家庭科室から飛び出した私たちは、先輩を残して(鍵かけてから追うって、さすが中途半端生真面目)廊下を駆けだした。廊下は走っちゃいけないけど、今は非常事態という事で、校則は無視!

 桃色の風は滑るように廊下を突き進み、階段で見事にかくっと曲がって上がっていく。その後をバタバタと私たち。

 ……よく考えたら、あの移動速度は人間じゃあり得ない。つまり私たちは確実に危険なものを追っている事になる。お化けって追いついたら危険なイメージしかないんだけど、アレはどうなんだろう?

 曲がり角を曲がるたびに風も曲がる。ギリギリの追跡劇を経て、私たちは荒い息をつきながら歩を止めた。

 目の前は、女子トイレだ。

「トイレの花子さん的な?」

 呼吸を整える私の横で、あかねが喘ぎながら言う。

「お化けなら先輩の得意分野だよ、ね?」

 友香も喘ぎながら言う。そんな私たちの後ろで、先輩が冷ややかな声で言った。

「場所をよく見ろ。俺は女子トイレに入るつもりはない。お前らが見て来い」

 とんだ無茶振りをされた気がする。ホントにお化けだったら、しかも誰かに取り付いたりしたらどうするつもりだこの部長!

 でもここで『先輩も怖いものがあるんですね~』とか冗談交じりに言ったら、〈ドS王子〉が目覚めそうだから止めておいた方が良さそう。しかしだからと言って、相手がお化けだった場合、何の手立ても策もない私たちはどうすれば良いの?

「安心しろ。邪気は感じない」

 はい。全然安心出来ません。

 先輩は腕を組んで私たちを見つめている。目力が『お前ら、早く行って来い』と言っている。

 あかねがトイレの扉を開ける。友香が私の腕にしがみついてくる。おずおずと、中を覗き込む私。入るのを躊躇ってしまう。

「早くしろ」

「うわっ!」

 先輩に背中を押されて、私たちは強制的にトイレに入室。暫くこの恨みは忘れまい。

 ……じゃなくて。

 トイレの中は、しんとしていた。扉は全部内側に開いているから、誰もいないんだろう。

 少なくとも、人間は。

「花子さんなら、一番奥の個室だよね~?」

 冗談交じりの友香。でもその声が震えている。多分、トイレの中が寒いせいだけじゃない。

「私たちが王子といる時間を邪魔するとは、良い度胸じゃないの」

「ホントだよ~」

 あかねと友香の不平不満は、相手がお化けかもしれない恐怖を若干上回っている気もする。けどまぁ良いか。この二人が平常運転でいてくれると、私も助かる。

 私たちはおっかなびっくり個室を見ていって、一番奥の個室の手前で止まった。

「もう、消えちゃってるかな?」

 私は希望を込めて呟く。トイレまで逃げ込んで、後はどっかの壁とかをすり抜けて消えちゃったとか。それなら、先輩の所に戻って『いませんでした』の報告だけでいい。これ以上怖い思いをする必要もない。

 でも……。

「何か用?」

 最奥の個室から挑戦的な声がして、私の希望は打ち砕かれた。

 というか。

「「「きゃーーーーっ!!」」」

 三人分の絶叫が、トイレの中に響き渡る。すると、耳を塞ぎながら物凄く不快そうな表情を浮かべ、小さな女の子が個室から出てきた。

「うっさいわね。もうちょっと静かに出来ないの?」

 小学生……いや、幼児と言って差し支えない小さな女の子。髪が桃色でセミロング。ぷっくりした頬と大きな瞳が愛らしさを醸し出しているけど、嫌悪感丸出しの表情は大人の女性顔負けだ。何というか、見た目と中身の年齢がちぐはぐな印象を受ける。着てるのは袖のない白いワンピース一枚。しかも裸足。寒くないのかな……?  と、女の子を冷静に観察していた私は、我に返った。

 この子、お化けじゃなかったっけ?

