向かった先は、蔵の一つだった。先代は小さな体を精一杯伸ばして、錠と格闘している。
「先代」
「んー? お前さっきから妙な呼び方……ああ、前の代って事か。そうかそうか」
ガチャンと音がして、錠が地面に転がった。先代はそれを気にも留めず、蔵の扉を開ける。
「そういや、お前に名前を呼ばれた事がないなぁ」
「お前が教えなかったんだろうが」
闇の中へ消えて行く先代に向け、唐子松が呆れたように言い放つ。
「唐子松」
「ん?」
続いて蔵に入ろうとした唐子松は、雷鬼の声に振り返った。
「私達はここで見張りをしている。家人が戻る前に全ての用事を済ませろ」
「…………」
「さ、唐子松殿」
「ああ、ありがとう」
二人の言葉の意味を悟った唐子松は、複雑な笑みを浮かべ、蔵に入った。蔵の中は闇で満ちていたが、唐子松たち物の怪は夜目が利く。視界の面では全く困らないのだが、目の前の物の怪の存在に、唐子松は戸惑いを隠せない。
何故、人間であった先代が物の怪として生きているのか。彼は本物なのか。彼の言葉の意味は何なのか。
「ほら、あったあった」
先代が、己の身の丈の二倍はある長い袋を掴んで戻って来る。満面の笑みで差し出す様子は、初めてこれを貰った時と変わらない。
「……恩に着る」
唐子松は静かに口にして、それを受け取った。
「おいおい。随分湿っぽいなぁ。『別れ際には笑顔!』俺のこの信条は昔から変わってないんだぜ?」
「酒好きな所もな」
唐子松は、ここへ来た時先代の傍らに置いてあった酒瓶を思い出しながら言った。皮肉を言われても、相手は気にも留めず笑っている。
「……いい加減、説明せんか」
ここまでの流れと、先代の言葉。それらで、唐子松は先代がどういった経緯でこの場に出現し、その後どうなるかまでの予想が大体ついていた。だが、それが外れていたら良いと僅かに抱く希望のようなものが、己の予想を肯定するのを拒んでもいた。
「いやぁ。お前の生き様見てたら物の怪やるのも楽しそうだなっと思ってな。神さんに頼んで次代は是非物の怪にと」
「…………」
怒鳴りたいのを凄まじい精神力で抑え込み、唐子松は先代を睨み付けた。さすがの相手も苦笑を浮かべ、両手を小さく上げて見せる。
「事実なんだがな。いや、怒鳴るのは止めてくれよ? 今のお前は武器持ちだからな。斬られたら堪らん」
言いながら、更に後退さる先代。唐子松は確認の意も込めて、受け取ったものを袋から取り出した。
「唐子松さぁーん……」
先代が引き攣った笑みを浮かべる。それほどまでに威厳を放つもの。
唐子松は黒く艶やかな柄を握り、くるりと回した。薄く研ぎ澄まされた刃が、暗闇の中でも薄らと光を放つようだ。
薙刀は久方ぶりの友に会ったように、唐子松の手に馴染んだ。
「んで?」
肩に袋を掛けると、唐子松は両手で薙刀を握り締め、切っ先を先代に向けた。相手は更に後退り、勢いよく首を振っている。
「悪かったな。出来の悪い子孫でよ。いや、俺の子じゃーない訳だが、どっかで血は繋がってるからよぉ」
先代の言葉に、唐子松は薙刀を下ろす。
「いやな、先程の言葉はホントに嘘じゃなくてな。次代は物の怪になるのも悪くないって思った訳よ。んで、どうせならこの家に戻ってきてやろうって思ってさ。当然、本来なら前世の記憶なんか引き継げるわけねーんだが、ちょっと事情が事情でよ」
薙刀を下したのがきいたのか、先代は余裕を取り戻し、唐子松の傍に戻って来た。懐かしげに唐子松を見上げながら、話を続ける。
「お前が追い出されたらしいってのを知ってさ。追い出されたって事は、きっとその薙刀置いて行っただろうと思ったわけよ。実際そうだったろ? だから神さんに頼んで、少しの期間、前世の記憶を引き継げるようにして貰った。きっとお前さんはそれを取りに戻って来ると思ってたからなぁ」
