大分寒さが和らいだ休日。私は、散歩がてら近所を歩いていた。普段は人の姿をあまり見かけないんだけど、今日は進むうちに前方から声が聞こえてきた。

「おにはーそとーふくはーうちー」

 そう言えば、もうすぐ節分だっけ。昔は豆をまいてた気もするけど、最近は恵方巻き食べるのすら忘れる年がある。だからすっかり忘れてた。

 子供の声だし、この先公園(といっても錆びた遊具がいくつかあるだけの広場)があるから、そこで豆をまいているのかも知れない。けど、豆まきって普通家でやらないかな? 自治会が何か行事としてやってるのかな?

「おにはーそとーふくはーうちー」

 無邪気な子供たちの声に混ざって「いたたたた!」という男の人の声が聞こえてくる。きっと鬼役の人ね。公園はそんなに広くないから、豆まいたら容赦なく当たるだろうし、子供って手加減を知らないから、やっぱり容赦なく痛いんだろうな。でも、外で豆まいたら食べられないわよね……。なんて考えているうちに、私は問題の公園へと辿り着いた。

 公園は、通りから見下ろす位置にある。この辺りは山を切り崩して作られた土地だから、建物が段々畑みたいに置かれてるのよね。この公園も、通りから坂を下りて入る作り。そこで数人の子供が、男の人に向けて楽しげに豆を投げつけていた。

 よく見ると、豆は袋に入っている。成程。あれなら後から拾って食べられるわね。

「まてー」

「おにはーそとー」

「いたいいたいいたい!」

 何となくその光景を見下ろしていた私は、ある事に気付いた。

 大人が一人しかいない。つまり、豆をぶつけられている人しかいない。行事としてやってるなら、これはちょっと変だ。いや、早めに到着した子供たちが早めに到着した大人に向けて豆を投げてるってなら説明も付くけど。それにしては他にも謎な点がある。

 男の人は、別に鬼のお面を付けている訳じゃなかった。長くて真っ直ぐな綺麗な金髪に、白いシャツと灰色のズボン。細身で若そうな男の人。容赦ない子供たちからの豆攻撃に、頭を抱えながら逃げ惑っている。

 ……ん?

「おい娘! 見ていないでどうにかしろ!」

 男の人が私に気付いた。それで子供たちも私にちらちらと視線を送る。多分、公園に入ったら私にも豆攻撃が向けられるだろう。

「いや、どうにかしろって言われても……」

 あんな人近所にいたかな? という疑問が、今更ながら私の中で渦を巻く。なんか、どう見ても外人っぽいよね。いや、普通に日本語で話し掛けられたけど、大事なのはそこじゃなくて。あの人は多分この辺の人じゃないって事で。ならなんでこんな所で豆をぶつけられてるんだって話で。

 あの見事な金髪。染めただけじゃ出来ないと思う。染めた感じがしない。何となく顔立ちも日本人離れしているような気がしないでもない。けど『ご近所の方ですか?』という質問は場にそぐわない気がする。というかこの場でしたら怒鳴り返されるだけだと思う。からと言ってある種不審者のその人を放置して去る訳にも行かない(場合によっては子供たちが危ない)。

 仕方なく、私は両手を口に添えた。

「君たちー気持ちは分からないでもないけどそろそろ止めてあげてー」

「えー」

 案の定、子供たちから盛大なるブーイング。でも、一応は動きを止めた。

 素直でよろしい。

 男の人は、攻撃が止んだと分かると素早く公園から出て坂を上り、私が立っている通りまで避難した。

「全く。人を見るなり唐突に豆を投げつけて来て……この辺りの童(わらべ)は何を考えているのだ」

 いや、あなたを見たら誰でも投げたくなると思うって。

 男の人は頭をさすりながら子供たちを見下ろしている。その様子を眺めていた私は、自分の中で芽生えた違和感に気付く。

 今この人、子供たちの事なんて言った?

「あの……」

 声を掛けると、男の人がこっちを見る。遠くで見た時も思ったけど、結構端正な顔立ちの人だ。モデルとかにもいそうな感じ。

 頭の上に角がなければ。

 子供達がこの人に豆を投げていた理由は、間違いなくこの二つの角だろう。お面を付けていなくても、それがあれば十分に豆を投げる理由になる(子供にとっては)。

 私は最初、もうすぐ節分だから、この人はそんなものを頭にくっつけているのだと思っていた。だけど。

「……娘」

 私が続きを話すより前に、男の人が訝しげに私を見る。ちょっと高めの鼻が、すんすんと動いている。

 え、私なんか臭う?

