04咲



「はあっ、はあっ、はぁっ……」

 暑いとか、熱いとか、汗がどうのとか、言っていられない。

 私は止まる事も出来ずに走り続けていた。

 でも。

「鬼ごっこも、まぁ嫌いじゃないけどね」

 私がふと足を止めた瞬間、どこからともなくチャラ男が現れて、行く手を塞いでくる。

「――っ!」

 私は相手の顔を見るや否や反射的に踵を返して、また走り出す。

 アスファルトの地面。周りに乱立する建物。ビルが多い。その中には、何となく見覚えのあるものも混ざっている。

 多分、駅の近くだと思うんだけど……なんでまた、こんな所に。

 逃げても逃げても一瞬で追いつかれるから逃げる意味がないんだけど、逃げないと何されるか分からないから逃げるしかない。

 とりあえず、分かった事がある。

 私を拉致ったあのチャラ男は、人間なんかじゃなかったって事。

 そして、中途半端に通行人のいるこの場所じゃ、下手に市松さんを呼べないって事。

 誰かに助けを求めても良いんだけど、あのチャラ男が空を飛ぶ以外にどんな能力を持っているか分からないのに、迂闊に助けは求められない。被害が拡大したら困る。

 でも、だったらどうしよう。どこに逃げてもあいつは来る。何が目的なのかは全く分からない。

 大体、滅茶苦茶に走ってるから、段々自分がどこにいるのか分からなくなってきた。

 八方塞りって言葉が、頭の中でちかちかする。

 ちょっと泣きたくなってきた……。

「きゃっ!」

 無我夢中で走り続けていたら、角を曲がった先で何かにぶつかってしまった。

「あぁ?」

 顔を押さえながら見上げると……ああ、何か不良っぽそうな男の人が数人。

「何だお前?」

「あ、あはは……すみません……」

「君一人? 俺らと遊ぶ?」

「あ、あはは……」

「姫?」

 最後に聞こえた声に、私はばっと振り返った。

 あのチャラ男が不思議そうな顔で立っている。

「あの! この人あげます!」

 私はチャラ男のところまで引き返すと、問答無用で腕を掴んで不良の方へ押し出した。

「へっ?」

「さよならっ!」

 背後から色んな声が聞こえた気がするけど、私は構わず走り出す。

 なんかもう、殆ど足がもつれて言う事をきいてくれない。とりあえず多少は時間稼ぎになるかも知れないけど、これからどうしよう?

「ぎゃんっ!」

 何て考えてたら、思いきり転んでしまった。顔面強打は何とか免れたけど、アスファルトで転ぶのって痛いのよね。

 ていうか、今の誰か見てたかな? 恥ずかしい……。

「大丈夫ですかな?」

「ふえ?」

 とりあえず“伏せ”から“ぺたんこ座り”まで体勢を立て直した私は、目の前から聞こえた声に顔を上げた。

 育ちのいい温和な人がそのまま歳をとりましたって感じの、紳士な雰囲気を漂わせるおじいちゃんが、私に手を差し伸べてくれていた。

「あ、ありがとうございます……」

 やっぱ見られてた。

 私は思いっきり顔が熱くなるのを感じながら、おじいちゃんに手を引かれて立ち上がる。

 というか、おじいちゃん、結構力あるのね。なんて言ったら失礼か。

「姫。いくら僕でも、男の輪に放り込まれるのはいささか困るというか、趣味じゃないんだけど」

 恥ずかしさを紛らわす為にスカートとか叩いていると、背後から声がした。

 もう来ちゃったのか。この際このおじいちゃんに助けを求めるか。私は振り返りざまおじいちゃんの背に隠れようとして、動きを止めた。

「おや、アルではありませぬか」

 おじいちゃんが穏やかな声でそう言ったから。

 知り合い、なの?

 アルと呼ばれたチャラ男も、おじいちゃんに何か感じるものがあったらしくて、びくりと警戒した表情で後退さった。この反応からして、あまり仲は良くないのかな? だとしたらまだ助けを求めるチャンスはある。

「……誰です? 僕はご老人に見覚えは」

「己(おの)に見覚えがないのは構いませぬが、この御嬢さんに手出しするのは些か問題で御座いますな」

 あれ? そう言えば、おじいちゃんの喋りというか声に、聞き覚えがあるような気がしなくもないような気がしてきた……(ややこしい)。

「何故です? 人間を口説いてはならないなんて規定、僕は聞いた事ありませんが」

「そういう意味では御座いませぬよ。全く、そのような態度を貫いておりますと、本命にも逃げられてしまいますぞ」

「…………」

 おじいちゃんの言葉に、不機嫌そうにそっぽを向くアルさん。どういう字、書くんだろ? もしカタカナだとしたら、妖物にしては珍しい名前だと思うんだけど。

 というか、このおじいちゃん、誰だっけ?