「つまり、俺が目的を果たしたら、先代は前世の記憶を忘れるという事か?」
「先代じゃない。闇酒様と呼べ」
唐子松としては訊ねたくない内容の質問で口にするのも辛かったのだが、先代――闇酒(やみざけ)の言葉に力が抜ける。唐子松の苦々しい思いに気付いていないのか、闇酒は得意げに己を示した。
「ぴったりの名だろ? どんな酒でも言い当てられるからなぁ、俺は!」
「違うだろ。どんなにちゃんぽんしても全く変わらないからだろ」
すかさず切り返すと、闇酒は「違いねぇ! 酒は飲んでも呑まれるなってな!」と軽快に笑った。それからすっと真面目な顔になって、懐かしむように蔵を見渡す。
「お前に会って薙刀を渡す目的は果たしたからな。明日には忘れてるだろうなぁ。そんで、晴れて俺は物の怪としての人生の一歩を踏み出す訳だ」
「……そうか」
闇酒の言葉に、寂しげな響きはなかった。むしろこれから先の事を楽しみにしている風だ。それは彼らしくあり、唐子松にとって許しがたい事だった。
「お前はいつも自分勝手だ。一人で楽しんで、一人で逝って。挙句戻って来たと思えば、すぐにまた俺の事なんか忘れるのだからな」
「それが自然の摂理ってもんだろ、唐子松。いや、俺の場合は少々ねじくれちまったか。それはそうと、お前今どこにいるんだ? 物の怪の里にでも行ったか?」
「いや。まだ人の傍におる。新しい主が見つかったからな」
「何だそうか。んで? その主は良い娘なのか?」
「なんで娘前提なんだ……いや娘なんだが」
ぶつぶつとぼやく唐子松の言葉に、闇酒がニヤニヤと笑みを浮かべながら近付いて来る。
「そかそか。なら良かったじゃないか。俺はお前が言うように『先代』だ。そして俺は次の生を謳歌する。お前もその娘と青春を謳歌すれば良いじゃないか!」
小さな背では唐子松の肩に届かず、代わりに腕をぽんぽんと叩く闇酒。その頭を薙刀の柄で殴りつけたい衝動に駆られたが、唐子松は必死に自制した。
彼は先を見据えている。だが、その楽しみを少し引き延ばして、唐子松を待っていてくれたのだ。そこには感謝しなければならない。
唐子松は薙刀を持ち直すと、闇酒の前で膝を折った。それでやっと、互いの視線が同じ高さになる。
「先代、これまで世話になった」
「よせやい。湿っぽいのは嫌いだって言ってんじゃねぇか」
そう言って、今度こそ唐子松の肩を叩く闇酒。
「ま、俺はお前の事を忘れるが、お前は俺の事を覚えている。その内どっかで会ったら、また一杯やろうや」
「……どこかに、行くのか?」
闇酒は内裏雛の器を使っている。そして、あの家には今、ひな飾りが置かれている。彼としてもこの家に執着はないのだろうが、内裏雛がいなくなれば、さすがに騒ぎになるだろう。
唐子松の危惧している所を察したのか、闇酒は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「良いんだ良いんだ。ここの奴ら昔からあるものを全然大事に扱わないからなぁ。内裏雛一つなくなったくらいでどうとも思わないだろうよ。下手すっと気付かねえぞあれは。ガキが女子だって理由で、やっと出してきたくらいだからな」
闇酒の言い分が分かる唐子松は、何も言えない。あの日の苦い思い出に苦笑するだけだ。
「お前さんが連れてきた物の怪、いるだろ? どっちかに俺を物の怪の里だか会合だかに連れてって欲しいって頼んで貰えんかね? いや、お前について帰っても良いんだがな。その代り、お前さんの主を俺の魅力で虜にしても文句は」
「雷鬼に頼んでやるから付いて来るな」
