闇色に染められた草木の合間を、深紅の風が駆けていた。
人が知らぬ道。人の世から隔絶された道。“裏道”などと呼ばれる事のある、妖物の世界、隠裏世。
辺りはいつも以上に、同族の気配が多かった。討伐隊もいれば、あわよくば獲物をかすめ取ろうとするならず者もいるだろう。
誰にも先を取られる訳にはいかない。誰よりも先に見つけなければならない。
唐子松は一人、誰もいない場所を探して駆けていた。
虹鏡は鏡龍同様、己を周りの風景に同化させる事が出来る。視覚的に探すのはまず不可能。気配で探そうにも他の者が多すぎる。だが今なら、彼女が思いを遂げる為に行動すれば討伐隊が先回りし、目的地に着くのが困難な状況のはず。
“見つける”為ではなく、“見つけてもらう”為に、唐子松は誰もいない場所を探していた。鏡龍とも今は別行動である。虹鏡が鏡龍の登場を嫌っていたのを知っての対処だ。
恐らく、唐子松が一人でいれば、相手は近付いて来る。唐子松を仲間に取り込む事を、共に人間へ復讐する事を、彼女は目論んでいるはずだ。
駆けども駆けども、景色は変わり映えしない。どこが道とも言えない程蔓延る下草と、乱立する樹木。変化があるとすれば、樹木の数が多い場所と少ない場所がある。それくらいだ。
木々の合間から差し込む月明かりが、誘うように先を照らす。向かう先に人影を見つけ、唐子松は反射的に歩を止めた。
明かりがあるとは言え、相手のいる場所とはまだ距離があり、誰であるかは窺えない。唐子松に背を向ける形で立っている為、顔が全く見えない。真っ直ぐな長い黒髪から、女性であるだろう事が推測できるだけだ。それも、唐子松のような例がある為に、一概に言えない。
おまけに、辺りに同族の気配が多すぎるせいで、あそこに立っているのが誰であるか全く判別がつかない。ただ、彼ないし彼女の周りには、他の気配が全くないのが分かった。
ある種、それだけで十分と言えた。
唐子松は一つ深呼吸をすると、ゆっくりと歩を踏み出した。相手の気配を探るようにしながら、一歩一歩距離を詰めていく。
黒髪の下から伸びる、見事な藍染の振袖。所々金色の光が跳ね返るのは、金糸で模様が縫い取られているからだろう。
いつ相手が動くか分からない。強く警戒しながら進んでいた唐子松は、ふと、振袖の模様が何であるかに気付き、歩を止めた。まるでそれが合図であったかのように、目前の人物が振り返る。
言葉を失った。
「久しぶりですね、唐子松」
鈴を振るうような澄んだ優しい声も、月下美人のように淡く輝く笑みも、触れれば折れてしまいそうなたおやかな体も、それを包む藍染の振袖も、そこに縫い取られた蝶の模様も。
何一つ昔と変わらない。
「どうしたのです? 押し黙ってしまって。永く合わぬ間に、わたくしの事を忘れてしまいましたか」
両手を軽く組んで垂らす立ち姿も、気に食わない事があると声音に悪戯っぽい皮肉の色が混ざるのも、何もかも同じ。
「瑠璃……」
今にも消えそうな声で、唐子松は呟いた。
「良かった。覚えていて下さいましたね」
はにかんで微笑むは、懐かしい顔。もう二度と見る事のないと思っていた物の怪。
瑠璃揚羽。
「…………」
言葉が出てこない。何と言って良いのかも分からない。心の奥底に仕舞い込んだ記憶がかき回される。一緒に溢れ出てきた当時の想いまで、かき乱される思いだった。
「…………」
未だに相応しい言葉は見つからない。ただ、内に生まれた動揺を表情に出すまいと、それだけに唐子松は努めた。
そうしなければ。動揺を相手に悟られては。
「……く」
「どうしたのです? あぁ、久しぶりに顔を見て恥ずかしがっているのですか?」
振袖の裾を口元に当て、くすくすと控えめな笑い声を上げる彼女を見て、唐子松は口にしかけた言葉を飲み込む。
変わらない。いや、全く同じだと言うべきなのか。
この時間が続いたら。彼女と共にいられたら。
「…………」
いられたら?
深く息を吸い込む。秋の夜気が体に染み渡る。己がしっかりと立っている事を確認し、続けて脳裏に咲の姿を思い浮かべた。
必ず帰ると約束した、主の顔を。
「生憎」
言い掛けた言葉を、途中で霧散したその言葉を、今度こそ唐子松は口にした。
「生憎、瑠璃は俺の為に戻って来るような女ではない」
「何を言うのです?」
瑠璃揚羽の表情に動揺と不安の色が生まれる。それさえも見慣れたものだ。見慣れすぎているからこそ、危なかったのだ。
「もう一度言ってやろうか? 同じ事だ。お前は瑠璃ではない。そうだろう? 虹鏡」
薙刀を構え、切っ先を向ける。その動きに迷いはなく、その瞳に揺らぎはなかった。
「……あぁ、やはり騙されないか。残念だわ」
瑠璃揚羽の姿が銀色の人型に変わり、鏡に映したように何かが映り込んだかと思えば、そこに立つのは藍染の振り袖姿の女性ではなく、白無垢のように純白の着物を着た女だった。着物はかなり着崩されており、肩の部分までが露わになっている。純白の着物の裾は、鈍い光を放つ石が彩っていた。
透き通る銀色の長髪を、花を模った銀色の大きなかんざしが留めている。
昔は白無垢を着崩す事はしなかった。他のものへの変化も悪戯で使うことはあれど、誰かを騙すために用いるような事はしなかった。その変化が、彼女の闇を表しているようで、唐子松は苦しくなる。
「さすが、高貴な付物神様は、昔の女なんかに惑わされないって所かしら」
「からかうな。瑠璃は“終わった”んだ。戻ってくるはずもない。それも分からぬほどに堕ちたか」
虹鏡の体を纏う闇色の気。怨嗟に呑まれ恨みを晴らす衝動に駆られて尚、虹鏡は自我を保ち、唐子松の様子を窺うように佇む。虹鏡が古株の物の怪だからこそ、そして自尊心が高いからこそ、そうしていられるのだろう。通常の物の怪なら既に自我を失い暴走してもおかしくない程に、虹鏡の体には強い怨念が宿っている。
