帰りのHRが終わって、教室内の生徒が一斉に動き出す。

 椅子がガタガタ言う音。帰りにどこ行こうかなんていう話し声。部活に行く人。残って調べものする人。ダラダラする人。色々だ。

 そんな騒がしい教室内で、私は帰り支度を終えた鞄を持って席を立……とうとした所で、後ろからブレザーの裾を引っ掴まれて強制着席。

「さきに~今日も先に帰っちゃうの~?」

 非常に紛らわしいんだけど、前者はあだ名で、後者は『自分たちより前に』という意味だ。

「付き合い悪いぞ~」

「そうだよ~。王子だってさきにの事待ってるのに~」

 背後から聞こえてくる不平不満を吹き飛ばす勢いで、私は振り返る。

「別に待たれても嬉しくないし、大体私は――」

 パァン! って凄まじい音がして、言葉の最後がかき消される。教室に残っていた人の殆どが、音にびっくりして体を縮めた。

「藤崎!」

 扉を開け放ったままのポーズで仁王立ちする男……もとい、先輩。高校指定のワイシャツとスラックスを生真面目に着こなして、その上から黒いエプロン。黒縁の眼鏡と黒髪で黒くろな印象を受けるその人は、私が座っている席を……いや、私を凝視している。

 当たり前か。私の事呼んでたもんね。

「お前、いい加減部活動に参加しろ!」

「だから! 私は帰宅部でどの部活にも参加してません!」

 中断されただろう言葉を、ありったけの思いを込めて叫ぶ。でも、先輩は全然意に介したそぶりも見せず、つかつかと教室に入って来ると私の前でぴたりと止まった。元々それなりに背の高い人だけど、私は座ってるから殊更見下ろされている感が強い。

 先輩は、私の机に片手を付くと、ずいっと顔を近付けてきた。当然、同じだけ頭を後ろに下げて避難する私。

 この人、切れ長の目な上に、結構な目力の持ち主。だから、間近で見るのはちょっと怖い。そこが良いという人もいるけど、私は嫌だ。だって怖いもん。王子って呼ばれるくらいだし、格好良いと言われるタイプなのは分かるけどね。それとこれとは別問題。

「お前な」

「な、何ですか」

「たまには」

 そこで言葉を切って、先輩は私の後ろにいる二人を指差した。指された方は完全に先輩に見惚れていて、指を差されているという事実に気付いてない。

 人気者はこれだから得よね……。

「こいつらの面倒を見ろ。手間が掛かってしょうがない」

「いや、この二人は先輩に教えて貰いたくて行ってるんだと思うんですけど?」

 両手を体の前で掲げて、愛想笑いを浮かべてみる私。だって、この後言われる言葉が目に見えている気がするんだもの。

「毎度それでは、俺が自分の料理に打ち込めない。何の為に部活に入っていると思っている」

 そうですよねぇ……。

 先輩、もとい慧羽月(えばづき)司先輩。料理部の部長で、周りからは〈料理王子〉と呼ばれている。もっとも、普段はその目力と態度の冷たさから、〈氷の王子〉とか〈氷結王子〉とか〈冷血王子〉とか酷い時は〈ドS王子〉とか呼ばれてるんだけど。

 この人の家は、神社だ。おじいさんと両親と二人のお姉さんがいるらしい。この辺りの情報は、王子のファンクラブ(という名の私の友人)が、訊いてもいないのに教えてくれたものだ。

 いずれ神社を継ぐ立場にいるこの人の趣味は料理だ。しかも、家族揃って大の料理好きらしく、家に帰ると台所はいつでも取り合い状態。誰がご飯作るかで喧嘩になるのは日常茶飯事。家では台所を占領出来ないから、学校でその憂さ晴らしをしている、らしい。この辺の情報も……以下略ね。

 で、私の後ろ(今は私が体の向きを変えたから隣)にいる友人、深山(みやま)あかねと笛吹友香(ともか)。この二人は王子目当てで料理部に所属しているんだけど、致命的に料理が出来ない。いや、正確に言うと部活動の間だけ料理が出来ない。