懐かしき思い出はどこへやら。唐子松は闇酒の言葉を一瞬で切り捨てた。
「そうそう。そうでないとな」
否定されたと言うのに、闇酒は笑っている。
「にしてもあの堅物に色恋沙汰かぁ。長く生きてみるもんだな。ま、明日には忘れてるが」
「そっ、咲とはそういうんじゃねぇ!」
「ほー。真っ赤だぞ唐子松」
「当たり前だ! 怒っとるんだ!」
再び薙刀を振り回すと、闇酒は笑いながら唐子松の攻撃を軽やかに避け、蔵の外へ飛び出して行った。一人残された唐子松は乱れた呼吸を整えると、地面に落ちてしまった布袋を取り上げ、薙刀を仕舞う。
頬は薄らと紅に染まっていた。
「おっし、これで良し。んじゃ、さっさかトンズラしますかね」
闇酒は元のように錠をかけると、唐子松たちの許へやってきた。
「本当に良いのか? 唐子松と共に行かなくとも」
「良いのだ。記憶が抜けても性格は早々変わらん。こんな大酒のみの酔っ払い、咲の傍に寄せる訳にいかん」
闇酒を指差して問い掛けてきた雷鬼に、唐子松は非情とも取れる台詞を吐く。それでも、闇酒は気にも留めず笑っている。
「そうそう。それに俺としては、物の怪界の情報が欲しいんでね。毎日同じ場所から動かん唐子松の傍にいる訳にゃーいかんのよ」
「悪かったな。だが――」
唐子松の言葉は、塀の向こうから聞こえてくる自動車の音で途切れた。四人は顔を見合わせ、雷鬼は素早く闇酒を抱え上げ、唐子松は鏡龍に飛び乗り、一斉に空へと飛び立つ。
誰も居なかった家に、ぽつぽつと明かりが灯り始める。それに続いて、賑やかな声。懐かしく、だが決して良い思い出はないその声に、唐子松は苦い表情を浮かべた。
「恨んでやるなよ。そういう運命だったのさ」
「……ああ。分かっている」
闇酒の声に、顔を上げる。辛い記憶を全て振り払い、帰りの方角へと目を向ける。
「じゃあな、唐子松。今度こそ、その薙刀大事にしろよ」
「ああ、先代も達者で。……出来れば二度と会いたくない」
「んなっ! お前さすがにそれは酷いぞ!」
雷鬼の腕の中でバタバタと暴れる闇酒に、唐子松は笑みを零した。
「冗談だ。せいぜい酒に呑まれて怨霊化しない事を願うよ。俺も薙刀も疼いてしまうでな」
「……斬りたくてしょうがないって顔ですよ唐子松さーん……」
今度は助けを求めるように雷鬼にしがみついている。黙ってされるがままになっている鬼妖怪は、視線だけで『何とかしろ』と訴えていた。
「んじゃ、雷鬼。子守を頼む」
「……このツケは大きいぞ」
「そうそう。上等の酒が十樽あっても足りんなぁ」
「お前に対するツケなんか払うか! こっちが払って欲しいくらいだぞ!」
「唐子松殿。あまり怒鳴られるのは……」
「そうそう。鏡龍の言う通りだぞー。もう下には住人が戻ってるからなー」
「次に会ったら絶対に斬ってやる……」
「それは怖い。俺も精々腕を磨いておくかね」
飄々とした様子で笑うと、闇酒は雷鬼に向かって「さ、行くかね」と促した。
「良いんだな?」
「ああ、構わない」
これが最後の機会だ。話したい事は全て話すべきなのかもしれない。だが、いざとなると話すべき事が見つからない。それならば、常に先に楽しみを見据えている先代を見習おうと、唐子松は思った。
先代に会える事は二度とない。だが、先代から魂を引き継いだ闇酒には、これから先、また会う事があるかもしれない。
その日を楽しみに。
電流を迸らせ、雷鬼がふわりと鏡龍たちから離れて行く。その腕の中で、闇酒は唐子松に向けて手を振っている。
「達者でな、唐子松!」
「ああ、せんだ……闇酒、お前もな!」
唐子松も薙刀を持つ手を振る。両者の距離は瞬く間に広がり、雷鬼の放つ電流すら殆ど見えなくなった頃、遠くから声が聞こえてきた。