それでも、闇の気を呑んだ虹鏡には、確実にその代償が訪れていた。
「私がどこへ行こうとしても、忌々しい屑どもが追って来る」
不意に、虹鏡が顔を上げた。彼女の言葉が、こちらの気配に気付き集まってくる討伐隊諸々を差している事は、唐子松にもすぐ分かった。
「虹鏡。お前は道を外した。誰もが、お前の行動を許す訳にはいかぬ。……せめて」
誰かがこの場に来る前に。唐子松は歩を踏み出し、薙刀を構える。
「せめて、俺が“終わらせて”やる」
音も無く地面を踏み切る。虹鏡との距離を一気に詰める。
その最中、虹鏡が口端をつり上げた。
「こう――」
唐子松は咄嗟に後ろへと飛び退く。だが、遅かった。
二人が立っていた場所から銀色の光が広がり、辺りを染め上げていく。所々に継ぎ目の入った銀色の壁。
虹鏡の作り出した、彼女の“場”。
鏡張りの部屋。
飛び退った唐子松が着地すると、カツンと金属質の音が響いた。
辺りから他の物の怪の気配が消えた。逆に、あの場から唐子松と虹鏡の気配が消えた、とも言えるだろう。
邪魔者も、援軍も立ち入れない。唐子松の意志では出る事もかなわない。完全に彼女の手の中である。
「見て、唐子松」
虹鏡が片腕を上げた。その指し示す先には、闇色の影が蠢いている。
あそこで動けば、そこで。そこで形を変えれば、反対側もまた。
「昔はもっと美しかった。沢山の色があった。けれど今は」
彼女は自らの着物を見下ろす。白無垢の裾を彩っていたはずの石もまた、黒く染まっていた。今この場で色彩らしい色彩を持っているのは、唐子松の着ている鮮やかな紅の振袖くらいだ。だがそれが部屋の壁に映し出される事はない。今や、鏡の部屋の殆どは、蠢く闇色の文様に占領されてしまった。
色があれば美しかったはずの文様も、闇色一色となった今はおぞましく唐子松の目に映る。互いの姿がはっきり見えるのが、かえって不思議だった。
これもまた、虹鏡の力なのか。
「彼奴らのせいで」
苦々しく吐き捨てる虹鏡の足元で、闇が蠢く。
「私は光を奪われた」
彼女の言葉に呼応するように、闇は形を持ち、明確な意思を持って動きだそうとする。
「大切にしていたのは最初だけ。飽きてしまえば、私たちは簡単に忘れ去られてしまう」
「虹鏡……」
反論など出来るはずもない。だが同情する事も出来ない。
「いつだって人間にされるがまま。私達の気持ちなんて、彼奴らには何の関係もない。そんなの、おかしいと思わない?」
「……俺らは、人間がいてこそ在る。人間がいなければ生まれもしなかった存在だ」
「だからって、蔑ろにされて良いと言うの? 不当な扱いを受けて良いと言うの? それが私達が生まれた代償だと、存在する代わりに与えられた使命だと、あなたは言うつもりなの」
虹鏡が攻撃的な言葉を発すると同時に、周りで蠢く影が唐子松目掛けて飛び掛かる。黒き闇は負の力、今は怨霊へと堕ちた虹鏡の意志に応じて動く刃も同じ。
「落ち着け、虹鏡っ」
己目掛けて突進する影を片っ端から切り伏せ、虹鏡から距離を取る。だが、この空間にいる間は、どこにいても危険な事に変わりない。
「信じられないわ唐子松。どうしてあなたはそんなに落ち着いていられるの? あなただって人間に捨てられたんでしょう」
「――っ!」
心の奥底に沈んでいたはずの嫌悪感が、ここぞとばかりに顔を出した気がした。忘れていたはずの、忘れようとしていたはずの出来事が脳裏を過ぎる。
「あなたとて、最初だけは大切にされて、気が付けば物置の奥深くに押し込まれていたんじゃないの? 忘れられていたんじゃないの?」
「俺は、俺が宿っている事が露見たんだ。それで、前の家にはいられんようになった。……時代の流れだ。俺らのような存在が受け入れられんのも仕方ない」
「私達がいてはいけないの? 私達は存在する事すら、許されないの?」
「元々、人に知られるのもあまり良い事じゃないだろう。俺らは、俺らに込められた願いを叶える為にある。人間を見守る位置にある。そこに、俺らの望みを差し挟む必要はない。俺らは元々、己が存在を確かめる為にいるのではない。己が幸せを叶える為にいるのではない。持ち主の、幸せを……」
――まるで自分の幸せは蔑ろにしているみたいな発言ね。
――そんな自己犠牲精神じゃ、人を幸せになんか出来ないわよぅ。
「…………」
何もこんな時に。
こんな時にあの天然の母親の言葉を思い出さなくても。
「私を忘れないで欲しいって、そんな願いすら、私には許されないの?」
虹鏡の追撃が、更に唐子松の口を閉じさせる。
人から忘れられた物は、存在しないも同然だ。それのどんなに辛い事か。それのどんなに寂しい事か。
己の存在を否定され、否応なく、弁解の余地すら貰えないまま追い出されたあの日。唐子松も確かに似たような事を思った。
自分は存在してはいけないのか。
見守る事すら許されないのか。
それが己の存在意義だと信じて疑わなかった。その存在意義を根底から否定された。
己の行為に報いはないのかと、怒りさえ覚えた。
そんな自分が、虹鏡を責められるのか。人間を擁護出来る立場なのか。
人は見守るだけの価値がある存在なのか。
「…………」
「私は捨てられたわ。物置の奥深くに仕舞いこまれたまま。気付けば家人は一人も残っていなかった。あいつら、私を置いてどこかへ越してしまったの。荷造りの時にさえ、私は思い出されなかった。そうして置いて行かれた。だから決めたのよ。絶対に彼奴らを見つけ出してこの思いをぶつけてやるのだと」
復讐してやるのだと。