「きみ、名前は? 何でこんな所にいるの?」

「人にものを問う時はまず自分たちから名乗んなさいよ」

 あかねの言葉に、すかさずと言った感じで女の子が凄む。身長的に私たちが見下ろす立場のはずなのに、どうしてか女の子の方が大きく感じてしまうのは、彼女から発されるオーラ的な何かのせいなんだろう。

「私、深山あかね」

「笛吹友香だよー」

「藤崎咲、です……」

 反射的に名乗る私たち。だけど、直後に私は後悔する。

「ふじさきさき? 変な名前」

 案の定、一番嫌な反応をされる。

 どうしてこの名前を選んだのって、両親を問いただしたくて仕方がない時期を、随分と長い間過ごしてきた。名前が嫌いな訳じゃない。けどこの組み合わせはどうしたって弄られる対象になってしまう。私はそういう時上手い返しを見つけられないから、結果として嫌な思いをする羽目になる。

 だけど。

「こら。人の名前をからかっちゃダメでしょ」

「さきにはいい子だよ~。名前で判断しちゃいけないなぁ」

 あかねと友香に出会ってから、少しだけ楽になった。

 二人は優しい言葉で、私を包んでくれるから。

 彼女たちとは、一年の頃から同じクラスだ。皆の前で自己紹介をした時、やっぱり周りがちょっとざわついて、でもそんな中、二人は声を上げてくれた。

 今みたいに。

 おかげで、私は今までで一番、落ち着いた学校生活を送れている。二人には(ちょっと方向性がおかしい事もあるけど)、感謝しても足りないくらいだ。

 まぁ、まさかお化け相手に同じ事してくれると思わなかったけど。……そういえば二人とも、普通に会話が出来るからって、相手はお化けなんだって事、忘れてないだろうか?

「そもそも、きみは王子の作ったお菓子勝手に食べちゃダメでしょ」

「そうそう。盗らなくてもちゃんとお願いすれば王子はおすそわけしてくれるんだよ~」

 説教された女の子が、『むむ』と唸る。だけど、上目遣いの瞳に反省の色は見られない。

「あたしが食べたって証拠が、どこにあるのよ?」

 最早開き直ってる。二人のおかげで調子が戻って来た私は、お返しとばかり、女の子の頬を示した。

「ほっぺ。チョコついてるよ」

 言われた途端、がばりと腕を頬に擦り付ける女の子。

 ホントはついてないんだけどね。

「さきに、やるね」

 あかねがにやりと私を見る。友香も頷いている。それで嵌められた事に気付いた女の子は、顔を真っ赤に染めた。

 今更だけど、二人が私を呼ぶ時に使う〈さきに〉ってあだ名の由来は、苗字の『崎』と名前の『咲』。二つの『さき』で、〈さきに〉になっている。嫌味じゃなくこういうあだ名をつけてくれる二人は、私にとって貴重で、大事な友達だ。

「おい」

 何となく和んだ雰囲気になった所で、後ろからブリザード。

 慧羽月先輩が、開いた扉の向こうで腕組みをして仁王立ちしている(あんなに迫力のある高校三年生も、そういないわよね……)。

「そいつをこっちに連れて来い」

 あくまでも、女子トイレには入りたくないという固い意志が伝わってくる台詞だ。

 私たちは顔を見合わせて、女の子を見下ろす。

「な、何よ?」

 たじろぐ女の子。私たちは、視線だけで頷き合う。

「王子が呼んでるよ?」

「行かないと、祓われちゃうよ」

「う……」

 女の子は、冷や汗を流しながら(お化けなのに……)、大人しく私たちに従った。というか、二人は相手がお化けだってこと、ちゃんと覚えてたのね。

 やっぱ大物だわ……。



 場所は戻って、家庭科室。

 何故なら、よく見れば透けた体を持っている女の子と廊下で話せる状態じゃなかったから。

 場所を移動すると聞くや、女の子はまた全速力で逃げようとしたんだけど、先輩が問答無用で投げたお札っぽい紙が小さな背中に貼り付いてからは、完全無抵抗。先輩の小脇に抱えられてここまで戻って来た。