「新しい娘と幸せになぁー!」
「お前次会った時覚えていろ!!」
唐子松が怒鳴り声を上げると、闇の向こうから「そりゃちと無理な話だ~」という声が返ってきた。
分かってはいるが、叫ばずにはいられなかったのだから仕方ない。唐子松は大きく肩を落として息を吐くと、鏡龍の体をそっと叩いた。
「待たせてすまなんだ。……行こうか」
「唐子松殿も、難儀ですな」
鏡龍の労わりの言葉が、唐子松の身に酷く染みた。
本当は、もっと色々危惧していた。
誰か家人に見つかって、捕まるだけならまだしもその場で焼かれるとか。また見知らぬ地へ捨てられるとか。大騒ぎになるとか。そうなれば、被害は唐子松だけでは済まされない。それをきっかけに、己が変質してしまう可能性もある。
咲には話さなかったが、今回の事は唐子松にとってかなり危険な賭けだったのだ。
だが、闇酒の出現で事態は変わった。勿論、鏡龍や雷鬼の協力も大きな力となっていたが、闇酒の存在が一番大きかったのは言うまでもない。
布に包まれた薙刀を握り締める。感触を確かめるように。存在を確かめるように。
「良き友だったのですね、唐子松殿」
「ああ。良い奴だったよ。……色々問題も多かったがな」
ゆっくりと空が白んでいく。その中を、周りに溶け込んだ二人の物の怪が滑るように飛んでいく。
咲のいる場所に、今の唐子松の家に向かって。
「……うん?」
目的地が近付くにつれ、唐子松は首を捻った。
咲の部屋の雨戸が、半分開いている。
もう目を覚ましたのか。それとも、最初からそうしていたのか。
「咲のやつ、心配性な所があるからなぁ……」
ぼやいてみるが、彼女が心を痛めている対象を考えると、小言も言えない。
カツッと音を立て、鏡龍がベランダの柵に降り立つ。ふわりとその背から降りた唐子松は、音もなくベランダに降り立つと、恐る恐る窓から中を覗き込み……。
「咲?」
あまりの驚きに勢いで窓を開け(鍵はかかっていなかった)、中へ飛び込んだ。
「いちまつ……さん?」
寝台の上で膝を抱え、ぼんやりとした様子で目を擦りながら、咲は唐子松を見上げた。
「ちゃんと寝たのか?」
持っていた薙刀を壁に預けると、寝台に膝を載せて少女の体を抱き寄せる。
「うん……寝たんだけど、あんまり眠れなっくて……」
よほど眠いのだろう。咲は無抵抗に唐子松の腕の中に収まり、振袖の裾を掴みながら、消え入りそうな声で呟く。
たった一晩。それなのに、こんなに心配してくれたのか。彼女の事だ。唐子松が話さずとも、口調や態度から、今回の外出が危険な事くらい見抜いていただろう。
嬉しさと申し訳なさで、表情が歪む。
「咲……すまない。今からでも、ちゃんと眠れ。もう幾らでも傍にいてやれるから」
「うん……今日ガッコお休みだから……大丈夫よ……」
これは殆ど寝ているな。
唐子松は苦笑を浮かべ、彼女を寝台に寝かせると、毛布を掛けてやった。窓に戻り、鏡龍に礼を言って戸締りを済ませると、薙刀を部屋の隅に置き直し、寝台の縁に座る。
「市松さん……何持って帰って来たの……?」
「目が覚めたら見せてやるから」
そう言って、唐子松は咲の頭を撫でた。少女は安心したように笑みを浮かべ、やがて小さな寝息を立て始める。
ここが新しい居場所。唐子松は改めてそれを認識した。
咲の笑顔に、無事に戻って来られた事の安堵が重なる。唐子松は無意識の内に笑みを浮かべ、少女の寝顔を眺める。
――新しい娘と幸せになぁ!
「ばっ……!」
唐突に思考の中によみがえった闇酒の声に、危うく怒鳴り声を上げそうになったのを何とか堪える。両手で口を塞いだまま咲を見遣ると、規則正しく肩を上下させながら眠っている。起こしてはいないようだ。
違うと言っとるだろうが!