どこまでも勢いを失わない虹鏡の言葉は、止め処なく唐子松を責め立てた。どちらの側の思いも汲む事ができ、どちらか一方を責める事の出来ない唐子松は、中途半端な立ち位置で、双方の思いに揺られながら押し黙っていた。
覚悟してきたはずだった。
いくら不当な扱いを受けたからと言って、怨霊になって良いはずがない。復讐しようとも思いなど遂げられない。人間がいなければ自分達だっていないのだから、ある程度は妥協するしかないのだと。
人間を擁護するつもりでいた。
なのに。
「私達は人から作られた。それはそうかも知れないわ。なら、せめて人の傍にいたいって願いくらい、叶えて貰ったっていいじゃない。私達は何も望んではいけないの? 私はあの者達を大切に思っていたのに。その報いさえ与えられないの? なら、なら……私達って一体何なの?」
責められるはずがなかった。
擁護する為の言葉が、一つも浮かんでこなかった。
決意を持って構えていた薙刀を、ゆっくりと下す。
「……なんであろうな」
ぽつりと、消え入るように呟いた。
「分からんよ、俺にも。気付けばそこにいて、気付けば“そういうもの”だと、認識して。だから俺は、俺らが何なのか問われても、“そういうもの”だとしか答えられん」
「あんまりだわ」
「そうさな」
静かに首肯し、目を伏せた。
「唐子松」
虹鏡の呼び声に顔を上げる。彼女は思いつめた瞳で唐子松を見つめていた。
「あなたは、人間を見限らないの? 自分を捨てた人間を許せるの?」
「…………俺は」
前の家にいた人間達を許した訳ではない。唐子松には、あの家で過ごす者達をずっと見守って来たという自負があった。見返りを求めた訳でも、思い上がっていた訳でもない。
ただ、認めて欲しかった。
崇めて欲しかった訳ではない。でも、せめて存在を知ってしまったなら、ほんの少しでも良い。受け入れて欲しかった。
一方的に責め立てられ、一方的に知らぬ地へと追いやられ。悲しくないはずがなかった。辛くないはずがなかった。
二度と、人間など信じるものかと思った。
「俺は」
もし、咲に出会っていなかったら。
「もう一度、人間を信ずると決めた」
あの場で“終わっていた”かもしれない。人を恨む前に瑠璃揚羽と共に行かなかった事を、後悔していたかもしれない。
「今度こそ、見届けると決めた」
あの家で果たせなかった役目を、咲の元で果たそうと。
「……人間を、信じる?」
虹鏡の声が、不穏に暗くなる。それでも、唐子松の意志は揺らがなかった。
「人の全てを擁護はせんよ。奴らは確かに、俺らからして見れば自分勝手だ。気に入った時に愛で、気に入らんようになったら忘れるか、捨てるか、不当な扱いを平気な顔でする。それでも俺は人の傍にいる事を捨てられん。人の全てを見限る事など出来ん」
「……あなたは」
失望に沈んだ声で虹鏡は言う。その声に、音の聞こえる距離感に、唐子松は違和感を抱いた。
忘れてはいけなかった。
ここが彼女の“場”である事を。
背中に触れる華奢な両手。それが探るように唐子松の肩に触れる。
「なっ……!」
距離を置いて立っていたはずの虹鏡が、目の前に、いや、今やぴたりと体を密着させ、唐子松の両腕を塞ぐように体を抱いている。
鏡の世界。風景に溶け込む力。錯覚の力。
虹鏡は己の能力を最大限に活用し、音もなくそんなそぶりも見せず、見事に唐子松を捕らえたのだった。
「こんな傷を負わされて尚、人間を信じると言うの? 守ると言うの? あなたを傷付けた人間は平気な顔をしていると言うのに。あなた一人が重荷を増やしていくの? ……馬鹿げているわ」
「――――――っ」
怨霊の森で咲を庇って付いた傷。そこから、容赦なく流れ込んでくる負の力。直接注ぎ込まれた力は本来到達できるはずのない場所まで容易に入り込み、最も弱い場所を躊躇なく攻撃する。ともすれば一瞬で意識も自我も記憶さえも吹き飛んでしまいかねない強大な力の突然の襲来に抗う術を持たず、唐子松は痛みから逃れるようにただただ絶叫を繰り返した。
元々あった遺恨。そこに、怨霊たちの後遺症。更に、虹鏡からの追撃。逃れられるはずもなかった。すでに“なりかけ”の前兆を見せていた身が、いとも容易く染まっていく。
人間が憎い。許せない。
壊してしまいたい。
この手で。この――。
「ち……が……」
もはや己の意志に反し迸り続ける叫びの合間に、唐子松は無意識のうちに言葉を発する。
「何が違うの? 結局、口で何を言おうと、あなただって人間を憎んでいるじゃない」
傷口から直接唐子松の意識に触れているのだろう。虹鏡の確信的な言葉が容赦なく降り掛かる。立っていられなくなり、唐子松は膝から崩れ落ちた。虹鏡は腕を離さず、むしろ先程より強く、唐子松の肩に、傷があるはずの場所を掴まんと圧力をかける。
「私と一緒に行きましょう? もう、人間に振り回される必要などないわ」
意識が黒く染まっていく。何もかも分からなくなっていく。叫ぶ力すら失われ、自我が遠のく。消えるように、薄まっていく。
――市松さん、大丈夫かなぁ。
ふいに、意識の奥から主の声が聞こえた。唐子松の手がぴくりと動く。虚ろに空を見上げていた瞳に、淡く輝く月のような光が映った。
「さ……き……?」
そうか。名前を呼んだから。
“名付け”の絆が、声を運んだ。
「……く。まだ……のか。先に……と言った……に」
「何を言っているの?」
緩みかけていた手が、薙刀の柄を握り込む。それだけで伝わったのだろう。虹鏡の手にもまた、力が入る。収まりかけていた攻撃が、再び活動を開始しようとする。
魔の手の侵入を唐子松が感じるか感じないかの所で、二人は横から来た何かに張り飛ばされた。虹鏡の体が遠くへと弾き飛ばされる。唐子松も殆ど無防備だった為、受け身も取れずに鏡の床へと倒れ込んだ。
「くそっ! 忌々しい! 邪魔をするなあっ」
