「ならば、せめて――」

 シャン……シャン……

 鈴の音が聞こえた。それはまだ遠いと言うのに、森の中をざわつかせるに十分な力を持っていた。

 辺りに感じていた同族の気配が遠のいていく。同時に、傍らに立つ鏡龍も、ぶるりと体を震わせた。

「かがみ」

「申し訳ありませぬ。己はこの場に……っ!」

 シャン……シャン……

 鈴の音が近付いて来る。それは唐子松の中に巣くう闇を震え上がらせ、それを抱く彼に強い痛みをもたらす。だが、逃げようにも体は動かない。そうしている間にも、鏡龍は耐えかねたように身を躍らせ、唐子松から離れて行った。

 誰かが来る。この森で活動していた殆どの者を離れさせてしまう程強い力を持つ誰かが。

「っ、く、あ……」

 体の奥で疼く痛みに耐えながら、唐子松は変わらず地面にうつ伏せになっていた。

 気を抜けば、いとも簡単に潰されそうな霊圧。それは、迷わず唐子松のいる場所目掛けて近付いて来る。

 シャン……

 鈴の音が、唐子松の傍らで静止した。真っ白な足袋が草の合間にちらりと見える。袴と思われる朱色の裾もかろうじて確認できた。

「この辺りの輩は腰抜けばかりじゃの。わしの気配に怯えて逃げるとは失礼な」

 親しげな甘い声。それに反した威厳ある声音。

「…………っ!」

 名を呼ぼうとした唐子松の口からは、苦しげな呼気が漏れるのみ。体も先程より重圧が増したように重く、全く言う事をきかなくなっている。

「んで? お前さんもこの体たらくか。……などという意地悪は言わんよ。よくもまぁ、保っておるな」

 視界の端に、滑らかな金色の緒がちらりと映った。次の瞬間、相手は唐子松の傍らに膝を折る。

「……んん? あぁ、文字も書かんで宜しい。器にヒビ、いや、穴開いとるだろお前さん。そこから思考がだだ漏れじゃ。無論、わしじゃからこそ分かるんじゃがな」

「……っ」

「いんや。わしはお前さんを終わらせに来たんでないよ。ただの散策じゃ。……あぁ? 知り合……あーもー、人の話は最後まで聞かんかい」

 苦しげに呼吸を繰り返しながら、唐子松は身を捩ろうとして、相手に体を押さえられた。触れられただけだと言うのに、びくりと痙攣する。相手が神域に属する者で、今の唐子松はそれと対極の状態にあるせいだろう。

「終わらせてなどやらん。んな楽させて堪るかいってんじゃ。ま、精々我慢せいよ。……痛いぞ? だーかーらー、そういう意味じゃ……あー五月蠅いのう!」

「だっ」

 何の前触れもなく、だが確実に苛立ちの声と共に、唐子松の背中に強烈な一撃がきた。

 シャン! シャン!

 鈴の音が響き、痛んだ背中が熱を放つ。熱は瞬く間に全身へ回り、痛みと熱さで意識が遠のく。しかし、相手は唐子松が気絶するのも許してくれない様子で、先程と同じ場所に先程より強い一撃を叩き込んできた。

「がっ……だーもーお前な! 手加減ってもんを知らんのか」

 背中を庇うように勢いよく起き上がった唐子松は、目の前で膝を折る淡い金髪の女性に怒鳴りかかった。

「器に余計な傷が入ったらどうして! くれ……る……」

 その勢いも、時を追うごとに萎んでいく。彼は何度も目を瞬き、己の体を見下ろした。

 先程まであんなに重かった体が調子を取り戻している。いや、それだけではない。

「唐子松」

 巫女装束に身を包み、片手に神楽鈴を持ち、髪色と同じ獣の耳を持つ女性が、呆れた様子で唐子松を見ていた。

「まずはわしに何か言う事あるんじゃないかの?」

「……すまない。恩に着る」

 体を巣食っていたはずの怨念が、怨霊になりかけていたはずの体が、真っ新と言っても過言ではない状態に戻っていた。

 すっかり勢いも萎えた様子で、唐子松は頭を垂れた。視界の端で、狐の尾がひょこひょこと揺れている。

「お前、知っていたんじゃないのか?」

 神ともあろう者が、何の理由もなくこんな場所を歩くはずがない。彼女は知っていたはずなのだ。

 この場に、怨霊と化した虹鏡がいる事を。

「さぁの。わしは気ままに散歩を楽しんでおっただけじゃ」

 そっけなく顔を背ける稲荷神に、唐子松は確信を深めた。

「何故、虹鏡を助けてくれんかった。お前なら」

「買い被るでない」

 言葉を畳みかけようとするも、稲荷神のぴしゃりとした物言いに口を閉ざす。

「お前を“戻して”やれたのは、お前自身が染まらぬように努力していたからに他ならん。虹鏡は望んで染まっておった。完全に身を委ねておった。ああなってしもうては、いくらわしとて何も出来ぬ。ただ、他に誰もいないのならわしが送ってやろうと思っていただけじゃ」