 今更ながら、先輩が神社の息子である事を実感する。しかし、お化けを小脇に抱えて平然と廊下を歩ける人は、早々いないと思う。というか、どうして触れるの? 先輩だから? いやむしろ途中で誰かとすれ違わなくて幸いだった。この子はどういう訳か私たちにも見えるから、もし第三者と出会ってしまっていたら、先輩は新たなる称号〈ロリコン王子〉を獲得してしまう所だった。そんな場所に居合わせた私たちにも騒ぎが飛び火しかねない。いや、ホント良かった。

「……藤崎。お前何か物凄く失礼な事を考えていないか?」

「えっ? 嫌ですよそんな訳ないじゃないですかぁ」

 あははは、と乾いた笑みを浮かべ、私はすすすと先輩から距離を取った。だって目力が数割増しで怖いんだもの。先輩はその後も数秒間私に疑わしげな視線を送った後(だから怖いんだってば!)、そのままの目力で女の子を見た。

 こんな小さな子だから、先輩の目力で泣いちゃうんじゃないかと思ったけど。小さな頬を膨らませているだけで、全然怯える様子がない。ちなみに、今は家庭科室にある丸椅子に座っている。両手を椅子に押し付けて座る姿は、見ていて微笑ましい。これで体がちょっとでも透けていなければ、どこにでもいるこまっしゃくれた女の子(髪がピンク色でちょっと染めるには早すぎでしょって感じ)で済むんだけど……。

 やっぱりお化けなのかぁ。見た目は可愛い女の子なんだけどなぁ。

「名は?」

「…………もも」

 先輩の切れ味の良さそうな声にも、女の子、もとい、ももちゃん(見た目だけでちゃん付けしてるけど、不味いかな?)は臆する事なく、むしろめんどくさそうに答える。

「何者だ?」

「…………」

 黙秘権を行使するももちゃんだけど、先輩がどこからともなくピッ! と取り出したお札を見て(今更だけど、先輩いつもお札持ってるのかな?)、仕方なさそうに口を開いた。

「元々は地縛霊。土地に縛られてたけど、ガッコが建ってからは、建物に憑いてやってるわ」

 「今じゃガッコの悪い奴ら退治してやってるのよ?」と、いかにも感謝して欲しいわねオーラを出しながら、片手で颯爽と髪を掻き揚げるももちゃん。ついでとばかり「私を見て怯えるヤツがいないように、こんなに可愛らしいカッコまでしてあげて」と付け加える。

 言いたい事は分かるけど、あなた今お菓子泥棒の現行犯で逮捕されて事情聴取の真っ最中だから。その開き直りようは、身勝手な理由で万引きをした人間と大差ないから。

「怨霊ではないと言いたいのは分かった。だがそれは俺の料理を盗み食いした理由にはならん」

 案の定、先輩が絶対零度視線攻撃を繰り出す。先輩相手だと、ちょっと臆するももちゃん。やっぱり怖いのか。それでも、言い訳がましく言い放つ。

「だから! それは! 悪い奴らを退治してたら、お腹減っちゃって……」

 勢いがあるのは最初だけ。後は尻すぼみ的に声が消えて行く。

 先輩の目力、恐るべし。

「それならそうと、早く言えば良い」

「へ?」

「きちんと手順を踏んでいれば、俺だって出し惜しみはしない。好きなだけ食えばいい」

「ええ?」

 視線だけで人を殺せそうな勢いの目力でそんな事言われたら、誰だって戸惑うわよね。あ、でもももちゃんお化けだからすでに死んでるのか。この場合は目力だけで祓われる、かな?

 でも、先輩の言葉に驚いたのはももちゃんだけではない。

「良いんですか? 王子~」

 あかねや友香も驚いている。勿論、私もだ。別に自分の取り分が減るとかそんなさもしい理由ではなく、まだまだ正体不明の幽霊に餌付けなんてして大丈夫なのかって話。

 そもそも、お菓子食べれるのかって話だし。(今更だけど)

 先輩は周りの反応を気にする事なく、ガトーショコラが二切れ載った大皿をももちゃんの前に差し出した。ももちゃんの大きな瞳が、キラキラと輝く。けど、小さな手がケーキを掴もうとした所で、ぴしゃりと先輩の手に叩かれた。

 幽霊って、叩けるんだ……これも先輩だからかな?