「とっくに逃げられましたよ。いーんです。僕には姫がいる」

「その姫様とやらがこちらの御嬢さんを差しているのとするならば、先程も申したが止めた方が良いと存じますが」

「だから、別に人間を」

 アルさんが苛立った声を出すのも構わず、おじいちゃんは空を仰いだ。思わず、私もアルさんもつられて顔を上げる。

「……ほら、いらっしゃった」

「?」

 おじいちゃんは楽しそうな声で言うけど、私には赤く染まった空しか見えない。ああ、もう結構遅い時間なのかな。家に連絡入れないと心配されちゃうかも。いつもなら遅くなる時はちゃんと言っておくからなぁ。

「何が来たと言うんですか?」

 アルさんにも何も見えなかったと見えて、不機嫌顔剥き出しのまま、おじいちゃんを睨み付けた。おじいちゃんは何も言わずに私の前に腕を伸ばすと、そのまま後ろに一歩下がる。当然、私も一緒に一歩下がる。

「視線を逸らせた隙に逃げようというさんだ――」

 バサッ! って、感じで、私たちとアルさんの間に何か大きな塊が落ちてきた。私はびっくりして、咄嗟におじいちゃんの背中に避難。アルさんも後ろに飛び退いている。

 あれ? でもあれって……。

「咲?」

「市松さん」

 すっと立ち上がって振り返るのは、呼ぶまいとしていた市松さんだった。

「何で? 私呼んでない……よね?」

 そりゃ、呼びたかったのはやまやまだけど(謎の誘拐魔にさらわれたのちストーカーされてた訳だから)、でも一応気を使って呼ばなかった……はずなのに。

「帰りが遅いから探しに来た。……迷惑だったか?」

「ううん! すっごく嬉しい」

 見知った顔の登場に、私は胸を撫で下ろした。おじいちゃんの背中から飛び出して、足取りも軽く……という訳にはいかなかったけど(さっき転んで膝すりむいちゃったみたい)、市松さんに近付く。

「咲? 怪我……しているのか?」

 歩き方が変なのを目ざとく見つけられて、私は首を竦めた。

「ちょ、ちょっとさっき転んじゃって……あ、でもそれよりも、市松さん、あの」

 私は市松さんの振袖を軽く引っ張ると、背後でにこにこ笑って立っているおじいちゃんの方を示した。

「あの人……」

 『見覚えあるんだけど誰だっけ?』と訊きたかったんだけど、それよりも早く市松さんは言った。

「今日はまた随分珍しいな。こんな所で何をしているのだ? 鏡龍」

 ……へ? かがみりゅう、さん?

「うそぉ」

「『嘘』って……知らずに背に隠れていたのか?」

「だ、だって、得体の知れないチャラ男に追い掛け回されてたんだもん」

「『得体の知れないチャラ男』ってのは酷いね、姫」

 アルさんの言葉に、うっかり口を滑らせた私は慌てて市松さんの背に隠れた。

 それにしても、私の知ってる鏡龍さんって、鱗が鏡みたいな綺麗な銀色をして、鬣も銀色で、目は金色の中国の竜っぽい姿をした物の怪だったと思うんだけど……人の姿にもなれたの?

「アルが空を飛んでいるのが見えましてな。ああ今年もやっているのかと思うてよくよく見てみれば、抱えられていたのが咲殿でしたのでこれはと思いましてな」

「ある……?」

 鏡龍さんの言葉に、市松さんは首を傾げながらアルさんを見遣る。この様子だと、鏡龍さんはアルさんを知ってるけど、市松さんは知らないっぽい。

「この者の事か?」

「左様で」

「……この国の者だよな?」

 確かに、アルって名前は音で聞いても日本人って感じはしないわよね。それとも最近の妖物は片仮名もアリなのかな?