 思わず自分の腕を鼻先に付けてにおいを嗅いでいた私は、反応が遅れた。顔の前に上げていた腕を掴まれ、びっくりして相手を見上げる。

「な、何ですか?」

「娘、何か使役しているか?」

「使役? 何の話ですか?」

「物の怪のにおいだ」

 訳が分からず目を白黒させていた私は、男の人の言葉に動きを止めた。

 呆然と男の人を見る。相手は確信的な瞳でこちらを見つめている。こんな状況じゃなければ見惚れる程綺麗な青い目なんだけどな……。

 じゃなくて。この人、何者?

「おにはーそとー!」

「だっ!」

 公園の方から、子供たちが男の人に向かって豆を投げつける。怯んだ男の人が、私の手を離した。

「いまだ、ねーちゃん、にげろー!」

「にげろー!」

 子供たちに言われて我に返った私は、全速力で家の方向目掛けて駆けだした。

「あ、こら待て!」

 当然ながら、男の人は私を狙って追って来る。

「君たちも早く帰りなさいねー!」

 私は子供たちに叫びながら、必死になって足を動かした。でも、相手の方が背が高い。背が高いって事は、足も長い。

 あっという間に、私たちの距離は縮まっていく。大体、私はそれ程体育会系ではない。

「何故逃げる? やましい事がなければその必要はないはずだ!」

「見知らぬ人に会ってもついていったらいけませんー!」

 若干意味不明の事を叫びながら、私は無我夢中で走る。いかんせん、相手は頭に角を付けたいかにも怪しい男の人だ。危険なにおいがぷんぷんする。

 捕まったらどうなるんだろう。あらゆる方向の最悪の映像が頭を過ぎり、私は真っ青になる。

 ううう、誰か~。って思うけど。通りには人っ子一人見られない。この辺りの人が在宅中かも分からないのに、玄関の前に立ち止まってインターホンを押す訳にもいかないから、とにかく止まれない。走って走って、自分の家を目指す。

 幸い、追っ手に捕まらずに自宅が見える場所まで来る事には成功した。問題は、鍵を開ける動作中に確実に追いつかれる事。今、お父さんもお母さんも外出してていないんだよね……。他もいる事はいるけど、この時間じゃ頼れない。というか、この人の前に出したらマズイ気がする。

 家までの道を、二つの足音がバタバタと駆け抜ける。

「いい加減止まれ!」

「嫌です!」

 当然ながら相手の言葉を拒否するのだけど、次の瞬間肩を掴まれた。急激に動きを止められて、体が反動に揺れる。

 追いつかれた!

「離し……!」

「咲」

 咄嗟に暴れてやろうと肩を上げた時、反対側の肩が掴まれた。私の体は理解が追いつく前に引き寄せられる。そう、引き寄せられたんだ。突き飛ばされたんじゃなくて。

 私の名を呼んだのは、この場に呼んだらマズイと思っていた声。

 ……あれ? うそ……。

 誰かに抱き止められて、私は恐る恐る目を開けて顔を上げた。

 振袖を着て、真っ黒な長い髪を風に靡かせる中性的な顔立ちの男性が、私の事を心配そうに見下ろしている。

「なん、で」

 でも市松さんは私の言葉に答えず、顔を上げて瞳を細めた。今まで見た事のない鋭い表情。だけど驚く余裕がない。状況に全くついて行けない。

 市松さんって、丑三つ時しか人の姿になれないんじゃなかったっけ?

 近所の空き地で拾った市松人形。人形は女だけど宿ってるのは男。それが市松さんだ。市松さんは物の怪で、だからさっき男の人が言っている事は半分が正解だ。

 私は物の怪と一緒にいる。でも、使役している訳じゃない。

「お前、唐子松か。何故このような場所にいる?」

 背後から聞こえる声。前回呼ばれていた時は上手く聞き取れなかったけど、今回は聞き取れた。

 市松さんの(どうやら)本当の名前。“からしまつ”って言うみたい。

「……何だって良いだろう。お前こそ何故咲を追い回す? 嫌がっておるではないか」

「私はただ、その娘から同族のにおいを感じたから追ってきただけだ。しかしまさかお前だとは」

「私は使役なんかしてません!」

 我慢できずに声を上げる。男の人は、見下すようにちらりと私を見た。

 ああもう、何かムカツク!