「ただし」

 ちょっと赤くなった手を痛そうに擦るももちゃんに、先輩は容赦なく冷たい言葉を浴びせかける。

「俺の出す条件を全て飲むと約束するなら、だ」

「条件って、何よぅ」

 涙目のももちゃん。やっぱり先輩は怖いか。そこだけは、私と気が合いそうだ。

「一つ、この学校を出入りする者に危害を加えない事」

「それは今までもちゃんと守ってるわよ!」

 恨みがましそうなももちゃんの叫びを、先輩はあっさりと無視。言葉を続ける。

「一つ、つまみ食いは許さん」

「…………はい」

 今度は、あっさりと頭を垂れる。良い事と悪い事の区別はちゃんとつく幽霊なのね。(先輩が怖いだけかも知れないけど)

「一つ」

「まだあるのぉ?」

 不満げな声で顔を上げたももちゃんは、先輩にじろりと睨み付けられて沈黙。

「二度と、藤崎の名をからかうな」

「え……」

 この唖然とした声は、私だ。だって先輩がいきなりそんな事言い出すとは思わなかったから。

 確かに、先輩は私が自己紹介をした時も、表情一つ変えなかった。普通に応対されただけだ。大抵は怪訝な顔されたり訊き返したりするもんだけど、先輩にはそれがなかったのよね。

 あかねや友香みたいに。

 でもそれは、ただ単に先輩は料理しか目に入ってなくて、私の事なんか気にもかけていない所から来る対応だと思ってた。何てったって、この人は〈冷血王子〉だから。

 なのに、一部員(無理矢理の入部だけど)でしかない私の事を気に掛けてくれるとは。初めて先輩は血の通った人間だと思う事が出来た気がする。(あれ。私結構失礼な事言ってる?)。

 ももちゃんも、先輩の言葉にはびっくりしたみたいだ。でもそのほっぺが、相手をからかいたくて仕方ないと言う風に歪んでいる。

「なによ。妙に入れ込んでるじゃない。好いてるの?」

「何ですって!?」

「王子、それならそうと早く言ってくれれば良かったのに~」

 この反応は、あかねと友香だ。でもなんか違和感。二人は先輩が好きなんじゃないの? 私は全然全くこれっぽっちも先輩の事好きじゃないから、ここでそんな事カミングアウトされても困るんですけど。

 先輩も同じ考えだったのか、目力が強まっている。おかげで、ももちゃんがびくびくっと体を痙攣させた。

「違う。お前が原因で藤崎が部活に寄りつかなくなると困る。そいつは大事なお目付け役なんでな」

「え……」

 この声は、勿論私だ。この一声の中に、唖然と安堵と驚愕と……何より、『あんたどこまで私を利用すれば気が済むのよ! ちょっと尊敬しかけた私を返せ!!』という叫びが込められている。

 ああもう! ちょっと見直した私が馬鹿だった!

 心の中で叫びまくっていた私は、ももちゃんがこっちを見ている事に気付くのにちょっと遅れた。

「アンタも大変ねぇ」

 外見年齢に全く不釣り合いな笑みで、肩を竦める。

 うぅ。お化けに同情された……。

「で? お前はこの条件を呑むのか? 呑まないのか?」

「良いわ、呑んであげる」

 にっこりと微笑む。えーと、ここでその笑顔は適当なのかな……?

