07 咲



「いやー、ホントお嬢には世話になりっぱなしで申し訳ねえっす」

 口の周りにご飯粒とゴマ粒付けながら、黒霧(猫)が嬉しそうに喉を鳴らした。

 現在地は、自室。私たちは無事に家まで戻ってくる事が出来た。今は、帰り際に雅さんがくれたお稲荷さんを食べてます。

 主に、黒霧と市松さんが。

 私は夕飯があるから、一個だけ貰ってみた。さすが料理一家だけあって、物凄く美味しい。家に帰り着くまでは『にゃー』としか言えなかった黒霧がまた喋れるくらいになってるし、明らかに疲れた顔していた市松さんも、大分いつも通りの表情に戻ってる。

 どうやらこのお稲荷さん、先輩の家の稲荷様(ややこしい。先輩んちの神様の事ね)がお姉さんに持たせるよう言ったみたい。どうしてかなと思ったら、家に入るなり先輩からメールが来た。

 そこにはこう書いてあった。

『妖物どもは疲れているだろうから、何か食べさせた方が良い。特に図体でかい方は怪我してるんだろう? 姉が作った料理は俺のより効果が高いだろうから、しばらくはそれで様子を見れば良いだろう』

 先輩の料理は、学校に憑いてるももちゃんに『未練が消える味』と言わしめた過去を持つけど、お姉さんのが効果が高いって……神社の家系だからなのか料理好きのせいなのか……どの道、どういう家系だ。

 メールでお稲荷さんの使用法が書いてあるのは、多分車の中で言ったら市松さんたちが気を使っちゃうのを考えてくれたんだろうなって、私は思った。

『追伸。以前妖物を物のように扱って悪かった』

 最後に書いてあった一文が、そう思わせてくれる。ただ、その前の文で市松さんを『図体でかい方』って表現しているのはちょっと解せないけど。

 不本意ながらも鎧武者さんに“名付け”をする事になって、一緒に過ごすうちに考えが変わったのか。それとも、森の中で何か遭ったのか。理由は分からないけど、とりあえず良かった。市松さんは元は人形かもしれないけど、私にとってはもう家族同然。物扱いされたら悲しいから。

 私はスマホに顔を向けながら、ちらりと市松さんに視線を向ける。お稲荷さんを食べ終わってお茶を啜る市松さんは、大分元気そうに見えた。覚られないように、そっと安堵の溜息。

 私は市松さんを見てたんだけど、市松さんは黒霧に視線を落としている。相変わらず尻尾の短い黒猫は、夢中になってお稲荷さんにかぶりついている。手を使えないからちょっと食べにくそうかも。

「……で?」

 市松さんが口を開いた。口の周りがご飯粒と油揚げの油分でべたべたになりつつも、黒霧が顔を上げる。

「へい?」

「お前は一体何者なのだ?」

 今日一日、ずっと訊きたくてでもそれどころじゃなかった疑問を、市松さんが投げかける。黒霧は顔の周りを手と舌を使って拭うと、恥ずかしげに頭を掻いた。猫の姿なのに、仕草は人間臭い。

「いやぁ。旦那程の方にお話しするのも恥ずかしい話なんすが。自分、この間長老の酒瓶をうっかり割っちまいまして。罰として力を封じられた上に、術のかかった箱に詰められちまったんすよ」

「術のかかった箱って……あの段ボール箱?」

 私が訊ねると、黒霧はこくんと頷いた。

 “ひろってください”って書いてある段ボール箱。あれ、何か術掛かってたかな……。見た目全然普通だったんだけど。

「あれ、ヒジョーに嫌らしい術でして。自分、誰かにあそこから出して貰えるまでは、自分から出られないんす。でも、“ひろってください”の表示を見て誰かが近付くと、自分鳴きたくもないのにひたすら『にぼし』って鳴き続けるんすよ。猫がそんな鳴き声出したら可愛げも何もあったもんじゃないっす。おかげで、誰かに出してと呼び掛けても、近寄った人間皆に微妙な目で見られたっす」

 ああ、確かにあれは可愛くなかった。

「更にいやらしい事に、『にぼし』の鳴き声を聞いた人間は離れて行くって術も掛かってたんす。つまり、あの術に掛からずに箱に近付ける人間がいない限りは、自分、永遠にあの箱から出られないところだったんす」

「それでは、出られる可能性が皆無だった訳ではないか。酒瓶を割っただけであろう? それで命にかかわるような罰を与えるとは……その長老とやら、ちとやり過ぎではないのか?」

「『気が向いたら迎えに来てやる』と言われて去られた時は真っ青だったすよ……。でも仕方ないんす。割っちまった酒、上物だったもんすから」

 妖物の社会事情も複雑なのね……って。ちょっと待って。二人の話だと、箱に近付いた人間は、術の効果で箱から遠ざけられてたって事よね。私も確かに一度回れ右してるけど、別に術に掛かった感じもなかったし、二度目は外に出してあげられたのよ?

 あれはどういう事?