「字(あざな)で御座いますよ。アルタイルから名をお借りしているようです」

「ある……?」

「牽牛星の事だよ、市松さん」

 カタカナ語にはめっぽう弱い市松さんに、私はすかさず注釈を入れる。

 にしても、同じ年代っぽく見える鏡龍さんですら知ってる単語も知らないのか……。ここまでくると、市松さんって現代社会についていけてないんじゃなくて、毛嫌いしてるんじゃないかと思えて来るわ。それとも、ただ単に外に出なさすぎただけなのかな?

「……成程。しかしまた何故そんなややこしい字を名乗っておるのだ?」

「別に名乗っているつもりはないですよ。周りが勝手にそう呼んでいるだけです。大体、あなたは誰です? 僕の姫とどんな」

「あ(゛)?」

 凄まじい剣幕の市松さんに、アルさんがすすす……と後退さる。

「アル。唐子松殿は咲殿に“名付け”を賜った身。だからこそ忠告をしたと言うに」

「“名付け”を? いまどき古風な……って、ああ、成程。やっと合点がいったよ」

 “名付け”って古風だったんだ……。それはそれとして、アルさんは一人頷きながら肩を竦めている。

 チャラ男と呼ばれたのを嫌がってたけど、やる事成す事いちいちキザっぽいし見た目もそんな感じだから、やっぱりチャラ男で良いと思う。

「どーりで、僕のベールが利かないと思った。こんな古臭い物の怪従えてるんじゃ当たり前か」

「急いでいたから薙刀を家に置いて来たのだが……鏡龍、ちと手を貸してくれんか?」

「己は構いませぬが……唐子松殿に斬られてはアルといえどひとたまりもないでしょうな」

 物凄く冷静に言っているように聞こえるけど……これは市松さん相当怒ってるわね。まぁ、古臭いなんて言われたら誰でも怒るわよねぇ。

 でも、鏡龍さんに手助けして貰うって、どういう事だろ?

「ちょ、ちょっと冷静になりたまえよ。同族の殺生なんて趣味が悪い。悪かった僕が悪かった。本気で思ったとは言え正面切って『古臭い』なんて口にすべきじゃなかったねあぁ……姫~助けておくれよ~」

 ……こいつ、馬鹿だわ。

 助けるつもりが毛頭ない私は、すすす……と後退さった。

 市松さんはさっきから黙りこくっているけど、アルさんの反応からして多分キレる寸前ね。

 びびって後ずさりまくっていくアルさんをしばらく睨んだ後、市松さんは溜息をついた。

「このような小物を切るなど、自分のものならまだしも鏡龍にとんだ汚名を与える事になるな」

「別段構いませぬが……宜しいので? アルの口ぶりと普段の行いから考えて、咲殿をたぶらかそうとしていたようですぞ?」

「一発殴ってやるくらいの事はしたいがな。それより」

 ふっと振り返って来たので、私は思わずびっくりしちゃった。だって、まだしばらくはアルさんの方を見てると思ったから。

「……どしたの? って、わっ!」

 迷わず私の方に近付いてきた市松さんに、ふいを取られてお姫さま抱っこされる。ちょ、ちょっと待って、何で?

「い、市松さ……」

「怪我しておるだろう? 傷口を早く洗浄せんとな。それに」

 私を抱きかかえたまま、市松さんは鏡龍さんを振り返る。

「先程から、人払いをしてくれているだろう?」

「さすが唐子松殿。露見ておりましたか」

「お前には日頃から世話になりっぱなしだ。これ以上余計な負担を掛けさせるわけにもいかぬ」

「お心遣い、痛み入りまする」

 そうか……裏道みたいなところにいるっぽいから人がいないんだと思ってた。鏡龍さんが何かしてくれてたんだ。

「とりあえず場所を変えよう。咲、少しの間目を閉じていてくれるか?」

「え? あ、うん」

 何が何だかよく分からないけど、私はとりあえず言われたままに目を閉じた。

「すまぬな。俺らは慣れているが、人は酔いやすいらしいから」

 市松さんの声が終わるか終らないかのうちに、何というか、気圧が変わったような、空気が変わったような変な感じがした。体が上下に揺れる。これは多分、市松さんが歩いているせいだ。