「ついでに言っておくが、お前がどんな種類の霊であるか、後日じっくりと調べさせてもらうからそのつもりでいろ」

 びくっと、ももちゃんの頬が引き攣る。先輩、抜け目がない……。

「いっ、良いわよ。別に後ろめたい事何にもしてないし? むしろ良い事いっぱいしてるんだし? ホントなら感謝して土下座でもして欲しいくらいだけど、私のぐるめなお腹を満たしてくれた返礼としてチャラにしてあげるわ」

 ももちゃん、きっと結構昔からいるお化けなんだろうな。所々言葉遣いがおかしい。

「まだ言ってやりたい事が山程あるが……そろそろ下校時刻になる。今回はこれぐらいで許してやるか」

 時計を見上げた先輩は、軽く溜息をついて大皿をももちゃんに差し出す。更に小皿からも一つ取った。

「この皿に載っている分は食っても良い。だが残りはそっちの三人に持って帰らせるから手を出すな。良いな?」

 先輩、自分の分までももちゃんにあげるのか。全く、優しいんだか何なんだか良く分からない人だ。でもそんな気遣いに気付くはずもなく、ももちゃんは目の前のケーキに瞳を輝かせている。先輩の言葉にがくがくと頷く辺り、もうこれは完全に飼い慣らされていると言って良いんじゃなかろうか。

「そう言えば、どうやって食べてるの?」

 あかねの疑問は尤もだ。お化けって、実体ないわよね? ももちゃんは答えるより前にガトーショコラを掴んで、口に運んだ。もぐもぐと美味しそうに食べるももちゃん。体が不自然に透けている割に、チョコ色の何かが体の中を通っていく様子は見られない。どんな構造なんだろう?

「学校に憑いていると言っていたからな。そこから器を引いているんだろう。ただ、『食べる』と言っても、俺達が食うのとは違うメカニズムで料理を処理しているんだろうな」

 ももちゃんをじっと観察していた先輩が、冷静に判断を下す。段々、この人が本当は何であったか分からなくなってきた……。

 ちなみに、先輩が言っている事は私たちには三割以下くらいしか理解出来ていない。

「はぁ~美味し~」

 ほっぺに手を当てて、うっとりとガトーショコラを食べるももちゃん。これが手づかみじゃなかったら、もうちょっと絵になる図だとは思うんだけどね。これじゃ普通にお行儀の悪い子供みたい。まぁ可愛いけどさ。可愛いってだけでお得で良いわね。

「司の作る料理は最高ね。未練が全部消えそう」

「そのまま成仏しても良いんだぞ」

「嫌よ! もっともっと美味しいお菓子くれなきゃ、成仏なんかしてあげないんだから」

 『これは私のものよ!』と言いたげに、まだケーキの残る大皿を腕で覆うももちゃん。

「毎日菓子ばかり作っている訳じゃない」

「毎日お菓子作ってよ!」

「えり好みをするな。俺の料理が食えないなら、強制的に送るぞ」

「だってお菓子の方が美味しいじゃない!」

「それ以上言うと、次回からそこの科学料理班二人組の“試作品”を食わせるぞ」

「……お菓子以外も食べます……」

 ももちゃんも、あかねと友香の料理は知ってるのね。そういえば私はつまみ食いの犯人捜しに呼ばれた訳で、って事は私が来る前からももちゃんはここを出入りしてたんだから、色々知ってて当然なのか。

 まぁとりあえず、その選択は賢明だと思うわ。(試作品が実際どんな料理なのか、私は知らないけど)

 先輩は組み立てかけの紙箱に手を伸ばすと、久しぶりに私たちの方を向いた。

「そろそろ部活終了の時間だ。お前らは持って帰れ」

 紙箱、ケーキを入れる箱だったのね。

 全く。冷たいんだか優しいんだか、分からない人だ……。



「ただいま~」

 ぐったりとした声で言いながら、部屋の扉を開け……た所で、私は硬直した。

「……何、してるの?」

「えっ? あ、お、おかえり、咲」

 市松さんが、机の向こうの出窓に片足をかけて、カーテンの隙間から外を窺っていた。載りきらなかった振袖が、床に向かって垂れている。

 勿論、この時の市松さんは人形の姿じゃなくて、人間の姿だ。うちの両親は滅多に私の部屋に入って来ないから良いようなもの、もし見つかったらどうするつもりだったんだろう……。