「……そうか」

「確かに最後くらい知り合いの顔は見たいもんだろうじゃがの。今のお前さんは魅入られやすいという自覚を持っておくんじゃな。わしが何度も偶然通りかかるわけではない。いつも助けてやれる訳ではないのじゃぞ。……優しいのは、認めてやるがな」

「……そんな事はない。こんなでは、ただの、自己満足だ」

 心のどこかで、助けたいと願っていた。しかし結局、助けられなかった。『助けられるかもしれない』という思いが、そもそも傲慢だったのに。

 神ですら救えない者を、どうして一介の物の怪が救えよう?

 虹鏡の言い分だって分かっていたはずだった。何を求めて唐子松の前に現れたのかも、分かっているはずだった。なのにちゃんと受け止めてやることも出来ず、一方的に終わらせてしまった。それが自己満足ではなく何なのだろう。

「自己満足で良いではないか。被害を拡大させず、知り合いの手で最後を飾る。知らぬ者にされるよりも、被害を受けた者の復讐によって終わるよりも、ずっと良い結末ではないか」

「…………」

「それともお前さん、今の主を蔑ろにしてでも、虹鏡と共に終われば良かったと思うておるんか?」

「……そこまで知っとるのか」

「わしを誰だと思うておる」

 驚きを禁じ得ない唐子松に、稲荷神は自慢げに胸を反らした。

「お前さんは、もう一度人間の側に寄る決意をしたんじゃろう? なのに、主を蔑ろにして、まして恋人でもない物の怪と心中するなど阿呆じゃぞ。ド阿呆」

「……別段心中するつもりはなかったんだが」

「怨念ぶっこまれてあわや怨霊になりかかっておいて、何を言うか。もう一度言うがな。わしが通りかからねば、お前さん主の元に戻る事も出来んかったんじゃぞ」

「そう、だな。済まん」

 もう少しで、咲と交わした約束を破ってしまうところだったのだ。こうなると、唐子松が稲荷神に反抗できる口実はない。

「ま。これの礼は稲荷寿司で勘弁してやるからの」

「……は?」

「『は?』ってお前さん。まさかわしに一仕事させておいて、何も返礼を寄越さぬつもりではなかろうな。返答次第ではこの辺りの瘴気を全てお前さんの器に……」

「い、いや、する。させて貰う! だから止めてくれ」

 ずい、と迫りくる稲荷神の顔を、唐子松は座ったまま後退さる事で回避した。稲荷神は暫く疑わしげに唐子松の顔を窺っていたが、やがて体を引いて立ち上がる。

「わしも随分舌が肥えてしまってな。そんじょそこらに売っとるようなもん寄越したらただじゃおかんでな」

「……無茶言うな。俺とてそんなに主に負担は掛けられんのだぞ」

 意味ありげに笑う稲荷神を見上げ、唐子松は冷や汗を流す。

 怨霊になる一歩手前。そこから救われたのは確かに大きい。物の怪にはまず出来ない、神域にいる者だからこそ成せる技だ。その対価が稲荷寿司で良いなら安いものなのだが、しかし本当に安いかと言えば、稲荷神の要求次第である。

 早々手に入らないような高級料亭の……とか言い始められてしまっては堪らない。

「そう心配するな。そうさな。お前さんの主が作ったもんが良いの」

「それで、良いのか? 咲は別に料理人ではないぞ」

「良い。それでお前さんの主の器を計らせて貰う事にするからの」

「…………」

 結局、代償が大きいのか小さいのか分からないと、唐子松は思った。

「高い食材使えと言っとる訳じゃないぞ?」

「それは、分かっておる」

「ならば、そこまで不可能な要求でもなかろ?」

「まぁ……」

 命を差し出せだの、巨額のお布施を納めろだの、そういうものに比べれば確かに安いものだ。だが、主を巻き込んでいるという点で、本当に安いものなのか首を捻ってしまう。

「さて。わしはそろそろ帰るかの。あまり家を空ける訳にもいかん」

「ちょっ、礼の品をどこに――」

 シャン!