「大体、何なんですかあなた! 豆まかれて逃げ惑ってるし、助けてあげたのにいきなり腕掴んで来るし、逃げたのに追いかけて来るし!」

「逃げられれば追う。それが自然の摂理と言うものだ」

「……豆から逃げ惑っていた?」

 市松さんがぽつりと漏らす。一瞬の沈黙の後、鋭い表情はどこへやら、市松さんは唐突に笑い始めた。

「あはははは! 豆まかれて逃げるって、お前、あはははは!」

「わっ、笑うな! 無礼な童の行いに、私がどれだけ耐えたと思っている!」

「無礼ってお前……もうすぐ節分だぞ。その頭で歩いていれば狙われるのは当たり前だろうが。何故結っておかなかった」

「最初はきちんと結っていた! それでもあの童ども、私の髪型が鬼のようだと容赦なく豆を投げてきおって、逃げる内に結いが解けてだな……!」

「『鬼のようだ』? 鬼だろうがお前は」

「そういう意味で言ったのではない!」

 市松さんは喋っている間にも笑ってる。笑いすぎて、目尻に涙まで浮かんでる。対して、男の人は顔を真っ赤にして怒っている。話の流れからしてどうやらホントに鬼みたいだし、この人が変化(へんげ)か何かしたら、赤鬼になるのかも知れない。

 でも、今大事なのはそんな事じゃなくて。

「市松さん。この人知り合い? 無害?」

「ん? まぁ無害だな。もし暴れ出しそうなら俺が止めるから大丈夫だ」

「聞き捨てならんな。お前に止められるほど軟弱ではない」

「なら試しにやるか?」

「受けてたとう」

「たたなくて良い! とりあえず、家に入ろう!」

 私は二人の間に割って入って、強引に話をまとめた。いくら何でも、これ以上騒いだら近所の人が出て来るかも。いや、今も窓からこっちを見てるかもしれない。この二人の説明を求められたら、私は何も答えられない。私は二人の背中を押して、家へと入った。

 鍵が開いてたから、市松さんここから来たんだろうな……。



「……で?」

 “慇懃無礼”って言葉がぴったり似合いそうな男の人は、部屋に唯一ある椅子に座って両腕を組んでいる。市松さんは机の上に座ってて、私はベッドの上。……誰がこの部屋の主だって光景だ。

 とりあえず部屋に連れて来たのは良いけど……これからどうすれば良いんだろ?

「何故お前がここにいる」

 男の人が市松さんを射るように睨み付けている。それに対し、市松さんも同じような状態だ。このままだと、また喧嘩が始まりそう。

「市松さん。名前、あったの?」

 男の人に質問するのが憚れて、私は市松さんに訊いた。

「先程から気になっていたのだが。娘よ、随分奇妙な名前で唐子松を呼んでいないか?」

「良いんだよ。咲が俺にくれた名だ」

 すかさずといった感じで、市松さんが口を挟む。苦い顔をしている所から見ると、訊かれたくなかったのかな……でも、さすがに二回目だから気になるよ。

「どんな字、書くの?」

「唐子に松だ」

 と、男の人が教えてくれたけど。“からこ”って、何?

「知らないか? 多くは独特の団子頭をしている童の事だ。『中国風の頭』と言った方が、娘には想像が容易いか」

 親切に教えてくれて、容姿は何となくイメージ出来たけど。文字が分からない。

 悟ったのか、呆れた様子で私を見ていた男の人が、手の平を私に向けて突き出した。

「筆記具」

「あ、はい」

 私は反射的に立ち上がって、市松さんの座る机からメモ帳とボールペンを取り出して男の人に渡した。相手はすぐにそれに何かを書いて、私に戻す。

 真っ白なページに“唐子松”の文字。物凄く字が綺麗だ。

「……で、あなたは?」

 勢いで訊ねる。

「らいき。雷に鬼と書いて、雷鬼」

 ふてくされた声が横から聞こえた。市松さんだ。どうやら、目の前の男性は雷鬼さんと言うらしい。

「書いた方が良いか?」

 雷鬼さんに馬鹿にした声で言われ、私はむっとして首を振った。メモ帳を胸に掲げたまま、ベッドに腰掛ける。そして、部屋を再びの沈黙が包み込んだ。

 改めて見ると、雷鬼さんが着ているのは、白いシャツに緑がかった灰色のスラックス。濃紺の靴下。頭についた小さな(いかにもな)角を除けば、普通にどこにでもいる一般人男性って感じだ。