「そりゃ、お嬢が旦那を使役してるからっすよ」

 私の疑問に、黒霧はあっさりと答えた。いや、使役してるつもりはないんだけど。

「まぁ、俺のせいだろうなぁ」

 市松さんも複雑そうな表情で頷いている。

「旦那は結構古株っすよね。古株は力も強いっすから、その加護を受けたお嬢は、長老の術に強く惑わされる事がなかったんすよ」

 そうか。じゃあもし市松さんと会ってなかったら、黒霧を助ける事も出来なかったって訳だ。

「事情は分かったが。お前これからどうするつもりだ?」

 なし崩し的にだけど、うちまでついてきちゃったもんね。

「お嬢さえ良ければ、暫く厄介になりたいんすが」

 ……え?

 私は黒霧の言葉がすぐには飲み込めずに、瞬きを繰り返した。

「あ、住処はこっちで何とかするっす。お二人の生活の邪魔をするような野暮ったい真似はしないっすよ。術が完全に解けるまでで良いんで、暫くお傍に置いて欲しいんす」

 どうやら、段ボールから出してくれた人に暫く奉仕する事で、黒霧の術は解けるらしい。

「……お前、何か勘違いしておらぬか?」

 黒霧の言葉に市松さんが苦い顔をする。確かに、何か勘違いされてる発言があった気がしないでもない。でも、黒霧は金色の瞳をパチパチと瞬いて、首を傾げるだけだ。

 多分、素で言ったんだろうな。

「この尾が元に戻るまでの期間っす。お嬢には手間かけませんし、むしろ自分に出来る事なら何でも言いつけて欲しいっす」

「尾が元に……元ってどのくらいなの?」

「自分、猫又っすから。今の尾から考えると数十倍の長さっすかねぇ。とりあえずは、人に化けられるくらい戻りたいんすが」

 どの位奉仕すれば元に戻るかも訊きたかったけど、そこまでは黒霧も分からないみたい。というか、猫又だったのね、黒霧。て事は、長老って人も猫又なのね、きっと。

「まぁ……うちじゃ大したもてなしは出来ないと思うけど、それで良いなら」

 そうしないと術が解けないんじゃ、置いてあげない方が可愛そうだものね。

「ありがたいっす。旦那程の物の怪を従える方に、自分は至らない点だらけかと思いますが、頼んますっす」

「う、うん。宜しくね、黒霧」

 四肢を揃えて畏まって頭を下げる黒霧に、私は気後れしつつもお辞儀を返した。



「はぁ……」

 寝床を探すと窓から出て行った黒霧を見送って、私は溜息をつきながらベッドに勢いよく腰掛けた。

 どっと疲れが伸し掛かって来る。

「疲れたか? 今日は大変だったものな」

 いつも通り机に腰掛けた市松さんが、私を見て優しい笑みを浮かべる。

「うん……というか、市松さんの方が」

 言い掛けて、私は言葉に詰まった。昼間の恐怖が舞い戻ってくる。

「咲?」

 ぎゅっと両腕で体を抱き締めていたら、その手に暖かいものが触れた。

 市松さんの手だ。いつの間にか、私の前に膝を折っている。

「ごめんね」

「何故咲が謝る?」

 苦笑を浮かべて、市松さんは言う。

「だって」

「あの程度を防げなかったのは俺の落ち度だ。咲のせいではない」

「でもっ」

「俺は、咲が無事ならそれで良い」

 何か言おうとするたびに市松さんに先手を打たれて、私は黙らざるを得なくなった。

「あの森に入ったのは咲の意志ではない。あそこはどこで隠裏世に逸れるか分からんでな。それも咲の落ち度ではない。だから気にせんで良い」

 これは多分、私がマイナスな事を言おうもんなら全部止められちゃうパターンだな……。だとしたら、言える言葉はもう一つしかない。

「市松さん」

「うん?」

「ありがと」

 市松さんが倒れた時。全然動かなかった時。本当に怖かった。もう動かなかったらどうしよう。死んじゃったらどうしようって。

 今までもいなくなったら寂しいって考えた事はあった。でも今回は、それ以上に。

「市松さんが無事で、良かった。あの時、市松さんがいなくなったらって思ったら……怖かった、から」

 怨霊に囲まれてるよりずっと、市松さんがいなくなる事の方が怖かった。それが私のせいだったらって思ったら、もっともっと、怖くなった。

 いつも守って貰ってばっかりで、私はまだ何も、市松さんに返せていない。

「咲……」

 市松さんはちょっとびっくり顔で呟いて、それから優しく笑った。

「ありがとう、な」

「お礼を言うの、私の方だよ?」

 私が困惑すると、市松さんは小さく首を振って。

「俺が俺でいられるのは、咲のおかげだからな」

「えっ?」

 今度は私がびっくり顔で訊ね返したけど、市松さんは笑うだけでそれ以上は何も言わなかった。立ち上がった所で振袖引っ張ってみたけど効果なし。

「……いじわる」

「あぁ、教えてやらん」

 さっきまでの恐怖も忘れて唇を尖らせたら、余裕の笑みで返された。



 終。



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