 最初は硬い感じの足音がして、それから何か草を踏み締める音に変わった。周りの温度が一気に下がる。ひやりとした空気が頬を撫でる。

「もう良いぞ」

 言われると同時に、私は何かの上に降ろされた。あ、切り株だ。

「って、えっ?」

 さっきまで駅前のいかにも“都市部”って感じの場所にいたのに(いや、都会の人から見ればあそこでも田舎なんだろうけど)、今はもろ森の中だ。周りに木が生えてる。草花も生い茂ってるし、鳥の声まで聞こえる。

「隠裏世でございますよ」

 私がわたわたと辺りを見回していると、鏡龍さんがにこにこと笑いながら言った。

 って、鏡龍さん、いつの間にか普段通りの竜の姿に戻ってるし。って事は、ここは人間が絶対通らないって事だ。……そもそも、ここは私が生きてるのと同じ世界なのかしら? ”かくりよ”って言ってたし。

 ……ん? ”かくりよ”?

「それって隠すって字に世界の世だったり、幽霊の幽に」

「隠す、と世の中の世の字は使いますが、間に表裏の”裏”が入りまする」

 思わず必死になる私の言葉が最後まで終わらない内に、意味を悟ってくれたらしい鏡龍さんが柔らかな声で言った。

 えーっと、って事は”隠裏世”か。って事は隠世だったり幽世だったりっていう、いわゆる死後の世界とは別だって思って、良いの、よね?

 切り口を変えて訊ねようと思ったんだけど、顔を向けた方に市松さんがいない。

「小川の方に向かったのかと存じます」

 私がきょろきょろしていると、鏡龍さんが教えてくれた。そうか。傷を洗わなきゃって、言ってくれてたもんね……。

 近くの茂みががさがさって音を立てて、思わずびくっとすると、葉っぱの間から市松さんが姿を現した。

「傷は痛まぬか?」

 そう言いながら、湿らせた布で(どっから出したのかと思ったら、こういうのは普段から持ち歩いているそうだ)膝と肘(気付かなかったけどこっちも擦り剥いてた)を拭ってくれる。

 若干小石かアスファルトの欠片っぽいのがくっついててほんの少し痛かったけど、市松さんてば物凄く優しく処置してくれたから、それ以外は痛みを感じなかった。

 ただ。

「全く。あの小童、嫁入り前の娘に何をするか」

 怪我の手当てをしてくれながらぶつぶつと呟く市松さんの言葉には、苦笑するしかなかったんだけど。

 だって、転んだの自分のせいだし……。

「大体、何なのだあの小童は」

「アルには元々恋人がいたようですが、相手方の親御さんが厳しく、年に一度しか面会を認められなかったようです。しかしその一度の日も、天候が悪いと先方の機嫌が悪くなり、会う事が叶わなかったとか」

「まるで七夕だな」

 市松さんの意見に私も同意。

「だからこそ周りからアルと呼ばれております。それでまぁ、会えない年が重なり、不満が重なったのでしょうな。ある年から、アルは恋人に会えないとなると人間の娘をたぶらかすようになりまして」

「男の片隅にも置けぬ奴だな」

「実害があるようなら他の者が止めに入ったでしょうが、アルはあの布を使って一日だけ女子の恋人であるかのように振る舞うと、後は記憶を消して解放していたようで。一応はお咎めもなかったのですよ」

 恋人に会えなくて寂しいのは分かるけど、それって浮気じゃないの。

「アルさんに会えないのは、恋人の方も同じだったんでしょう? なのにそんな事したら……」

「話の途中でいなくなるとは失礼だね」

 頭上から声がして、私は反射的に顔を上げた。声はチャラ男のなんだけど、姿が見当たらない。

「どこにいるの?」

「君が僕の姫になってくれると言うのなら、御許へ姿を現そう」

 すっごい上から目線だ。別になりたくないから、これ以上反応しなくても良いかな?