一人弁解の言葉を心の中で呟きながらも、唐子松の顔は耳まで真っ赤に染まっていた。
終。
「付物神と藤の花」目次へ
「先代」
「んー? お前さっきから妙な呼び方……ああ、前の代って事か。そうかそうか」
ガチャンと音がして、錠が地面に転がった。先代はそれを気にも留めず、蔵の扉を開ける。
「そういや、お前に名前を呼ばれた事がないなぁ」
「お前が教えなかったんだろうが」
闇の中へ消えて行く先代に向け、唐子松が呆れたように言い放つ。
「唐子松」
「ん?」
続いて蔵に入ろうとした唐子松は、雷鬼の声に振り返った。
「私達はここで見張りをしている。家人が戻る前に全ての用事を済ませろ」
「…………」
「さ、唐子松殿」
「ああ、ありがとう」
二人の言葉の意味を悟った唐子松は、複雑な笑みを浮かべ、蔵に入った。蔵の中は闇で満ちていたが、唐子松たち物の怪は夜目が利く。視界の面では全く困らないのだが、目の前の物の怪の存在に、唐子松は戸惑いを隠せない。
何故、人間であった先代が物の怪として生きているのか。彼は本物なのか。彼の言葉の意味は何なのか。
「ほら、あったあった」
先代が、己の身の丈の二倍はある長い袋を掴んで戻って来る。満面の笑みで差し出す様子は、初めてこれを貰った時と変わらない。
「……恩に着る」
唐子松は静かに口にして、それを受け取った。
「おいおい。随分湿っぽいなぁ。『別れ際には笑顔!』俺のこの信条は昔から変わってないんだぜ?」
「酒好きな所もな」
唐子松は、ここへ来た時先代の傍らに置いてあった酒瓶を思い出しながら言った。皮肉を言われても、相手は気にも留めず笑っている。
「……いい加減、説明せんか」
ここまでの流れと、先代の言葉。それらで、唐子松は先代がどういった経緯でこの場に出現し、その後どうなるかまでの予想が大体ついていた。だが、それが外れていたら良いと僅かに抱く希望のようなものが、己の予想を肯定するのを拒んでもいた。
「いやぁ。お前の生き様見てたら物の怪やるのも楽しそうだなっと思ってな。神さんに頼んで次代は是非物の怪にと」
「…………」
怒鳴りたいのを凄まじい精神力で抑え込み、唐子松は先代を睨み付けた。さすがの相手も苦笑を浮かべ、両手を小さく上げて見せる。
「事実なんだがな。いや、怒鳴るのは止めてくれよ? 今のお前は武器持ちだからな。斬られたら堪らん」
言いながら、更に後退さる先代。唐子松は確認の意も込めて、受け取ったものを袋から取り出した。
「唐子松さぁーん……」
先代が引き攣った笑みを浮かべる。それほどまでに威厳を放つもの。
唐子松は黒く艶やかな柄を握り、くるりと回した。薄く研ぎ澄まされた刃が、暗闇の中でも薄らと光を放つようだ。
薙刀は久方ぶりの友に会ったように、唐子松の手に馴染んだ。
「んで?」
肩に袋を掛けると、唐子松は両手で薙刀を握り締め、切っ先を先代に向けた。相手は更に後退り、勢いよく首を振っている。
「悪かったな。出来の悪い子孫でよ。いや、俺の子じゃーない訳だが、どっかで血は繋がってるからよぉ」
先代の言葉に、唐子松は薙刀を下ろす。
「いやな、先程の言葉はホントに嘘じゃなくてな。次代は物の怪になるのも悪くないって思った訳よ。んで、どうせならこの家に戻ってきてやろうって思ってさ。当然、本来なら前世の記憶なんか引き継げるわけねーんだが、ちょっと事情が事情でよ」
薙刀を下したのがきいたのか、先代は余裕を取り戻し、唐子松の傍に戻って来た。懐かしげに唐子松を見上げながら、話を続ける。
「お前が追い出されたらしいってのを知ってさ。追い出されたって事は、きっとその薙刀置いて行っただろうと思ったわけよ。実際そうだったろ? だから神さんに頼んで、少しの期間、前世の記憶を引き継げるようにして貰った。きっとお前さんはそれを取りに戻って来ると思ってたからなぁ」