 稲荷神が最大級と思わせる満面の悪戯の笑みで神楽鈴を振ると、閃光が迸る。唐子松が咄嗟に振袖で顔を覆って光をやり過ごした頃には、もうそこに稲荷神の姿はなかった。

「……あの狐」

 本人がいないのを良い事に、唐子松は神域に属する者相手に暴言を吐き捨てる。

 稲荷寿司を本人の元まで届ける。そこまで含めて返礼にしろという事か。『家』と言っているからには、彼女はどこかに奉られているのだろうが、その場所が全く分からない。

「どうしたもんかな」

 片手で髪を掻き乱しながら、唐子松は辺りを見回した。

「…………」

 地面についた手に、虹鏡の筒が触れる。

「唐子松……殿」

 ゆっくりとした動きで虹鏡の筒を拾い上げる唐子松の傍らに、恐る恐るといった動きで鏡龍が近付いてきた。稲荷神の影響が薄らいだせいだろう。他の気配も、全てではないが戻り始めている。

「お前は逃げんでも平気だろうに」

「いえ。己はどう足掻こうが“鏡の魔”と呼ばれる者。魔が神を恐れるのは避けがたい運命に御座います……」

 よほど後ろめたいのか、鏡龍は地面につきそうな程頭を垂れていた。それが、不意に持ち上がる。

「唐子松……殿?」

「うん?」

「お体は……」

「あぁ。通りすがりの神さんが全部祓ってくれた。……大丈夫だ」

「それは……宜しゅうございました」

 鏡龍の金色の瞳が、艶やかに光る。それを、唐子松は複雑な笑みで見遣った。

「俺だけ……助かってしもうた」

 言葉にすると、胸の奥が痛んだ。稲荷神に邪気を全て祓われようとも、“後悔の念”だけは消える事がない。

 虹鏡は、何故唐子松の前に現れたのか。

 助けを求めたのではないのか。救いを求めたのではないのか。

 己が消えてしまう前に。

 誰だって、一人は寂しい。捨てられるのも、忘れ去られるのも、痛くて、辛い。

 共に終わってはやれないけれど。だが、何か出来たのではないか。もっと違う選択肢があったのではないか。

「何で……助けられんかったかな……」

 手の中にある筒を両手で包み、絞り出すように言葉を吐き出す。

「誰にも、どうしようもない事だったので御座います。唐子松殿のせいでは御座いませぬ。虹鏡のせいでも御座いませぬ。……誰のせいでもなかったので御座いますよ」

 筒に額を押し当てるように体を丸める唐子松の傍らで、鏡の鱗を持つ龍は静かに寄り添い、時に慰めるように、時に己に言い聞かせるように、言葉を紡いでいた。



 青味を帯び始めた空の下、見慣れた屋根の上で一人の少年が唐子松に向けて手を振った。

「旦那っ、お帰りなさいやす。帰りが遅いんで心配したっすよ~」

 長い黒髪を背中で一括りにし、作務衣を来た少年。頭には髪色と同じ猫の耳。黒霧である。

「……思ったより、手間取ってしまってな」

 鏡龍の背から下りた唐子松は、力ない笑みで黒霧に答えた。

「そうっすか……しかし無事でなによりっす。こっちは特に異常は無いっす。一時気配がありやしたけど、この家までは来ませんでしたし、すぐ消えちまいましたし」

 黒霧の言う時間帯は、稲荷神が現れた時だろう。そう思ったが、唐子松は黙って頷くに留めた。黒霧の明るい声は気持ちを楽にしてくれるが、先程までの出来事を言葉として紡ぐには、唐子松は疲れすぎていた。

「咲は……この時間だと起きてしまっとるな」

 空を見上げ、ぽつりと零す。眠っている間に帰ると言ったのに。と、自虐的な笑みを浮かべる。

「そうっすね。ちょっとパタパタ物音してたっすよ。……入らないんすか? ……って、あー」

 落胆する黒霧の声に顔を戻すと、そこに少年の姿はなかった。どうやら時間切れらしい。先程まで少年が立っていた場所に、黒猫が座っている。

「留守番役、恩に着るぞ。黒霧」

「へっ? ……あぁ、こんくらいどうって事ないっすよ。それより行かないんすか?」

 重ねて訊ねられ、唐子松は苦笑する。

「まぁ、行くがな……。万が一にも着替えの最中だったら困るでな」

「……あー、それもそうっすね」

 唐子松の言いたい事が分かったらしく、黒霧も猫の姿だと言うのに、妙に人間臭い笑みを浮かべた。

「唐子松殿。己はこの辺で失礼仕る」

「ん? あぁ。……ありがとう、鏡龍」

 すでに朝の光に溶けそうな程姿を薄めていた鏡龍が、ふわりと浮き上がる。彼を見上げ、唐子松は力ない笑みで頷いた。鏡龍の姿は更に薄れ、風景に溶けていく。やがて、気配も消えていった。