 家庭科の授業では普通だったはずだから、見惚れすぎているか、わざとやっているか。どっちかだと思う。

「レシピとか用意すれば良いじゃないですか」

「こいつらがそれを見ると思っているのか?」

 私の必死の抵抗は、先輩に瞬殺されてしまった。

 あーあ……。



 元々、興味本位でついて行ったのが間違いだった……と、今更後悔しても遅い。

 私は今、先輩に引きずられながら廊下を半強制的に移動中だ。

 キラキラした目で王子を見ながらついて来るあかねと友香。君たちには、その王子に奴隷の如く引きずられている友人の姿が見えないのか。

 ジトっとした目で見つめていたら、気付いた二人がにっこり笑った。

「たまにはいいでしょ~。最近さきにすぐ帰っちゃってつまんなかったし」

「たまには部活でもして一緒に青春楽しもうぜ~」

 とか言って、二人とも先輩と話す口実に私を使う気満々だろう……。

 まぁ確かに、最近は学校が終わると同時に帰ってたし、部活以外で誘われても全部断ってたから、そのツケが全部回って来たと思えば、仕方ない……のかな?

 でもなぁ……。

「んむぅ? さきに不服そうだねぇ。何か用事あった?」

「まさか、男か!?」

「そんな訳ないでしょ!」

 すかさず切り返しつつ、心の中でどきりとする。

 私が早く帰るようになったのは、通学路でとある人形を拾ってから。

 見た目は女の子の市松人形。宿っているのは男の人で、人の姿になれる物の怪の人形。便宜上呼び名がないと面倒だと思って『市松さん』と呼んでたんだけど、実はちゃんと名前を持っていた事を最近知った。そっちで呼ぼうとしたら何か微妙な反応だったので、結局『市松さん』で落ち着いている。

 市松さんと話すのは、楽しい。何というか、他愛ない話にもちゃんと乗ってくれるし、全然どうって事ないものでも褒めてくれる。凄く威厳のあるカッコいい話し方も出来るのに、時に捨てられそうな子犬みたいな感じになるのがなんか可愛い。

 相手は物の怪なんだし、考え方によってはとんでもないもの(あ、ものって言ったら失礼か)を拾ってしまった訳で、市松さんと会ってからやたらと色んな物の怪や妖怪に絡まれるようになってしまった事を考えると、とんだ疫病神を拾ってしまったとも考えられるんだけど。今の所、私自身は困った事態だと思ってない。あえて言うなら、そんな自分が困った奴なのかもしれない。

 とか考えに耽っていた私は、いつの間にか歩が止まっている事に気付かなかった。

「?」

 怪訝に思って頭を上げると、先輩が私を見下ろしている。

「何か用事があったか?」

「い、いえ、そういう訳じゃないんですけど……」

 強引に家庭科室に拉致しようとしている道中で相手の予定を気にするとか、中途半端に真面目な人って生きにくそうだな……。いっそのことド生真面目になって、帰宅部の私を速やかに帰してくれれば良いんだけど。

 でも。

「そうか。なら安心だな」

 先輩はそう言って、また私を強引に拉致った。

 あーあ……。

 帰宅部という名に恥じず、最近は授業が終わるとすぐに家へ帰っていたから、遅くなったら市松さん心配するんじゃないかな。だからと言って、そんな理由で『家に帰してくれ』なんて、口が裂けても言えない。真に受けた先輩が『祓ってやろうか?』なんて言い出したら大変だ。

 それに、信頼を損ねたくない。だって、普通は信じられないもんね、そんな話。冗談だと思って笑い飛ばして貰えれば良いけど(実際、あかねと友香はそんな反応な気もするけど)、万が一、それで信用に傷をつけるのは嫌だ。

 だって、この人たちは。

「藤崎?」

 先輩の鋭い目が射るように見下ろしていて、私は我に返った。怒っている訳じゃない。これが普通だ。

 気が付けば、家庭科室の前だった。私の体は先輩の魔の手から解放され、ちゃんと直立している。帰ろうと思えばここで踵を返せるんだけど、すかさず先輩が「さっさと入れ。部活を始めるぞ」と有無を言わせぬ勢いで言ったので、私は仕方なく教室に踏み込んだ。