 市松さんに対して『同じにおいが』とか何とか言っていた所からして、多分この人も物の怪なんだろう。随分現代社会に適合した物の怪がいたもんだ。

「お前こそ、何故咲を追っていたのだ?」

「先程も言った。逃げられたから追ったのだ」

「その前の事を訊いておる。お前の存在はそれだけで逃げる理由になりうるが、咲は肝が据わっているからな。理由がなければ逃げたりしない」

 市松さん、多分自分の経験則から言ってるんだろうけど、あの時はびっくりしてただけで私の肝はそんなに据わってないと思う。

「お前とて存在自体逃げる理由になると思うがな。大体、お前はそれなりの旧家にいたはずだ。更に私の記憶が間違っていなければ、そこはこのような辺鄙な場所ではなかったはずだ。その家は完璧な日本家屋で、このような中途半端な」

「ああもう! 悪かったわね田舎のおかしな家に住んでて!」

 雷鬼さんの言いたい事は何となく分かる気がするんだけど。ここまで言われると反論したくもなる。それに、市松さんが物凄く苦い顔をしているのも気になる。私が訊いた時もそうだったけど、前の家の話はあんまりしたくないみたい。

 私としては、会ったばかりの雷鬼さんより、市松さんの味方をしたい。

「あなたがどんな人か私は知りませんけどね! これ以上失礼な事言うと豆投げますよ!」

 雷鬼さんがびくっと体を痙攣させる。やっぱり鬼は豆に弱いのかな?

「……お前、豆が弱点だったか?」

「べっ、別にそういう訳ではない! 断じて、先程の童たちの攻撃が恐ろしかったせいではないっ!」

 子供って無邪気に残酷だからなぁ。

「私はただ、気晴らしに散策をしていただけだ。そこにあの童どもが現れて、私を見るなり豆を投げ始め……」

 両腕で自分の体を抱き締め、ぶるっと震える雷鬼さん。よほど怖かったらしい。

「わっ、私の事はどうでも良いのだ。それより唐子松。お前の話をまだ聞いていないぞ」

 うう、結局その話に戻っちゃうのね……。

 市松さんはしばらく黙っていたけど、やがてぽつりと言った。

「……時は流れる。時代は変わる。人も変わる。だが、俺はお前と違うて時代に合わせられん。向こうもそれは同じ。潮時だったのだ」

 三度の沈黙。雷鬼さんも今度は揶揄したりしなかった。真面目な顔で市松さんを見つめている。

 市松さんと雷鬼さん。二人の服装を見れば、どちらが今の時代に合わせているかが一目瞭然だ。でも、それってそんなに大事な事なのかな?

「……市松さんは市松人形だから市松さんなんでしょ?」

 市松人形が現代っ子の服を着ていたら、それは市松人形じゃないと思うんだけど。そう言う意味では、市松さんはそのままでいれば良いと思う。

 勿論、人の姿になる事を受け入れられる人間が減ってるのはどうしようもないんだろうけど。それだって、受け入れられる人の所にいれば良いんじゃないかって思う訳よ。

 いや、私の場合はかなりの高確率で成り行き任せなんだけど。

「ややこしい論理だな、娘。というか安直だと言わざるを得んのだが?」

 私が市松さんの事を『市松さん』と呼ぶ事は認めてくれたみたいだけど、突っ込むべき部分はきっちりと突っ込む雷鬼さん。

 しょうがないでしょ。私にはネーミングセンスなんかないんだから。

「だがまぁ、唐子松がそれで良いと言うのなら、私がとやかく言う筋合いはないな」

「そういう事だ。……ところで、俺からは一つお前にとやかく言わせて貰いたいのだが」

 ちょっとだけ余裕を取り戻したように見える市松さんが、ちらりと雷鬼さんを見る。相手は怪訝な顔で市松さんを見返す。

 今度は何? 喧嘩は勘弁してほしいんだけど……。

「風鬼はどうした? 一緒じゃないのか」

 市松さんの言葉に雷鬼さんがびくっとすると同時に、窓がガタタタタ! と音を立てた。まるで春一番が局所的に吹きつけたみたいに、窓が揺れている。揺れと共鳴するように雷鬼さんの顔色が青くなっていく。

 市松さんは机からするりと降りて、窓に近付いた。ちょっと外を見てから、私の方を振り返る。

「咲。窓を開けても良いか?」

「う、うん。別に良いけど……」

 外結構な強風だけど、開けても大丈夫かな? とか私が思っている間に、市松さんは窓を開けた。何故か風は入って来なくて、外は相変わらず綺麗に晴れ渡っている。何かがいる様子もない。いや、見えない龍がいるくらいだから、今回もそのクチかも。