 足元で、ガラガラと雨戸の開く音がした。ガタンという音と共に、溜息が聞こえてくる。

 唐子松は反射的に屋根から跳び、ベランダへ着地した。

「ふわっ ……って、びっくりした。市松さん!」

 落ち込んだ表情が一変、咲は花のような笑みを浮かべた。

「帰ってないから心配したよ。……帰って来ないかと思っちゃったよ」

「遅くなって済まぬ。少し前に戻ったんだが……」

「帰ってたんなら入れば良いのに。それとも、やっぱり窓開けといた方が良かった?」

「いや、お前が着替えていたら困ると思うて、入れんかった」

「あ……そっか。うん、ごめん」

 唐子松の言葉に、恥ずかしげに頬を掻く咲。変わらぬ主の顔を見て、ぐっと安堵感が広がるのを感じた。

「とりあえず、入ったら? 疲れたんじゃない?」

 咲に振袖の裾を引かれ、唐子松は彼女の部屋へと入った。

「何か食べる? 持ってこようか」

 心ここに非ずと言った唐子松から何かを感じたのだろう。咲が踵を返そうとする。その体を、唐子松は抱き締めた。

 殆ど反射的で、無意識の行動だった。

「えっ……市松、さん?」

 戸惑う主に構わず、唐子松は彼女の肩に顔を埋める。

「帰って、来たのだな……」

 掠れた声で、そう呟いた。腕の中に主の温もりを感じ、その思いを言葉にしてやっと、“今”が現実味を帯びてくる。

 もう帰れないと思っていた場所に帰って来た。守ろうと決めた主に会えた。それが、嬉しくてしょうがない。

 咲は暫くされるがままになっていたが、唐子松の言葉に何か悟ったのか、ようやく顔を上げた唐子松を真っ直ぐに見上げた。

「市松さん」

「うん?」

「もしかして、何か危なかったりしたの?」

「……う」

 鋭い指摘に、言葉に詰まった。当然ながら、それは咲に伝わってしまう。

「心配、したんだよ?」

「……済まぬ」

 悲しげに表情を歪ませる主に、唐子松は素直に頭を下げた。

「何があったか、教えて、くれる?」

「…………」

「あ、嫌なら、良いんだよ? ただ、話した方が楽になるなら……私で良ければ、聞くから」

「……少し、だけ」

「え?」

「少しだけ、待ってほしい。気持ちの整理がついたら、話す」

 今までなら、誤魔化してしまったかもしれない。とても、話す気になれなかったかもしれない。

 だが、咲は無闇に人の心を踏みにじったりはしない。むしろ、引き際を知りすぎている。

 人に傷つけられてきたが故に、何が人を傷付けるか、彼女は知りすぎている。

 遠慮して欲しくなかった。遠慮したく、なかった。

 同じ間違いを繰り返さなくて済むように。大切な主を失わずに済むように。

「無理しなくて、良いんだよ?」

 気付かわしげに見上げてくる咲に、唐子松は首を振って見せる。

「聞いて楽しい話でもないと思うが……それでも良ければ、聞いて、欲しい。もう、隠し立ては、しない。……失いたく、ないのだ」

「……うん、分かった」

「咲ちゃーん、ご飯よー」

 部屋の外、階下から咲の母親の呼び声が聞こえた。唐子松は我に返り、未だ強く抱きしめていた主の体を、慌てて離す。

「す、済まぬ」

「ううん。ご飯食べるついでに市松さんの分用意して貰うね」

「ありがとうな、咲」

「いーの。ちょっと待ってて」

 パタパタと部屋を出て行った主の姿を見送ると、唐子松はいつもの場所に薙刀を置き、窓辺に寄った。左腕の振袖の中を探り、そっと目的の物を取り出す。

 木製の筒。虹鏡の器だったもの。外面を覆う木には精巧な彫り物が施されている。一部に亀裂が入った今でも、見事な存在感を持っていた。

 筒の一端には、中央に小さな穴が開いている。唐子松はその穴をそっと覗き込み、もう一端を窓に向けた。

 鮮やかな世界が広がった。

 銀色の光の中に、色とりどりの色彩が並ぶ。筒を回せば、色彩も踊る。銀色の舞台の中で、止め処なく踊り続ける。

 布を翻すように文様が変わる。次々に新しい文様を描き続ける。新しい世界を生み出し続ける。

 もうそこに、闇はない。

 だがそこに、虹鏡はいない。





 終。




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