 本日のメニューはガトーショコラだそうだ。先輩がすでに運び込んでおいた材料を袋から出す。

 料理部って元々この学校にはなくて、でも慧羽月先輩が毎日家庭科室を借りていたら、いつしか人が集まったり離れたりして、なし崩し的な感じで部活動として成立したらしい。だから部費が出るようになった後も、部活動で使われる材料は基本持ち込みだ。テーブルの上に、先輩セレクトの材料が並んでいく。特売品っぽいものが一つもなくて、物によっては見た事のない高級そうなメーカーのやつだったりして、やっぱ好きな人は材料からこだわるんだなって思わされる。

「藤崎」

 鋭い声に呼ばれて、私は思わずびくっとした。先輩は材料に不備がないか確かめながら喋っているので、私を見ていない。

「頼みがある」

「ここまで拉致られましたからね。二人の事は見ますよ」

 諦め半分、皮肉半分で私は言った。でも、意外な事に先輩は首を横へ振る。

「それもそうなんだが、俺が頼みたいのは別件だ」

「……なんですか?」

 怪訝な顔で訊ねるけど、先輩は相変わらず材料と睨めっこ。

「この所、菓子を作った時だけなんだが、ちょっと目を離した隙に数が減っている事が多くてな。そこの二人は食べてないと言うし、俺は作っている間は周りにまで気を配れない」

「お菓子泥棒が来ないか見張ってろって事ですか」

「そういう事だ」

 なんだかんだ言って、先輩はあかねと友香を信用しているのよね。そうじゃなきゃ、わざわざ私を呼びつけてそんな任務……実は裏付けを取らされてるんじゃないわよね? ホントに二人は食べてないのよね? 不安になった私が勢いよく二人の友人を振り返ると、彼女たちは揃って首を振った。

「食べてないよぉ」

「そんな事しなくても、王子はちゃんとおすそ分けしてくれるもん」

 そうか。なら私も二人の事を信じよう。

「ちなみにな、藤崎」

「まだ何かあるんですか?」

 私がうんざりしてぼやくと、先輩はやっとこっちを見た。でも、何か微妙な表情。何て言うのかな。後ろめたそうと言うか、後ろめたそうと言うか……って、同じだわ。

「この高校では部活動は五人かららしくてな。今日は副部長がいないが彼女を含めても四人。という訳で、お前の名前を使わせて貰っている」

 ……え?

「そういう事だから、たまには顔を出せ。お目付け役がいると俺も楽だしな」

「ちょっ! ちょい待ちですよ先輩!」

 『使わせて貰っている』って、いつから使ってんだこの部長!

 何か遭ったら絶対こいつから疑ってやる! 私は固く心に誓った。



 結論から言うと、ガトーショコラは無事に焼きに入った。よそ見していたら絶対失敗するメレンゲ作りとか主な部分を先輩が担当して、完全わき見運転(運転じゃないんだけど)状態のあかねと友香に、チョコレートを湯煎で溶かす役割をつける。私は二人がよそ見している間にチョコが大変なことにならないように見張る役。

 いつもはこういうちょっと手の込んだものを作ると家庭科室が大変なことになるらしいけど、今日は作業を分けたし監視も付けたから大丈夫。

「今日は藤崎のおかげで助かった。久しぶりにここが料理部だと実感した気がする」

 食器を洗いながら、先輩が溜息。一体何をやらかしたらそこまでの印象を先輩に与えられるの?(ちなみに私は家庭科室から派手な爆発音が響くさまをイメージしてしまった)

 自分たちに向けて盛大なる皮肉が飛ばされているのにも関わらず、あかねも友香も全然気にしてない。うっとりと先輩を眺めている。

 うーん。そんなに見てて楽しい人かな?(あ、失礼か)

「……二人とも、何で料理部入ったの?」

 試しに私が訊ねると、二人は声を揃えて言った。

「「目の保養の為さ~」」

 うーん。それって本人の前で言って良い理由なのかなぁ?