「つまり、俺が目的を果たしたら、先代は前世の記憶を忘れるという事か?」
「先代じゃない。闇酒様と呼べ」
唐子松としては訊ねたくない内容の質問で口にするのも辛かったのだが、先代――闇酒(やみざけ)の言葉に力が抜ける。唐子松の苦々しい思いに気付いていないのか、闇酒は得意げに己を示した。
「ぴったりの名だろ? どんな酒でも言い当てられるからなぁ、俺は!」
「違うだろ。どんなにちゃんぽんしても全く変わらないからだろ」
すかさず切り返すと、闇酒は「違いねぇ! 酒は飲んでも呑まれるなってな!」と軽快に笑った。それからすっと真面目な顔になって、懐かしむように蔵を見渡す。
「お前に会って薙刀を渡す目的は果たしたからな。明日には忘れてるだろうなぁ。そんで、晴れて俺は物の怪としての人生の一歩を踏み出す訳だ」
「……そうか」
闇酒の言葉に、寂しげな響きはなかった。むしろこれから先の事を楽しみにしている風だ。それは彼らしくあり、唐子松にとって許しがたい事だった。
「お前はいつも自分勝手だ。一人で楽しんで、一人で逝って。挙句戻って来たと思えば、すぐにまた俺の事なんか忘れるのだからな」
「それが自然の摂理ってもんだろ、唐子松。いや、俺の場合は少々ねじくれちまったか。それはそうと、お前今どこにいるんだ? 物の怪の里にでも行ったか?」
「いや。まだ人の傍におる。新しい主が見つかったからな」
「何だそうか。んで? その主は良い娘なのか?」
「なんで娘前提なんだ……いや娘なんだが」
ぶつぶつとぼやく唐子松の言葉に、闇酒がニヤニヤと笑みを浮かべながら近付いて来る。
「そかそか。なら良かったじゃないか。俺はお前が言うように『先代』だ。そして俺は次の生を謳歌する。お前もその娘と青春を謳歌すれば良いじゃないか!」
小さな背では唐子松の肩に届かず、代わりに腕をぽんぽんと叩く闇酒。その頭を薙刀の柄で殴りつけたい衝動に駆られたが、唐子松は必死に自制した。
彼は先を見据えている。だが、その楽しみを少し引き延ばして、唐子松を待っていてくれたのだ。そこには感謝しなければならない。
唐子松は薙刀を持ち直すと、闇酒の前で膝を折った。それでやっと、互いの視線が同じ高さになる。
「先代、これまで世話になった」
「よせやい。湿っぽいのは嫌いだって言ってんじゃねぇか」
そう言って、今度こそ唐子松の肩を叩く闇酒。
「ま、俺はお前の事を忘れるが、お前は俺の事を覚えている。その内どっかで会ったら、また一杯やろうや」
「……どこかに、行くのか?」
闇酒は内裏雛の器を使っている。そして、あの家には今、ひな飾りが置かれている。彼としてもこの家に執着はないのだろうが、内裏雛がいなくなれば、さすがに騒ぎになるだろう。
唐子松の危惧している所を察したのか、闇酒は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「良いんだ良いんだ。ここの奴ら昔からあるものを全然大事に扱わないからなぁ。内裏雛一つなくなったくらいでどうとも思わないだろうよ。下手すっと気付かねえぞあれは。ガキが女子だって理由で、やっと出してきたくらいだからな」
闇酒の言い分が分かる唐子松は、何も言えない。あの日の苦い思い出に苦笑するだけだ。
「お前さんが連れてきた物の怪、いるだろ? どっちかに俺を物の怪の里だか会合だかに連れてって欲しいって頼んで貰えんかね? いや、お前について帰っても良いんだがな。その代り、お前さんの主を俺の魅力で虜にしても文句は」
「雷鬼に頼んでやるから付いて来るな」
懐かしき思い出はどこへやら。唐子松は闇酒の言葉を一瞬で切り捨てた。
「そうそう。そうでないとな」