「わっ!」

 不意打ちだった。

 ゴッと言う音がして、いきなり一陣の風が雪崩れ込んできた。部屋に物出しっぱにしておかないで良かった。でも私は無防備だから、せめて腕で風を遮りながら窓を見る。

 唖然とした。

 ベランダの向こう側に浮かぶ一人の女性。浮かんでる。ベランダに足付けてないから、間違いなく浮かんでいる。周りを渦巻く風に支えられるように、上下にふわふわと揺れながら、切れ長の瞳でこちらを見つめている。

 真っ黒な長い髪。後頭部の高い所に、お団子が一つ結ってある。一房だけ違う髪の流れをしているから、お団子からもポニテみたいに髪が伸びているんだろうな。

 それから、薄らと青味を帯びたブラウス。OLが着ていそうなぴっちりとしたスーツスカート(と言ってもロングスカートで下の方にひらひらが付いているのが見える)とハイヒールはワインレッドという言葉が似合う赤。

 更にびっくりなのは、眼鏡を掛けている事。スカートやハイヒールと同じワインレッドのフレームが、怖いくらいに似合っている。

 印象としては、“冷たく厳しい会社の上司”だ。空中に浮かんでいなければ、間違いなくそう思う感じの女性だ。

 その人(いや、物の怪かな)は、眼鏡のフレームを片手でくいっと上げると(その仕草も怖いくらいに似合ってた。多分自分に合っているものが分かる人……物の怪なんだろうな)、形の良い唇を開いた。

「まだ休憩には二時間十五分三十八秒程早いと思いましたが、雷鬼」

「……はい」

 女性に背を向けた状態なのに、雷鬼さんは正座で拳を膝の上に固め、顔にはびっしりと冷や汗を掻いている。完全に“サボりが上司に見つかった部下”の図だ。相手は静かな口調なのに、雷鬼さんは豆を投げつけられていた時より明らかに怯えている。

「それから」

 女性はちらりと市松さんを見た。市松さんは複雑な笑みを浮かべている。

「唐子松。あなたは何故ここに? 私の記憶では」

「色々あったのだ。それでこっちに越した。今は咲の世話になっている」

 顔なじみなら掛けられる質問も分かるってやつかな。市松さんは女性が最後まで言い終わらないうちに言い返した。相手は若干不服そうな顔で、眼鏡に手を掛ける。

「説明が不明瞭です。もっと詳細で正確な情報を要求します」

 ……綺麗な声だけど、冷たい感じがするし、何か機械みたい。って言ったら失礼なんだろうけど。

 市松さんは質問に答えず私の方を見て、親指で女性を示しながら言った。

「ふうき。風の鬼で風鬼。雷鬼の相棒だ」

 風鬼さんね。風の鬼って言うけど、私から見ると風紀委員の風紀って感じ。しかも上司じゃなくて相棒なんだ。でもこの場合の“相棒”って、どういう意味だろう?

「質問には的確に答えて欲しいものですが……まぁ良いでしょう。私の目的は雷鬼の回収であって、貴方との茶飲み話ではありません。雷鬼の気配を追ってきたつもりでしたが、まさか貴方に会おうとは。今度時間が取れた際に、改めてご訪問申し上げます」

「結局そうなるか……」

 風鬼さんの言葉に冷や汗を流す市松さん。雷鬼さんはと言えば、さっきから正座で硬直している。

「雷鬼。参りますよ」

「……はい……」

 怯える雷鬼さんの口からは、聞き取れないくらい小さな声しか出て来ない。

「雷鬼?」

「はいいいっ!」

 なんかもう『ひいぃ!』にしか聞こえないくらい悲鳴のような声を上げて、雷鬼さんは飛び上がる勢いで立ち上がった。同僚にしては見事な程の上下関係だ。

「では唐子松、後日また改めて。本日はまだ仕事が残っていますので、これで」

「あ、あぁ……お手柔らかに頼みたいものだな」

 市松さんが引き攣った笑みで風鬼さんに言っている横から、雷鬼さんがカクカクとした動きでベランダに出た。パチパチッって音を立てながら、風鬼さんみたいに空中に浮かび上がる。