虹鏡が怒鳴る勢いを打ち消す、部屋を響かせる咆哮が起こった。銀色の巨体が、床に崩れた虹鏡に躍りかかる。虹鏡が叫び声を上げ、闇雲に暴れる姿がちらりと見えるが、殆どがヘビのように長い体に隠されており、詳しいところは分からない。鏡の鱗が、辺りの恐ろしい闇の文様を映して尚、美しい銀色に輝く。
鏡龍だった。
龍の体がのたうつように動く。時折、虹鏡の頭に食いつかんばかりに開かれた鏡龍の口と、それに抵抗する虹鏡の様子がちらりと見えた。
「かがみ……りゅう……」
鋭い鉤爪が、虹鏡の体を抑え付けた。巨大な龍は、怒りに金色の瞳を燃え上がらせ、銀色の鬣を揺らめかせている。
体の奥に、黒い衝動が蠢いている。それでも唐子松は己の意志で腕を張った。殆ど力の入らない体で起き上がり、薙刀を掴む。柄を支えにゆっくりと立ち上がり、ふらつく足で虹鏡たちの元へ向かう。
「唐子松殿……」
鏡龍が何か言おうとしたのを首を振って遮ると、唐子松は虹鏡の傍らに立った。
「どう、して……?」
唐子松の中に巣くう闇が、今や制御不能なほどに膨れ上がっているのが、彼らには見えているだろう。それでも、毅然として仁王立ちする唐子松が、虹鏡には不思議に映るだろう。
「どうして、そんな顔していられるの……?」
「咲と約束したからだ。必ず帰ると」
虹鏡の瞳が揺らいだ。唐子松はゆっくりと薙刀を持ち変えると、切っ先を彼女へと向ける。
「結局、最後には捨てられちゃうのに……」
「傷ついてでも、守りたい主が見つかったでな」
「……馬鹿」
虹鏡の瞳から、ゆっくりと一滴の涙が零れ落ちていく。黒い靄が、彼女の体を覆っていく。闇の意識が彼女の自我の侵食を始めていた。もう間もなく、彼女はその自尊心で己を律している事が出来なくなる。
制御の利かない怨霊になる。
「――済まぬ」
唐子松は薙刀を振り下ろした。切っ先は迷いなく虹鏡の胸元に突き刺さる。
パキリ、と音がした。その音を起点に、鏡の世界に亀裂が入る。闇の模様を躍らせていた世界が砕け散り、その奥に薄暗い森の風景を覗かせる。
砕け散った破片が、吸い込まれるように薙刀の切っ先、虹鏡の元へと集まっていく。虹鏡の姿は溶けるように消え、代わりに一つの器が残った。
精巧な模様の彫られた、木製の筒。
鏡龍が自身の鉤爪で押さえていた場所にはもう何もなく、彼はゆっくりと手を引くと器に向けて頭を垂れた。攻撃的になっていたのは唐子松に危機が迫っていたからで、決して虹鏡を嫌っていた訳ではないのだ。
「…………」
木製の筒、その模様の一部分に、修復不可能なほど大きな亀裂が一つ、入っていた。
その場所からゆっくりと薙刀を退けた唐子松は、薙刀を取り落とし、そのままふっと地面に倒れる。
「唐子松殿!」
「……帰れんかな」
鏡龍の悲痛な声に、唐子松は自虐的な声を出した。
虹鏡を“終わらせた”所で、既に唐子松の中に注がれてしまった怨念は消えない。闇は取り返しもつかない程に彼の心を覆っていた。自我を保っていられるのは、彼が主の事を考えているからだ。人間を見限っていないからだ。
人間を憎む。そこから派生した闇を持つ怨念は、唐子松を容易に支配出来ない。
「唐子松殿……申し訳御座いませぬ……!」
唐子松の傍らに両手を置き、鏡龍が涙声を出した。あまり動かない頭を回して巨大な龍を見上げた唐子松は、小さく苦笑を浮かべる。
「あの“場”に入れただけでも大したもんだぞ。あそこでお前が来なかったら、俺はとうに怨霊になっていた。……感謝する」
せめて、最後だけでも気丈に虹鏡の前に立っていられた。それだけでも十分すぎるというものだ。
本当なら、人間をもう一度見直せるような主と出会って欲しかった。
唐子松のように。
だが、普段殆ど関わりもないのに、怨霊になるまで知らなかったと言うのに。救ってやりたいなどと思うなんて。助かって欲しかったなどと思うなんて。
結局、何も出来なかったと言うのに。
「本当、思い上がりも良い所だ……俺も傲慢になったもんだな……」
もっともっと前に知っていたなら。彼女の悩みを、辛さを聞いてやれたなら。寂しさを払しょくしてやれたなら。或いはこんな結末を迎えずとも良かったのかもしれない。
だが所詮、全ては後の祭りだ。零した水は戻らず、黒く染まった文様が色を取り戻す事もない。
そして、怨念を身の内に宿してしまった今、唐子松は主の元へ帰る事もできない。
「そんな事はありませぬ。唐子松殿は」
「言ってくれるな。余計惨めになる」
全てが中途半端で、最悪の結末と言えた。
主の声に救われたのに。礼の一つも言いに行けぬとは。
「……鏡龍」
「お断り致します」
「……酷いな」
「自我がしっかりしておられる唐子松殿を、まだ染まっておらぬ貴方様を、どうして己が手を下す事が出来ましょう」
どうやら、言わずとも気心の知れたこの龍には、全てが分かっているらしかった。だが、それで引き下がる訳にもいかない。染まっていないとはいえ、自我が残っているとは言え、唐子松はいつ己が怨霊になってしまうか分からない状態なのだ。
最後の最後まで怨霊に全てを委ねなかった、先程までの虹鏡と同じなのだ。
「鏡龍」
「お断り申し上げまする!」
懇願するように呼び掛けると、悲しげな咆哮を上げ、鏡龍は強く拒絶した。
「お前がしてくれんなら、他の者に頼むしかなくなってしまうではないか……」
虹鏡を狙い蠢く同族が、今宵この森には大量に活動している。彼らは、虹鏡に変わる獲物が現れた事に、もう間もなく気付くだろう。
そうなれば、動けない程に弱っている唐子松に抵抗の術はない。抵抗するつもりもない。
せめて、己の自我が残っている間に。そう願うばかりだった。
下に続く。
「付物神と藤の花」目次へ