 試しに、先輩にも訊いてみる。

「先輩、何で料理部に入ったんですか?」

「入りたくて入った訳ではなく、気付いたら勝手に部活動になっていたんだ」

 嘘つけ! 部活動として成立させる為に私の名前使ったって言ってたじゃないか!

 私が心の中で叫んでいると、片付けを終えて盛り付け用のお皿を準備し始めた先輩が、逆に訊いて来た。

「お前は何故来た?」

 あんたが無理矢理入部させたから! と言ってやりたかったけど、生憎先輩は『何故入部した?』じゃなくて『どうして来た?』と嫌らしい質問の仕方をしてきたので、私は仕方なく真面目に答えた。

「あかねと友香に誘われたからですよ」

 言いながら、当時の事を思い出す。

 多分、私が二人に誘われて料理部に見学に来た時、ここは正確には料理部じゃなかったのかなと思う。家庭科室に人は結構いたけど、殆ど……いや、全員女子で、その女子は例外なく先輩が料理しているのをただ見ているだけだった。料理部と言うより、お料理教室に見学に来た主婦の群れって感じ。

 その群れは、二人に連れられて見学に来るたび、違った様相を見せた。顔ぶれは勿論、態度とか意欲とか、そういうの。でも相変わらず、料理しているのは先輩だけだった。

「……他の人は料理しないの?」

 私はこっそり、あかねや友香に訊ねた。そしたら、それを聞きつけたらしい慧羽月先輩が鋭い声で言った。

「俺は見世物じゃない。見ているだけなら出て行け!」

 その怒号には有無を言わさぬ響きがあって、殆どの女子が反論する余裕もなく回れ右をして、慌てた様子で教室を出て行った。でも、あかねや友香は出て行かなかった。なし崩し的に、私もその場に残った。そうしたら、先輩が料理の手を止めて、私たちを振り返った。

 元々切れ長で目力があって、見られただけでもびくっとさせるものを持っている先輩が、怒った様子で振り返ったもんだから私はビビりまくった。二人の袖を引いて小さな声で「帰った方が良いんじゃない……?」って訊いたんだけど、二人は笑顔で首を振った。

「先輩、私たちも何か作って良いですか?」

 あかねが訊くと、友香も言った。

「先輩いつも違う料理作ってますよね。どれくらいレパートリーあるんですか?」

 二人の言葉で、先輩の目力が緩んだのを、私は見た。その時私は思ったんだ。

 やっぱりこの二人には敵わない、って……。

「……お前は考え事をするのが趣味なのか?」

「え?」

 現実と回想がごちゃ混ぜになる程、私は考えに耽っていたらしい。いや、現実が回想と同じ光景だからよく分かんなくなってたのかも。呆れた視線を送って来る先輩の声で我に返ると、チョコレートの濃厚な香りが鼻をくすぐった。

 ガトーショコラが焼き上がったんだ。

「さきにも遂に王子を眺める良さに気付いたか~」

「やっと私たちの仲間入りだね~」

 あかねと友香に突かれる。いや、そんなんじゃないから。

「……お前までそちら側に行くと、俺は非常に困るんだが」

 先輩は珍しく非常に苦い表情で私を見ている。

「違いますから。ちょっと色々思い出してただけですから」

 刺々しい声で答えたら、背後から二人の友人に「さきに、若年寄~」と言われてしまった。うーん、それはそれで嫌だ……。

 粉糖をふられたガトーショコラが、きっちり等分に切り分けられている。八等分かな? そこから四つを小皿に取り分けた先輩は、何かを取りにケーキの傍を離れた。先輩の背中を目で追っていた私は、視界の端で何かが動いた気がして、顔を戻した。

「…………うん?」

 確か、ケーキは八つに分けられていた。で、小皿に分けられたのが四つ。当然、残りも四つになって、大皿の中の半分がチョコレート色に染まっている、はず。

 でも、何か違う。半分じゃない。上の方がちょっと欠けて、お皿が見える。いやそんなまどろっこしい思考を回している場合じゃない。私はもう一度お皿に残っているガトーショコラと、小皿のガトーショコラの総数を数えた。数えながら、あかねと友香の現在地を思考内で確認。二人とも、私の後ろだ。手が伸びない限り、ケーキに届かない。

