーーん!!」
さつきの声が体育館内に響く。竹刀は狙いを外れて床を打つ。
司はしゃがんだ状態から体を捻り、床を蹴って矢の如く飛び出す。
「っおおおおおおお!!」
竹刀が、さつきの喉元へと吸い込まれていった。
「ふぁわお!」
気の抜ける声がして、追撃を掛けようとしていたさつきの動きが止まった。喉元に、司の竹刀の先端が食い込まんばかりの勢いで突き付けられている。
空気が止まる。音が消え、体育館内を静寂が包む。
数秒後。
「すごーいすごーい! つかさ、つよーい!」
相変わらず気の抜けたさつきの声が空間を満たし、ようやく司も今に現実味を感じられた。
突きつけていた竹刀を下ろし、どっと疲れの伸し掛かった肩を落とす。
「勝……った、のか?」
「うんうん。やっぱりつかさは凄いねー。ぱちぱちぱちー」
竹刀を小脇に抱え、さつきはマイペースに拍手をしている。先程まで鬼気迫る勢いで竹刀を振っていたのと同一人物に思えない変貌ぶりだ。
「……全く」
面を取り、汗で張り付いた髪を払うように頭を振る。傍らに人気を感じて顔を向けると、鞄を抱き締めるように抱えた藤崎と目が合った。
「お疲れ、さまです」
「あぁ」
疲れた声で応じながら、防具を外しに掛かる。
もう、後ろ向きな声は聞こえてこなかった。
「なんでだ! 慧羽月に勝てて俺が勝てない訳ないだろ!」
新たに聞こえてきた不満声は剣道部部長のものだったが、司はこれを無視。防具をすべて外すと藤崎から眼鏡を受け取った。
「あっついな」
「先輩、もろ制服で運動しちゃいましたからね……」
ワイシャツが汗でへばりついている。だがこの事態を予測していなかった為着替えがない。
「風邪引いたら責任とってもらうぞ」
「はーい」
睨むようにさつきを見遣ったが、未だ面を付けたままの物の怪はどんな表情をしているか分からなかった。いつもと変わらぬのんびりとした返事が戻るだけだ。
「くそう! リベンジだ! もう一回俺と勝負しろ!!」
「ふえ?」
気が付けば、剣道部部長がフル装備でさつきに対峙していた。彼女は暫く首を傾げた後、こっくりと頷く。
「うん、良いよぉ。あ、でもちょっと待って」
「お前、ほどほどに……」
彼女が物の怪である事が、この場にいる者たちに露見ては面倒なのだ。だが、司の心配をよそに、さつきは防具をごそごそとまさぐり、何かを取り出した。
「はい、つかさ。ぼくはもうちょっとこの人の相手するから、残りもがんばってね」
「いや、だからほどほどに」
「わかってるよぉ。……“らしく”するから、だいじょーぶ」
司の小言に小声で答えると、さつきは取り出したものを司の手に押し付けた。
手の平に収まってしまうような、小さな封筒。金封のような紙の包みだったが当然の如く中身は紙幣ではない。
「……『寺』?」
厚みのある上等な和紙に達筆な筆文字で一言、『寺』とだけ書かれている。それ以外に文字はなく、それ以外に同封されているものもない。
「お寺に行けって事ですか?」
「んな訳ないだろ。近場に寺はないし、本当に寺に行けってんならもっと具体的に名前を書いて寄越すはずだ。最初も言ったが『文化祭の間に』って枷があるんだ。外部の施設を舞台に使うはずがない」
藤崎の言葉を一蹴し、司は『寺』と書かれた紙を元通り封筒に仕舞った。
稲荷神の名の一部なのかもしれないし、それを想起させる暗号の一部なのかもしれない。どの道たった一枚では判断のしようがない。
「まぁ、ヒントを寄越すつもりくらいはあるらしいな。他の場所も回ってみるか」
「っぇえーーーーん!!」
荷物を纏めた司の背後で、再び打ち合いが始まった。相変わらずさつきが圧倒的に強いが、今度は部長も軽く諦めるつもりがないらしい。何度打ち込まれようが果敢に向かって行っている。
「防具、どうだったんですか?」
打ち合いを見遣りながら、藤崎が訊ねる。
「名前に恥じない後ろ向きな代物だった。二度と着たくない」
正直に、更に辛辣に評価を下す司に、藤崎は苦笑いを浮かべた。何となく司の心境が掴めるといった風で首を竦める。
「さっきの試合」
「……うん?」
ぽつりと呟かれた言葉に司が頭を動かす。藤崎はさつきたちの試合を眺めながら、感嘆の息を漏らしていた。
「なんかもう、凄すぎて言葉が出て来なくて。応援しようと思ったんですけど、それよりびっくりが大きすぎて開いた口も塞がらなくて」
尊敬の色を湛えた横顔は、見ている方が恥ずかしい。
「そう、か」
司は踵を返すと、そっけない口調で言った。
「そろそろ行くぞ。観戦していたらきりがない」
言いながらも、耳に熱が集まるのを感じた。
……赤くなっていなければ良いが。
「あ、先輩待って下さいよう」
歩を踏み出すと、藤崎が慌てた様子で後を追って来る。
更にその後を。
「ふふーん」
意味ありげな笑みを浮かべたももが続く。
「……何だ」
「なーんでもなーい」
楽しげに浮遊する少女を横目で見やり、司は溜息をつく。その横顔を不思議そうに見遣る後輩を見て、悟られていない、とせめてもの安堵を抱くしかなかった。
03に続く。
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