人が知らぬ道。人の世から隔絶された道。“裏道”などと呼ばれる事のある、妖物の世界、隠裏世。
辺りはいつも以上に、同族の気配が多かった。討伐隊もいれば、あわよくば獲物をかすめ取ろうとするならず者もいるだろう。
誰にも先を取られる訳にはいかない。誰よりも先に見つけなければならない。
唐子松は一人、誰もいない場所を探して駆けていた。
虹鏡は鏡龍同様、己を周りの風景に同化させる事が出来る。視覚的に探すのはまず不可能。気配で探そうにも他の者が多すぎる。だが今なら、彼女が思いを遂げる為に行動すれば討伐隊が先回りし、目的地に着くのが困難な状況のはず。
“見つける”為ではなく、“見つけてもらう”為に、唐子松は誰もいない場所を探していた。鏡龍とも今は別行動である。虹鏡が鏡龍の登場を嫌っていたのを知っての対処だ。
恐らく、唐子松が一人でいれば、相手は近付いて来る。唐子松を仲間に取り込む事を、共に人間へ復讐する事を、彼女は目論んでいるはずだ。
駆けども駆けども、景色は変わり映えしない。どこが道とも言えない程蔓延る下草と、乱立する樹木。変化があるとすれば、樹木の数が多い場所と少ない場所がある。それくらいだ。
木々の合間から差し込む月明かりが、誘うように先を照らす。向かう先に人影を見つけ、唐子松は反射的に歩を止めた。
明かりがあるとは言え、相手のいる場所とはまだ距離があり、誰であるかは窺えない。唐子松に背を向ける形で立っている為、顔が全く見えない。真っ直ぐな長い黒髪から、女性であるだろう事が推測できるだけだ。それも、唐子松のような例がある為に、一概に言えない。
おまけに、辺りに同族の気配が多すぎるせいで、あそこに立っているのが誰であるか全く判別がつかない。ただ、彼ないし彼女の周りには、他の気配が全くないのが分かった。
ある種、それだけで十分と言えた。
唐子松は一つ深呼吸をすると、ゆっくりと歩を踏み出した。相手の気配を探るようにしながら、一歩一歩距離を詰めていく。
黒髪の下から伸びる、見事な藍染の振袖。所々金色の光が跳ね返るのは、金糸で模様が縫い取られているからだろう。
いつ相手が動くか分からない。強く警戒しながら進んでいた唐子松は、ふと、振袖の模様が何であるかに気付き、歩を止めた。まるでそれが合図であったかのように、目前の人物が振り返る。
言葉を失った。
「久しぶりですね、唐子松」
鈴を振るうような澄んだ優しい声も、月下美人のように淡く輝く笑みも、触れれば折れてしまいそうなたおやかな体も、それを包む藍染の振袖も、そこに縫い取られた蝶の模様も。
何一つ昔と変わらない。
「どうしたのです? 押し黙ってしまって。永く合わぬ間に、わたくしの事を忘れてしまいましたか」
両手を軽く組んで垂らす立ち姿も、気に食わない事があると声音に悪戯っぽい皮肉の色が混ざるのも、何もかも同じ。
「瑠璃……」
今にも消えそうな声で、唐子松は呟いた。
「良かった。覚えていて下さいましたね」
はにかんで微笑むは、懐かしい顔。もう二度と見る事のないと思っていた物の怪。
瑠璃揚羽。
「…………」
言葉が出てこない。何と言って良いのかも分からない。心の奥底に仕舞い込んだ記憶がかき回される。一緒に溢れ出てきた当時の想いまで、かき乱される思いだった。
「…………」
未だに相応しい言葉は見つからない。ただ、内に生まれた動揺を表情に出すまいと、それだけに唐子松は努めた。
そうしなければ。動揺を相手に悟られては。
「……く」
「どうしたのです? あぁ、久しぶりに顔を見て恥ずかしがっているのですか?」
振袖の裾を口元に当て、くすくすと控えめな笑い声を上げる彼女を見て、唐子松は口にしかけた言葉を飲み込む。
変わらない。いや、全く同じだと言うべきなのか。
この時間が続いたら。彼女と共にいられたら。
「…………」
いられたら?
深く息を吸い込む。秋の夜気が体に染み渡る。己がしっかりと立っている事を確認し、続けて脳裏に咲の姿を思い浮かべた。
必ず帰ると約束した、主の顔を。
「生憎」
言い掛けた言葉を、途中で霧散したその言葉を、今度こそ唐子松は口にした。
「生憎、瑠璃は俺の為に戻って来るような女ではない」
「何を言うのです?」
瑠璃揚羽の表情に動揺と不安の色が生まれる。それさえも見慣れたものだ。見慣れすぎているからこそ、危なかったのだ。
「もう一度言ってやろうか? 同じ事だ。お前は瑠璃ではない。そうだろう? 虹鏡」
薙刀を構え、切っ先を向ける。その動きに迷いはなく、その瞳に揺らぎはなかった。
「……あぁ、やはり騙されないか。残念だわ」
瑠璃揚羽の姿が銀色の人型に変わり、鏡に映したように何かが映り込んだかと思えば、そこに立つのは藍染の振り袖姿の女性ではなく、白無垢のように純白の着物を着た女だった。着物はかなり着崩されており、肩の部分までが露わになっている。純白の着物の裾は、鈍い光を放つ石が彩っていた。
透き通る銀色の長髪を、花を模った銀色の大きなかんざしが留めている。
昔は白無垢を着崩す事はしなかった。他のものへの変化も悪戯で使うことはあれど、誰かを騙すために用いるような事はしなかった。その変化が、彼女の闇を表しているようで、唐子松は苦しくなる。
「さすが、高貴な付物神様は、昔の女なんかに惑わされないって所かしら」
「からかうな。瑠璃は“終わった”んだ。戻ってくるはずもない。それも分からぬほどに堕ちたか」
虹鏡の体を纏う闇色の気。怨嗟に呑まれ恨みを晴らす衝動に駆られて尚、虹鏡は自我を保ち、唐子松の様子を窺うように佇む。虹鏡が古株の物の怪だからこそ、そして自尊心が高いからこそ、そうしていられるのだろう。通常の物の怪なら既に自我を失い暴走してもおかしくない程に、虹鏡の体には強い怨念が宿っている。