 でも、ケーキの数は七個。一個足りない……。

「せ、せせせせせ先輩!」

 思わず上げた素っ頓狂な声で、全員にドン引きされる私。しかし、それを悲しんでいる暇がない。

「ケーキ一個減ってます!」

 先輩がガトーショコラの傍を離れてから、私たちは誰もそのテーブルに近付いていない。なのに、ケーキが減っている。私たちから見えないテーブルの向こう側に誰かが潜んでいるか、怪奇現象かどちらかだ。

「そこの二人は?」

 折りたたみ式の紙箱を組み立てながら、先輩の視線があかねと友香を見遣る。私も振り返る。当然ながら、二人は全力で首を振っている。私もその意見には賛成だ。

「二人じゃないです。というか、今誰もケーキの傍に近付いてないです」

「そうか。となると……」

 先輩は妙に冷静に、テーブルを回りこんだ。黙ってその下を覗き込んでいる。「どうですかぁ?」とおっかなびっくり訊ねるあかねと友香に、首を振ってみせた。

「侵入者でもないらしいな。……だが」

 先輩は家庭科室の扉を見た。隙間が空いている。入室した時に閉めたはずなのに。

「侵入者らしいな」

 先輩、先に言った事と矛盾しています。とか心の中でツッコミを入れている間に、私は見てしまった。

 テーブルからにゅっと突き出した小さな手。それが、パタパタと机の上を探って、ケーキを一つ掴む。そして、さっと消えるのを……。

「きゃー!!」

 私の叫び声に、またも周りがドン引き。でも今回はあかねと友香だけだった。

「藤崎、お前にも見えたか?」

 先輩が唯一冷静さを失わずに訊ねてくれるけど、私が冷静でいられない。だって今の手、小さくて子供っぽかった。うちのガッコ高校だよ? あんな小さな手の持ち主がいる訳がない。

 ……って、あれ? 今先輩何て言った?

「先輩も、見たんですか?」

 両頬に手を当てて(きっと今の私の顔には青い縦線が入っているに違いない)、先輩を見る。先輩はガトーショコラが二切れ残った大皿と、四つがそれぞれに乗る小皿を見て、それからさっきより大きく開いた(何時の間に!)教室の扉を見て、最後に私を見て、それからやっと口を開いた。

「藤崎。お前霊感は?」

「ある訳ないでしょう!」

 凄まじい勢いで反論したけど、先輩はほぼ無反応。顎にそっと手を添えるポーズで、何やら考え込んでいる。

「絵になるわぁ」

「やっぱ良いよねぇ」

 こんな異常事態の中でも、あかねと友香は平常運転。

 ……うん。二人を見てたら私も落ち着いてきた。

「お前らは?」

 先輩は二人にあの手を見たか訊ねたけど、無駄だと思う。案の定二人は首を横へ振った。

 二人は、先輩しか目に入ってない。

「となると、実体か……」

 恐ろしい台詞をさらりと言ってのける。それ、どういう意味ですか。

「生憎、俺は生身と幽体の区別がつかなくてな。だからお前たちにも見えたか聞いたんだが。とは言え、俺の傍にいると”視える”ようになる奴もいるから、今は何とも言えない」

 恐ろしい台詞をさらりと言ってのける先輩。教室の温度が急激に下がったようにさえ感じられる。季節外れの怪談を聞かされてるみたいで、寒いったらありゃしない。

「とりあえず、犯人探しとしゃれ込むとするか」

「え?」

「貴重品は持って歩け。後――」

 先輩は最後まで言う事が出来なかった。

 何故なら、三度テーブルの下から手が伸びて、ガトーショコラを掴んだからだ。

 桃色の風が、開けられた扉をするりと抜けて飛び出していく。

「追うぞ!」

 先輩の掛け声と共に、料理部部員は犯人の追跡を開始した。

 って、勢いで動いちゃったけど大丈夫だろうか……。





5-2.料理王子と桃色少女 下に続く


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