「咲の帰りが遅かったから、その、だな……」

 ああ、言いたい事は分かりました。でもね。

「市松さん。私その窓から見える道通って来ないから、あっちの窓見た方が良いと思う」

 そう言って、私はベランダを指差した。

 硬直する市松さん。

「そ、そうか。次からは、気を付ける」

「ううん。教えてなかったの私だし。遅くなるの連絡も出来なかったし」

 とは言え、市松さんは携帯電話なんてものを持ってないから、連絡手段は何もないんだけどね。

「いや、咲には咲の用事がある。俺が勝手に心配していただけだから、気にしないでくれ」

 照れくさそうに頬を掻く。こういう時の市松さんは、可愛い。それに、優しい。どっかの〈冷血王子〉とは大違いだ。

「……咲? 何か、遭ったか?」

 今日一日を振り返って溜息を吐き出した私は、市松さんの声で顔を上げた。ああ、そんな捨てられそうな子犬の顔で見ないで……和んじゃうから。

 私は、勢いに任せてベッドに腰掛けると、今日あった事を市松さんに話した。

「学校は七不思議が出来るくらいお化けの話には事足りないけどさぁ。まさかうちの学校まで出ると思わなかったわよ。ホント怖かったんだから」

 唇を尖らせて言う。そんな私を、市松さんは落ち着かない様子で見つめている。

 あれ? 私なんか変な事言ったかな?

「……咲」

 恐る恐る、市松さんが呼び掛ける。

「どうかしたの?」

「咲は、霊が怖いのか?」

 そりゃ、怪談話は数多く聞けど、自分がこの目でお化けを見る日が来るとは思ってなかったから、びっくりしたし、ちょっと怖かった。

 実際、何度も叫んでるくらいだしね。

 そう言ったら、市松さんがますます複雑な表情になる。

「どしたの?」

「俺も……似たようなものだと思うんだが……咲は俺が怖くないのか?」

「…………」

 私は、冷静に市松さんの言葉について考える。そして、大事な事実に思い当たった。

 そうだ、市松さん物の怪だった。

「全然」

 私は初めて会った時から、市松さんの事を怖いと思った事がない。だからあっけらかんとして答えたら、市松さんに拍子抜けされてしまった。うーん……やっぱり私は変なのかな?

 あ、変って言えば……。

「市松さん」

「うん?」

 未だ腑に落ちなさそうだけど、市松さんは私の声に顔を上げてくれた。

 実は、私は市松さんに自分の苗字を教えた事がない。市松さんは何度か訊ねたそうなそぶりを見せた事があるけど、私は絶対に答えなかった。

 だって、もし市松さんが……。

「私の苗字ね、『藤崎』って言うの」

 突然のカミングアウトに、目を白黒させる市松さん。表情が、『言いたくなかったんじゃないのか?』と訴えてくる。

 言いたくなかったよ。市松さんにからかわれるのは、きっと辛いって思ったから。でも、あかねや友香、ついでに先輩と久しぶりに過ごして、ちょっと考えが変わったんだ。

 市松さんみたいな人(あ、物の怪か)なら、笑わないで受け止めてくれるんじゃないかって。

 まぁ、希望的観測なんだけど。

「藤崎……」

 市松さんが、私の言葉をゆっくりと繰り返す。瞼を閉じて、何かを思い描いている感じだ。物の怪だからなのかな? 人間と全く違う反応で、私の方が戸惑う。

「そうか。やっと、合点がいった」

「へ?」

 私は全然いかないよ! と心の中で文句を言ってたら、市松さんが目を開けて、私に向けてにっこり笑った。

「咲に見つかった時。あの場で逃げるっていう選択肢も、俺は選べた」

「え……」

 最初に市松さんと会った時。市松さんは草むらに捨てられていて、カラスに襲われていた。当然、人形の姿だった。何となく不憫で、カラスを追い払って、市松さんを拾った。

 その時に、市松さんは逃げる事も考えてたんだ。

「咲は長らく勘違いしていたみたいだが、俺は見ての通り、丑三つ時じゃなくとも人の姿にはなれる。だから、逃げようと思えば逃げられた。だが、咲を見たらそんな気が失せてな」