それでも、闇の気を呑んだ虹鏡には、確実にその代償が訪れていた。
「私がどこへ行こうとしても、忌々しい屑どもが追って来る」
不意に、虹鏡が顔を上げた。彼女の言葉が、こちらの気配に気付き集まってくる討伐隊諸々を差している事は、唐子松にもすぐ分かった。
「虹鏡。お前は道を外した。誰もが、お前の行動を許す訳にはいかぬ。……せめて」
誰かがこの場に来る前に。唐子松は歩を踏み出し、薙刀を構える。
「せめて、俺が“終わらせて”やる」
音も無く地面を踏み切る。虹鏡との距離を一気に詰める。
その最中、虹鏡が口端をつり上げた。
「こう――」
唐子松は咄嗟に後ろへと飛び退く。だが、遅かった。
二人が立っていた場所から銀色の光が広がり、辺りを染め上げていく。所々に継ぎ目の入った銀色の壁。
虹鏡の作り出した、彼女の“場”。
鏡張りの部屋。
飛び退った唐子松が着地すると、カツンと金属質の音が響いた。
辺りから他の物の怪の気配が消えた。逆に、あの場から唐子松と虹鏡の気配が消えた、とも言えるだろう。
邪魔者も、援軍も立ち入れない。唐子松の意志では出る事もかなわない。完全に彼女の手の中である。
「見て、唐子松」
虹鏡が片腕を上げた。その指し示す先には、闇色の影が蠢いている。
あそこで動けば、そこで。そこで形を変えれば、反対側もまた。
「昔はもっと美しかった。沢山の色があった。けれど今は」
彼女は自らの着物を見下ろす。白無垢の裾を彩っていたはずの石もまた、黒く染まっていた。今この場で色彩らしい色彩を持っているのは、唐子松の着ている鮮やかな紅の振袖くらいだ。だがそれが部屋の壁に映し出される事はない。今や、鏡の部屋の殆どは、蠢く闇色の文様に占領されてしまった。
色があれば美しかったはずの文様も、闇色一色となった今はおぞましく唐子松の目に映る。互いの姿がはっきり見えるのが、かえって不思議だった。
これもまた、虹鏡の力なのか。
「彼奴らのせいで」
苦々しく吐き捨てる虹鏡の足元で、闇が蠢く。
「私は光を奪われた」
彼女の言葉に呼応するように、闇は形を持ち、明確な意思を持って動きだそうとする。
「大切にしていたのは最初だけ。飽きてしまえば、私たちは簡単に忘れ去られてしまう」
「虹鏡……」
反論など出来るはずもない。だが同情する事も出来ない。
「いつだって人間にされるがまま。私達の気持ちなんて、彼奴らには何の関係もない。そんなの、おかしいと思わない?」
「……俺らは、人間がいてこそ在る。人間がいなければ生まれもしなかった存在だ」
「だからって、蔑ろにされて良いと言うの? 不当な扱いを受けて良いと言うの? それが私達が生まれた代償だと、存在する代わりに与えられた使命だと、あなたは言うつもりなの」
虹鏡が攻撃的な言葉を発すると同時に、周りで蠢く影が唐子松目掛けて飛び掛かる。黒き闇は負の力、今は怨霊へと堕ちた虹鏡の意志に応じて動く刃も同じ。
「落ち着け、虹鏡っ」
己目掛けて突進する影を片っ端から切り伏せ、虹鏡から距離を取る。だが、この空間にいる間は、どこにいても危険な事に変わりない。
「信じられないわ唐子松。どうしてあなたはそんなに落ち着いていられるの? あなただって人間に捨てられたんでしょう」
「――っ!」
心の奥底に沈んでいたはずの嫌悪感が、ここぞとばかりに顔を出した気がした。忘れていたはずの、忘れようとしていたはずの出来事が脳裏を過ぎる。
「あなたとて、最初だけは大切にされて、気が付けば物置の奥深くに押し込まれていたんじゃないの? 忘れられていたんじゃないの?」
「俺は、俺が宿っている事が露見たんだ。それで、前の家にはいられんようになった。……時代の流れだ。俺らのような存在が受け入れられんのも仕方ない」
「私達がいてはいけないの? 私達は存在する事すら、許されないの?」
「元々、人に知られるのもあまり良い事じゃないだろう。俺らは、俺らに込められた願いを叶える為にある。人間を見守る位置にある。そこに、俺らの望みを差し挟む必要はない。俺らは元々、己が存在を確かめる為にいるのではない。己が幸せを叶える為にいるのではない。持ち主の、幸せを……」
――まるで自分の幸せは蔑ろにしているみたいな発言ね。
――そんな自己犠牲精神じゃ、人を幸せになんか出来ないわよぅ。
「…………」
何もこんな時に。
こんな時にあの天然の母親の言葉を思い出さなくても。
「私を忘れないで欲しいって、そんな願いすら、私には許されないの?」
虹鏡の追撃が、更に唐子松の口を閉じさせる。
人から忘れられた物は、存在しないも同然だ。それのどんなに辛い事か。それのどんなに寂しい事か。
己の存在を否定され、否応なく、弁解の余地すら貰えないまま追い出されたあの日。唐子松も確かに似たような事を思った。
自分は存在してはいけないのか。
見守る事すら許されないのか。
それが己の存在意義だと信じて疑わなかった。その存在意義を根底から否定された。
己の行為に報いはないのかと、怒りさえ覚えた。
そんな自分が、虹鏡を責められるのか。人間を擁護出来る立場なのか。
人は見守るだけの価値がある存在なのか。
「…………」
「私は捨てられたわ。物置の奥深くに仕舞いこまれたまま。気付けば家人は一人も残っていなかった。あいつら、私を置いてどこかへ越してしまったの。荷造りの時にさえ、私は思い出されなかった。そうして置いて行かれた。だから決めたのよ。絶対に彼奴らを見つけ出してこの思いをぶつけてやるのだと」
復讐してやるのだと。
どこまでも勢いを失わない虹鏡の言葉は、止め処なく唐子松を責め立てた。どちらの側の思いも汲む事ができ、どちらか一方を責める事の出来ない唐子松は、中途半端な立ち位置で、双方の思いに揺られながら押し黙っていた。