否定されたと言うのに、闇酒は笑っている。
「にしてもあの堅物に色恋沙汰かぁ。長く生きてみるもんだな。ま、明日には忘れてるが」
「そっ、咲とはそういうんじゃねぇ!」
「ほー。真っ赤だぞ唐子松」
「当たり前だ! 怒っとるんだ!」
再び薙刀を振り回すと、闇酒は笑いながら唐子松の攻撃を軽やかに避け、蔵の外へ飛び出して行った。一人残された唐子松は乱れた呼吸を整えると、地面に落ちてしまった布袋を取り上げ、薙刀を仕舞う。
頬は薄らと紅に染まっていた。
「おっし、これで良し。んじゃ、さっさかトンズラしますかね」
闇酒は元のように錠をかけると、唐子松たちの許へやってきた。
「本当に良いのか? 唐子松と共に行かなくとも」
「良いのだ。記憶が抜けても性格は早々変わらん。こんな大酒のみの酔っ払い、咲の傍に寄せる訳にいかん」
闇酒を指差して問い掛けてきた雷鬼に、唐子松は非情とも取れる台詞を吐く。それでも、闇酒は気にも留めず笑っている。
「そうそう。それに俺としては、物の怪界の情報が欲しいんでね。毎日同じ場所から動かん唐子松の傍にいる訳にゃーいかんのよ」
「悪かったな。だが――」
唐子松の言葉は、塀の向こうから聞こえてくる自動車の音で途切れた。四人は顔を見合わせ、雷鬼は素早く闇酒を抱え上げ、唐子松は鏡龍に飛び乗り、一斉に空へと飛び立つ。
誰も居なかった家に、ぽつぽつと明かりが灯り始める。それに続いて、賑やかな声。懐かしく、だが決して良い思い出はないその声に、唐子松は苦い表情を浮かべた。
「恨んでやるなよ。そういう運命だったのさ」
「……ああ。分かっている」
闇酒の声に、顔を上げる。辛い記憶を全て振り払い、帰りの方角へと目を向ける。
「じゃあな、唐子松。今度こそ、その薙刀大事にしろよ」
「ああ、先代も達者で。……出来れば二度と会いたくない」
「んなっ! お前さすがにそれは酷いぞ!」
雷鬼の腕の中でバタバタと暴れる闇酒に、唐子松は笑みを零した。
「冗談だ。せいぜい酒に呑まれて怨霊化しない事を願うよ。俺も薙刀も疼いてしまうでな」
「……斬りたくてしょうがないって顔ですよ唐子松さーん……」
今度は助けを求めるように雷鬼にしがみついている。黙ってされるがままになっている鬼妖怪は、視線だけで『何とかしろ』と訴えていた。
「んじゃ、雷鬼。子守を頼む」
「……このツケは大きいぞ」
「そうそう。上等の酒が十樽あっても足りんなぁ」
「お前に対するツケなんか払うか! こっちが払って欲しいくらいだぞ!」
「唐子松殿。あまり怒鳴られるのは……」
「そうそう。鏡龍の言う通りだぞー。もう下には住人が戻ってるからなー」
「次に会ったら絶対に斬ってやる……」
「それは怖い。俺も精々腕を磨いておくかね」
飄々とした様子で笑うと、闇酒は雷鬼に向かって「さ、行くかね」と促した。
「良いんだな?」
「ああ、構わない」
これが最後の機会だ。話したい事は全て話すべきなのかもしれない。だが、いざとなると話すべき事が見つからない。それならば、常に先に楽しみを見据えている先代を見習おうと、唐子松は思った。
先代に会える事は二度とない。だが、先代から魂を引き継いだ闇酒には、これから先、また会う事があるかもしれない。
その日を楽しみに。
電流を迸らせ、雷鬼がふわりと鏡龍たちから離れて行く。その腕の中で、闇酒は唐子松に向けて手を振っている。
「達者でな、唐子松!」
「ああ、せんだ……闇酒、お前もな!」
唐子松も薙刀を持つ手を振る。両者の距離は瞬く間に広がり、雷鬼の放つ電流すら殆ど見えなくなった頃、遠くから声が聞こえてきた。
「新しい娘と幸せになぁー!」
「お前次会った時覚えていろ!!」
唐子松が怒鳴り声を上げると、闇の向こうから「そりゃちと無理な話だ~」という声が返ってきた。