「……なんで?」

 私の口から零れる声が、掠れる。何を言われるか分からない間は、やっぱり不安だ。

「前の持ち主からは捨てられた」

 突然言われて、私はびっくりした。確かにそうかもだけど、それを口にする市松さんは、あまりにも悲しげに笑ってて、言葉が出ない。それでも、私は頷いた。市松さんが、私の反応を待っていたから。

「それも、長い距離を運ばれ、右も左も分からぬ地に、だ。その頃には俺は、もう何もかもがどうでもよくなっていて……疲れ切っててな。燃やされるなり、祓われるなり、どうとでもなれと思っていた。だがな」

 市松さんの笑顔から、悲しみが消える。それで、何となく私もほっとする。

「咲を見たら、安心してな」

「……どうして?」

「何と言うかな。長い旅路の果てに、目的地を見出したと言うか……そんな気分だったのだ。どうしてか、その時の俺には分からないでいた。いかんせん、人間なんか信用するかという考えが、一目咲を見ただけで変わったのだからな。自分でも驚いていた」

 市松さんはいつも、私の話を聞いてくれる。でも、自分の話をする事はあまりない。だから嬉しくて、私は前のめり気味になって話を聞く。

「先程、俺は咲から姓を聞いて、山の頂に咲き誇る藤の花を思い描いた。それが、俺にとっては旅の終着場所で見つけた絶景に思えたんだな。だから、咲を見た時に安心したんだ。『俺はやっと辿り着いた』とな」

 私の名前からそんなものを思い浮かべるとは……。物の怪だから苗字の解釈が違うのか、市松さんだからこそ違うのか、私には判断がつかない。でも、そんな事はどうでも良かった。

 だって。

「良い名だな、咲」

 そう言って市松さんが微笑んでくれただけで、良かったって思えるから。

「……ありがと」

 何とか口にするけど、恥ずかしくて顔が上げられない。俯くと、ベッドに置かれた紙箱が目に留まる。

「ねぇ。市松さんって、ものが食べられる?」

「へ? あぁ、人の姿の時なら食えるが……どうした? 突然」

 市松さんの言葉に、私はちょっと思案する。今まで考えた事なかったけど、市松さんにもちゃんとご飯用意すべきだったんじゃないかって。

 そう訊ねたら、市松さんはちょっと笑って首を振った。

「いや、最近は運動もしていないから、そんなに食べなくとも平気だ」

 運動……って何だろ。という思いがない訳じゃなかったんだけど、私はそれより気になる事があって口を開いた。

「ごめんね、気付いてあげられなくって……」

「いや、俺も言ってなかったし、今の生活なら必要ないとも思ったからな。咲のせいではない」

「うん……」

 市松さんはそう言ってくれるけど、私の中のもやもやは収まらない。紙箱を手に取り、蓋を開ける。

「これ、今日部活で作ったんだけど……良かったら食べて?」

 正確には、作ったの先輩だけど。

 市松さんは、興味津々な様子で箱を覗き込む。

「咲が作ったのか?」

「う、うん……手伝ったくらいだけど」

 取り出したガトーショコラを、不思議そうに眺める。そっか。市松さんには目新しいお菓子かもね。

「これ、ガトーショコラって言って、チョコのケーキなんだけど……」

 市松さんを窺う。うん、多分伝わってない。市松さんとの会話に大分慣れた私は、ちょっと考えてから言い直す。

「小麦粉の……焼き菓子なの」

「おぉ」

 良かった。伝わったみたい。

「俺が食べても良いのか?」

「うん。今度から市松さんが食べるものも、何か考えるね」

 多分部活に引っ張り回されるようになるだろうから……あまり困らずに済むかな?

「そんなに気を遣わないでくれて構わないが……ありがとうな、咲」

「う、うん……あ、フォーク取って来るね」

 市松さんはいつも正面からお礼言ってくれるから、何だか恥ずかしい。

「咲」

 部屋を出て行こうとした私は、背後から市松さんに呼び止められて振り返った。

「これ、半分こにして一緒に食べような」

「…………」

 ちょっと私の中の“恥ずかしいゲージ”が限界になった。私はこくりと頷いて、赤くなった頬を隠すように部屋を飛び出した。





 終。








「付物神と藤の花」目次へ