覚悟してきたはずだった。
いくら不当な扱いを受けたからと言って、怨霊になって良いはずがない。復讐しようとも思いなど遂げられない。人間がいなければ自分達だっていないのだから、ある程度は妥協するしかないのだと。
人間を擁護するつもりでいた。
なのに。
「私達は人から作られた。それはそうかも知れないわ。なら、せめて人の傍にいたいって願いくらい、叶えて貰ったっていいじゃない。私達は何も望んではいけないの? 私はあの者達を大切に思っていたのに。その報いさえ与えられないの? なら、なら……私達って一体何なの?」
責められるはずがなかった。
擁護する為の言葉が、一つも浮かんでこなかった。
決意を持って構えていた薙刀を、ゆっくりと下す。
「……なんであろうな」
ぽつりと、消え入るように呟いた。
「分からんよ、俺にも。気付けばそこにいて、気付けば“そういうもの”だと、認識して。だから俺は、俺らが何なのか問われても、“そういうもの”だとしか答えられん」
「あんまりだわ」
「そうさな」
静かに首肯し、目を伏せた。
「唐子松」
虹鏡の呼び声に顔を上げる。彼女は思いつめた瞳で唐子松を見つめていた。
「あなたは、人間を見限らないの? 自分を捨てた人間を許せるの?」
「…………俺は」
前の家にいた人間達を許した訳ではない。唐子松には、あの家で過ごす者達をずっと見守って来たという自負があった。見返りを求めた訳でも、思い上がっていた訳でもない。
ただ、認めて欲しかった。
崇めて欲しかった訳ではない。でも、せめて存在を知ってしまったなら、ほんの少しでも良い。受け入れて欲しかった。
一方的に責め立てられ、一方的に知らぬ地へと追いやられ。悲しくないはずがなかった。辛くないはずがなかった。
二度と、人間など信じるものかと思った。
「俺は」
もし、咲に出会っていなかったら。
「もう一度、人間を信ずると決めた」
あの場で“終わっていた”かもしれない。人を恨む前に瑠璃揚羽と共に行かなかった事を、後悔していたかもしれない。
「今度こそ、見届けると決めた」
あの家で果たせなかった役目を、咲の元で果たそうと。
「……人間を、信じる?」
虹鏡の声が、不穏に暗くなる。それでも、唐子松の意志は揺らがなかった。
「人の全てを擁護はせんよ。奴らは確かに、俺らからして見れば自分勝手だ。気に入った時に愛で、気に入らんようになったら忘れるか、捨てるか、不当な扱いを平気な顔でする。それでも俺は人の傍にいる事を捨てられん。人の全てを見限る事など出来ん」
「……あなたは」
失望に沈んだ声で虹鏡は言う。その声に、音の聞こえる距離感に、唐子松は違和感を抱いた。
忘れてはいけなかった。
ここが彼女の“場”である事を。
背中に触れる華奢な両手。それが探るように唐子松の肩に触れる。
「なっ……!」
距離を置いて立っていたはずの虹鏡が、目の前に、いや、今やぴたりと体を密着させ、唐子松の両腕を塞ぐように体を抱いている。
鏡の世界。風景に溶け込む力。錯覚の力。
虹鏡は己の能力を最大限に活用し、音もなくそんなそぶりも見せず、見事に唐子松を捕らえたのだった。
「こんな傷を負わされて尚、人間を信じると言うの? 守ると言うの? あなたを傷付けた人間は平気な顔をしていると言うのに。あなた一人が重荷を増やしていくの? ……馬鹿げているわ」
「――――――っ」
怨霊の森で咲を庇って付いた傷。そこから、容赦なく流れ込んでくる負の力。直接注ぎ込まれた力は本来到達できるはずのない場所まで容易に入り込み、最も弱い場所を躊躇なく攻撃する。ともすれば一瞬で意識も自我も記憶さえも吹き飛んでしまいかねない強大な力の突然の襲来に抗う術を持たず、唐子松は痛みから逃れるようにただただ絶叫を繰り返した。
元々あった遺恨。そこに、怨霊たちの後遺症。更に、虹鏡からの追撃。逃れられるはずもなかった。すでに“なりかけ”の前兆を見せていた身が、いとも容易く染まっていく。
人間が憎い。許せない。
壊してしまいたい。
この手で。この――。
「ち……が……」
もはや己の意志に反し迸り続ける叫びの合間に、唐子松は無意識のうちに言葉を発する。
「何が違うの? 結局、口で何を言おうと、あなただって人間を憎んでいるじゃない」
傷口から直接唐子松の意識に触れているのだろう。虹鏡の確信的な言葉が容赦なく降り掛かる。立っていられなくなり、唐子松は膝から崩れ落ちた。虹鏡は腕を離さず、むしろ先程より強く、唐子松の肩に、傷があるはずの場所を掴まんと圧力をかける。
「私と一緒に行きましょう? もう、人間に振り回される必要などないわ」
意識が黒く染まっていく。何もかも分からなくなっていく。叫ぶ力すら失われ、自我が遠のく。消えるように、薄まっていく。
――市松さん、大丈夫かなぁ。
ふいに、意識の奥から主の声が聞こえた。唐子松の手がぴくりと動く。虚ろに空を見上げていた瞳に、淡く輝く月のような光が映った。
「さ……き……?」
そうか。名前を呼んだから。
“名付け”の絆が、声を運んだ。
「……く。まだ……のか。先に……と言った……に」
「何を言っているの?」
緩みかけていた手が、薙刀の柄を握り込む。それだけで伝わったのだろう。虹鏡の手にもまた、力が入る。収まりかけていた攻撃が、再び活動を開始しようとする。
魔の手の侵入を唐子松が感じるか感じないかの所で、二人は横から来た何かに張り飛ばされた。虹鏡の体が遠くへと弾き飛ばされる。唐子松も殆ど無防備だった為、受け身も取れずに鏡の床へと倒れ込んだ。
「くそっ! 忌々しい! 邪魔をするなあっ」