「……鏡龍」

「御意のままに」

 市松さんがすっと立ち上がって、鏡龍さんは……。

「わ……!」

 きゅうっと雑巾絞ったみたいに体が細くなったかと思うと、見た事のある薙刀に姿を変えた。あれ、市松さんが持ってる薙刀だ。

 市松さんは鏡龍さんが変化した薙刀を迷わず掴んで、軽々と跳躍。近場の木に切りかかる。

「うわわわわわわ!」

 バサッ! って音がして、枝が切り落とされる。そこから慌てて飛び立ったのは、何やら茶色い羽を持つおっきな鳥だった。

 ただ、頭上はうっそうと木が生い茂って葉っぱの天井が出来てるし、市松さんの跳躍力は凄いしで、鳥は飛び立ってすぐ、薙刀に叩き落される。

「お前、人が折角見逃してやったというに、わざわざついてくるとはいい度胸だな」

 なすすべもなく地面に落ちた鳥に向かって、仁王立ちで凄む市松さん。って事は、あれがアル、さん? 確かによくよく見てみると、体は茶色けど頭は白い。何となくアルさんの髪色を思い出す配色。とんびかと思ってたけど……鷲、かな?

「待て! 話し合おうじゃないか」

 鳥からチャラ男の姿に化けて、でも地面に尻餅をついたまま必死に取り繕うアルさん。

「お前と話す事などないわ!」

「ぎゃっ!」

 ゴン、て感じの良い音がした。市松さんが薙刀の柄でアルさんのおでこを突いた音だ。もしあれが市松さんの薙刀だったら斬りかかってたかな? それくらい怒ってる感じだ。今は幸い鏡龍さんだからそんな事しないだろうけど。

「姫~」

「私は姫じゃありません!」

 涙目で助けを求められたので、私はきっぱりと言い放つ。可哀想かもだけど、変に同情して付きまとわれるのも嫌だ。

「アル、悪ふざけも程ほどにせんと」

 薙刀から鏡龍さんの声。市松さんに振り回されて枝切ったりアルさん小突いたりさせられてたけど、痛くなかったのかな?