分かってはいるが、叫ばずにはいられなかったのだから仕方ない。唐子松は大きく肩を落として息を吐くと、鏡龍の体をそっと叩いた。
「待たせてすまなんだ。……行こうか」
「唐子松殿も、難儀ですな」
鏡龍の労わりの言葉が、唐子松の身に酷く染みた。
本当は、もっと色々危惧していた。
誰か家人に見つかって、捕まるだけならまだしもその場で焼かれるとか。また見知らぬ地へ捨てられるとか。大騒ぎになるとか。そうなれば、被害は唐子松だけでは済まされない。それをきっかけに、己が変質してしまう可能性もある。
咲には話さなかったが、今回の事は唐子松にとってかなり危険な賭けだったのだ。
だが、闇酒の出現で事態は変わった。勿論、鏡龍や雷鬼の協力も大きな力となっていたが、闇酒の存在が一番大きかったのは言うまでもない。
布に包まれた薙刀を握り締める。感触を確かめるように。存在を確かめるように。
「良き友だったのですね、唐子松殿」
「ああ。良い奴だったよ。……色々問題も多かったがな」
ゆっくりと空が白んでいく。その中を、周りに溶け込んだ二人の物の怪が滑るように飛んでいく。
咲のいる場所に、今の唐子松の家に向かって。
「……うん?」
目的地が近付くにつれ、唐子松は首を捻った。
咲の部屋の雨戸が、半分開いている。
もう目を覚ましたのか。それとも、最初からそうしていたのか。
「咲のやつ、心配性な所があるからなぁ……」
ぼやいてみるが、彼女が心を痛めている対象を考えると、小言も言えない。
カツッと音を立て、鏡龍がベランダの柵に降り立つ。ふわりとその背から降りた唐子松は、音もなくベランダに降り立つと、恐る恐る窓から中を覗き込み……。
「咲?」
あまりの驚きに勢いで窓を開け(鍵はかかっていなかった)、中へ飛び込んだ。
「いちまつ……さん?」
寝台の上で膝を抱え、ぼんやりとした様子で目を擦りながら、咲は唐子松を見上げた。
「ちゃんと寝たのか?」
持っていた薙刀を壁に預けると、寝台に膝を載せて少女の体を抱き寄せる。
「うん……寝たんだけど、あんまり眠れなっくて……」
よほど眠いのだろう。咲は無抵抗に唐子松の腕の中に収まり、振袖の裾を掴みながら、消え入りそうな声で呟く。
たった一晩。それなのに、こんなに心配してくれたのか。彼女の事だ。唐子松が話さずとも、口調や態度から、今回の外出が危険な事くらい見抜いていただろう。
嬉しさと申し訳なさで、表情が歪む。
「咲……すまない。今からでも、ちゃんと眠れ。もう幾らでも傍にいてやれるから」
「うん……今日ガッコお休みだから……大丈夫よ……」
これは殆ど寝ているな。
唐子松は苦笑を浮かべ、彼女を寝台に寝かせると、毛布を掛けてやった。窓に戻り、鏡龍に礼を言って戸締りを済ませると、薙刀を部屋の隅に置き直し、寝台の縁に座る。
「市松さん……何持って帰って来たの……?」
「目が覚めたら見せてやるから」
そう言って、唐子松は咲の頭を撫でた。少女は安心したように笑みを浮かべ、やがて小さな寝息を立て始める。
ここが新しい居場所。唐子松は改めてそれを認識した。
咲の笑顔に、無事に戻って来られた事の安堵が重なる。唐子松は無意識の内に笑みを浮かべ、少女の寝顔を眺める。
――新しい娘と幸せになぁ!
「ばっ……!」
唐突に思考の中によみがえった闇酒の声に、危うく怒鳴り声を上げそうになったのを何とか堪える。両手で口を塞いだまま咲を見遣ると、規則正しく肩を上下させながら眠っている。起こしてはいないようだ。
違うと言っとるだろうが!
一人弁解の言葉を心の中で呟きながらも、唐子松の顔は耳まで真っ赤に染まっていた。
終。
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