虹鏡が怒鳴る勢いを打ち消す、部屋を響かせる咆哮が起こった。銀色の巨体が、床に崩れた虹鏡に躍りかかる。虹鏡が叫び声を上げ、闇雲に暴れる姿がちらりと見えるが、殆どがヘビのように長い体に隠されており、詳しいところは分からない。鏡の鱗が、辺りの恐ろしい闇の文様を映して尚、美しい銀色に輝く。
鏡龍だった。
龍の体がのたうつように動く。時折、虹鏡の頭に食いつかんばかりに開かれた鏡龍の口と、それに抵抗する虹鏡の様子がちらりと見えた。
「かがみ……りゅう……」
鋭い鉤爪が、虹鏡の体を抑え付けた。巨大な龍は、怒りに金色の瞳を燃え上がらせ、銀色の鬣を揺らめかせている。
体の奥に、黒い衝動が蠢いている。それでも唐子松は己の意志で腕を張った。殆ど力の入らない体で起き上がり、薙刀を掴む。柄を支えにゆっくりと立ち上がり、ふらつく足で虹鏡たちの元へ向かう。
「唐子松殿……」
鏡龍が何か言おうとしたのを首を振って遮ると、唐子松は虹鏡の傍らに立った。
「どう、して……?」
唐子松の中に巣くう闇が、今や制御不能なほどに膨れ上がっているのが、彼らには見えているだろう。それでも、毅然として仁王立ちする唐子松が、虹鏡には不思議に映るだろう。
「どうして、そんな顔していられるの……?」
「咲と約束したからだ。必ず帰ると」
虹鏡の瞳が揺らいだ。唐子松はゆっくりと薙刀を持ち変えると、切っ先を彼女へと向ける。
「結局、最後には捨てられちゃうのに……」
「傷ついてでも、守りたい主が見つかったでな」
「……馬鹿」
虹鏡の瞳から、ゆっくりと一滴の涙が零れ落ちていく。黒い靄が、彼女の体を覆っていく。闇の意識が彼女の自我の侵食を始めていた。もう間もなく、彼女はその自尊心で己を律している事が出来なくなる。
制御の利かない怨霊になる。
「――済まぬ」
唐子松は薙刀を振り下ろした。切っ先は迷いなく虹鏡の胸元に突き刺さる。
パキリ、と音がした。その音を起点に、鏡の世界に亀裂が入る。闇の模様を躍らせていた世界が砕け散り、その奥に薄暗い森の風景を覗かせる。
砕け散った破片が、吸い込まれるように薙刀の切っ先、虹鏡の元へと集まっていく。虹鏡の姿は溶けるように消え、代わりに一つの器が残った。
精巧な模様の彫られた、木製の筒。
鏡龍が自身の鉤爪で押さえていた場所にはもう何もなく、彼はゆっくりと手を引くと器に向けて頭を垂れた。攻撃的になっていたのは唐子松に危機が迫っていたからで、決して虹鏡を嫌っていた訳ではないのだ。
「…………」
木製の筒、その模様の一部分に、修復不可能なほど大きな亀裂が一つ、入っていた。
その場所からゆっくりと薙刀を退けた唐子松は、薙刀を取り落とし、そのままふっと地面に倒れる。
「唐子松殿!」
「……帰れんかな」
鏡龍の悲痛な声に、唐子松は自虐的な声を出した。
虹鏡を“終わらせた”所で、既に唐子松の中に注がれてしまった怨念は消えない。闇は取り返しもつかない程に彼の心を覆っていた。自我を保っていられるのは、彼が主の事を考えているからだ。人間を見限っていないからだ。
人間を憎む。そこから派生した闇を持つ怨念は、唐子松を容易に支配出来ない。
「唐子松殿……申し訳御座いませぬ……!」
唐子松の傍らに両手を置き、鏡龍が涙声を出した。あまり動かない頭を回して巨大な龍を見上げた唐子松は、小さく苦笑を浮かべる。
「あの“場”に入れただけでも大したもんだぞ。あそこでお前が来なかったら、俺はとうに怨霊になっていた。……感謝する」
せめて、最後だけでも気丈に虹鏡の前に立っていられた。それだけでも十分すぎるというものだ。
本当なら、人間をもう一度見直せるような主と出会って欲しかった。
唐子松のように。
だが、普段殆ど関わりもないのに、怨霊になるまで知らなかったと言うのに。救ってやりたいなどと思うなんて。助かって欲しかったなどと思うなんて。
結局、何も出来なかったと言うのに。
「本当、思い上がりも良い所だ……俺も傲慢になったもんだな……」
もっともっと前に知っていたなら。彼女の悩みを、辛さを聞いてやれたなら。寂しさを払しょくしてやれたなら。或いはこんな結末を迎えずとも良かったのかもしれない。
だが所詮、全ては後の祭りだ。零した水は戻らず、黒く染まった文様が色を取り戻す事もない。
そして、怨念を身の内に宿してしまった今、唐子松は主の元へ帰る事もできない。
「そんな事はありませぬ。唐子松殿は」
「言ってくれるな。余計惨めになる」
全てが中途半端で、最悪の結末と言えた。
主の声に救われたのに。礼の一つも言いに行けぬとは。
「……鏡龍」
「お断り致します」
「……酷いな」
「自我がしっかりしておられる唐子松殿を、まだ染まっておらぬ貴方様を、どうして己が手を下す事が出来ましょう」
どうやら、言わずとも気心の知れたこの龍には、全てが分かっているらしかった。だが、それで引き下がる訳にもいかない。染まっていないとはいえ、自我が残っているとは言え、唐子松はいつ己が怨霊になってしまうか分からない状態なのだ。
最後の最後まで怨霊に全てを委ねなかった、先程までの虹鏡と同じなのだ。
「鏡龍」
「お断り申し上げまする!」
懇願するように呼び掛けると、悲しげな咆哮を上げ、鏡龍は強く拒絶した。
「お前がしてくれんなら、他の者に頼むしかなくなってしまうではないか……」
虹鏡を狙い蠢く同族が、今宵この森には大量に活動している。彼らは、虹鏡に変わる獲物が現れた事に、もう間もなく気付くだろう。
そうなれば、動けない程に弱っている唐子松に抵抗の術はない。抵抗するつもりもない。
せめて、己の自我が残っている間に。そう願うばかりだった。
下に続く。
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