「ふざけてなどいない。僕は本気だ! てっ」

 真面目な顔で拳を握った瞬間に、市松さんから第二打を受ける羽目になったアルさんでした。

「何が『本気』だ。そのような小細工を使っている時点で胸など張れぬだろうが」

「うるさいな。僕の気持ちがお前に分かってたまるか!」

「恋人に会えぬ寂しさを他の女子で埋め合わせようとする者の心など、分かりとうもないわ」

 ぴしゃりと叱りつけられて、アルさんは沈黙した。

「そんなんでは、本命に逃げられるだろうに」

「もう逃げられてるよ」

 吐き捨てるように言う。そう言えば、鏡龍さんに言われた時もこんな態度だったわね。

 という事は……。

「とっくに振られてるって事?」

「……傷口に丁寧に塩を塗りこんでくれるね、姫」

 皮肉な調子で笑われて、さすがに私も口をつぐんだ。失言だったわ。

「良いのさ。燃え上がる恋も、時の力の前では無力だ。かれこれ五年も会えないとなれば、興ざめしてしまうのも当然だろう?」

 一年に一回しか会えないのに、五年も会えないんじゃ、まぁ冷めるのも仕方ないのかもしれない、けど……。

「だからって、怪しい術かなんかで人の心掴んでも虚しくないかな」

「ならば、正攻法でアタックしたら、君も落ちてくれるのかな?」

「お断りします」

 あ、つい脊髄反射的に返事しちゃった。塩の次にからし塗り込んじゃったかも。

 案の定、アルさんは両腕を組んだ状態でがっくりと頭を落としている。

「ふ、ふふふ……やってくれるね、姫……」

 だから、私は姫じゃないんだってば。

「そこまで言われては、恋人待ちのアルタイルと呼ばれた身が廃る。僕は今ここに、必ずや君を僕の虜にすると宣言しよ……っ」

「阿呆抜かすのも大概にせんか」

 見事に落ち込みから脱却して顔を上げたアルさんだったけど、直後に市松さんに拳骨されてまたも頭が下に。

 あ、でもまためげずに顔上げた。

「僕は本気さ。今度こそ本気だとも。いくら君のような番犬がいようとも、華麗にかっさらってやるから覚悟したまえ! あっはっは!」

「…………」

 もしかしなくても、私アルさんに余計な闘志を燃やさせてしまったのかもしれない。

 でも、もう止める暇も訂正する暇もなく、アルさんは鷹の姿になるとどこかへ飛び去ってしまった。

「…………」

 ふと隣を見上げれば、市松さんも私と同じ心境なのか、非常に複雑な表情でアルさんが飛び去った方向を見遣っている。

「恋敵が増えましたなぁ、唐子松殿」

 いつもの姿に戻った鏡龍さんに茶化されたけど、私たちは揃いも揃って反応が出来なかった。

 厄介なのに目をつけられちゃったわ……。



「あー、家だー」

 見慣れた我が家が目の前に現れて、思わず私はほっとする。

 もっと早く帰って来るつもりだったんだけどなぁ……。空はすっかり夕焼けも過ぎて星が瞬き始めてるわよ。空を見上げるだけで、どっと疲れが出て来る。

 玄関に立った私は、くるりと後ろを振り返った。後ろには、両腕を組んで立つ市松さん。私が見ても、動こうとしない。

 あれ? いつもなら、すぐ人形に戻るのに。

「市松さん?」

「このまま戻ってもらって構わぬ」

 想定外の言葉に、私はぽかんとしてしまった。

 だって、このまま入ったら、確実にお母さんに知れちゃうもの。一応帰る前にメールはしたけど。心配されてるっぽいし帰宅したら確認のために居間から顔出すと思うし。

 いや、別に良いのよ? でも、居間から出てみたら娘と一緒に見慣れぬ人(しかも振袖着てる男の人)が立ってた、なんて事になったら、いくら天然のお母さんでも驚くわよ。

 最悪、そのまま騒ぎになりかねない。

「でも……」

「今更取り繕うても意味がない」

「?」

 何だかとっても意味深な台詞を吐かれたけど、このまま待ってても現状は変わりそうにないから、私は仕方なく扉を開けた。

「ただいま~」

「おかえりなさい、咲ちゃん!」

 案の定、お母さんが顔を出す。

「ごめんね。遅くなっちゃって」

 とりあえず、私は至って普通に対応してみた。

「ううん、咲ちゃんが無事で良かったわ~」

 お母さんも、普通に対応してきた。

 ……市松さんの事、見えてるかな?

「ありがと。助かっちゃったわ」

 いやいや、いくらお母さんでも実体のある市松さんが見えないなんてぼけっぷりは……なんて考えていた私は、いつの間にかお母さんの視線が移っている事に気が付いた。

 しかも、お礼の言葉は確実に市松さんに向けられている。

「……え?」

 私は素早く、ええ疲れているのも忘れて非常に素早く(大事だから二回言ってみたわ)、市松さんを振り返った。

「……済まぬ」

 市松さんは気まずげに、私から視線を逸らしている。これはもう間違いなく、二人が既に顔を合わせてるって事だ。

「いや、良いんだけど……いつ?」

「今日ね~ついにうちにも来ちゃったの、“押し買い”」

「えぇ」

 私は素早く、こんなに頭振ってたらそのうち眩暈するんじゃないかってくらい素早く、お母さんを振り返った。私の反応が面白いみたいで(余計なお世話よ!)、お母さんはくすくすと笑いながら話を続ける。

「でもね、あわやお家に入られそうになった所で、唐子松さんが間に入ってくれたの」

「……見ていられんかったからな」

 “押し買い”って、問答無用で人んち入って問答無用で貴金属買い叩く悪党どもだものね……。お母さんが一人だったら確実に押し切られてる。

 そっか、良かった。市松さん間に入ってくれたんだ。

「ありがと、市松さん」

 私の場合、絡まれるのは主に物の怪が相手だから、市松さんに間に入って貰わないとどうしようもないけど、悪徳商法の人たちに絡まれた時にまで守って貰っちゃって……。

「え? あ、あぁ……」

 市松さんはちょっとびくっとなりつつも、返事をした。……って、お礼言われてその反応はどうなの?

「どうかした?」

「いや、咲に何の断りも入れなかったからな……」

「別にそんなの気にしなくて良いよ。結果オーライって事で」

「おー……?」

「あ、ごめん。終わりよければ全て良しって事で、ね?」

 私が言うと、市松さんはやっとちょっとだけ笑って、頷いた。

「さて、今日の夕飯はお赤飯かしら~?」

 ちょい待ち。その台詞は微妙に聞き捨てならない。

「何で?」

「新しい家族が増えてたってのもあるけど~。二人がとっても仲良しさんだから♪」

「…………」

「…………」

 お母さんは足取りも軽く台所へ向かう。私は市松さんと顔を見合わせたけど、お互いに言葉が出てこない。

 もう突っ込むのも否定するのもめんどくさいって感じで、私たちは同時に溜息をついた。



 終。




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