 あ、角の間で電流が発生してる。体の周りにも、静電気みたいに青白い電流が迸ってる。でもその電気をものともせず、風鬼さんが雷鬼さんの首根っこを摑まえた。

「ふっ、風鬼! ちゃんと仕事には戻るから、別に捕まえずとも」

「では失礼致します」

 雷鬼さんの言葉を丸無視して、風鬼さんは彼の首根っこを掴んだまま、物凄い勢いで空に舞い上がった。あっという間に小さくなっていく二人。遠くから「ひいぃ~っ!」って声が聞こえるのは、多分気のせいじゃない。

「風鬼は相変わらずきっちりしておるなぁ」

 空を見上げながら、市松さんののんびりとした声。

「風鬼さんも、鬼なの?」

「あぁ。見たとおりだが、雷鬼は雷を、風鬼は風を司る妖怪だ」

「妖怪?」

 同じにおいが云々から、雷鬼さんたちは市松さんと同じ物の怪なんだと思ってたんだけど……もしかして、違うの?

「え? あぁ、そうか。ややこしいよな、すまん」

 いや、謝らなくて良いから、説明して欲しいんだけど。

 私の思っていることが分かったのか、市松さんは苦笑いしながら続けた。

「人の間の分類とは違うかも分からんが。大雑把に言うと、俺ら物の怪は人の手によって作られた器に宿るもの。で、人の手によらないものを器とする場合は妖怪としている」

 市松さんによれば、生まれは違うけど、気配的には共通するものがあるらしい。だから『同じにおい云々』になる訳だ。なるほど。

 けど、疑問は残る。

 雷鬼さんも風鬼さんも鬼だって言うなら、風鬼さんにも角があって然るべきじゃない? 雷鬼さんはものすごく目立つ位置に角があったのに、風鬼さんはぱっと見たくらいじゃ分からなかった。

 それを訊ねると、市松さんは指で自分の後頭部をトントンと示す。お団子のあった場所だ。そういえば、雷鬼さんも角を髪で隠してたって言ってたっけ。

「最初はもっと頭のてっぺんにあったはずなのだが。今の場所が一番風の抵抗がないとか何とかで、自力で移動させてしまったらしい」

 恐るべし物の怪、じゃなかった、妖怪事情……。自分の体を自分で整形するとは。

「さっきも言ったが、あの二人は風と雷を司っているからな。各地で天候を操っておる」

 風神と雷神みたいね。そういえばあれは鬼の姿をしてた気がする。

「……すまないな、咲。どうやら、俺は近くに居過ぎたようだ」

 唐突な市松さんの言葉。窓を閉めて、申し訳なさそうに眉を下げた笑顔で私を見て……あぁ、いつもの“捨てられそうな子犬顔”になってる。

「俺らは互いの気配がにおいで分かる。……この場合のにおいってのは、本当に嗅げるにおいじゃなくて、感覚的な……『同族がいる気がする』っていう事だぞ」

 それぐらいは、さすがの私でも分かる。『気配』と言わず『におい』って言うのはなんだか不思議というか、面白いけど。

「市松さん……唐子松さんって、呼んだ方が良い?」

 思えば、私は市松さんが名乗る前に、市松さんを『市松さん』って呼び始めたんだよね。だから、本当の名前があるのなら、そっちで呼んだ方が良いんじゃないかと思う。

 でも、市松さんは緩く首を振った。

「いや、咲さえ良ければこれまで通りで頼む。唐子松というのは、個体を認識する為の呼び名に過ぎないからな。ひとくちに“市松人形に宿る物の怪”と言っても、沢山いたら同じ呼びかけを使う訳にいかんだろう?」

「そう、なんだ……」

 納得は出来る。でも、納得がいかない。

 すぐには何も言えなかったけど、市松さん、自分がここにいるのが悪い事みたいに言ってたから。

「前の家では、夜しか外出しなかった。家に妖怪物の怪の来客があって住人が驚くなんて事はなかった。周りは俺が来客を好まないのを知っておったしな。だが今となってはそうもいかぬ。慣れぬにおいがすれば、近付いて来る輩もおるだろう」

「ねぇ、市松さん。……いなくなったり、しないよね?」

 私は、市松さんの言葉を遮るようにして訊ねた。

 市松さんは、困った風に笑っている。

「俺は、咲が許してくれる限りここにいるつもりだ。他に行く当てもなし、行ったとしていつ燃やされるか分からん。だが、俺がここにいればいる程、人ならざる者に絡まれる可能性が増えるかも知れんぞ。良いのか?」

「それは別に良いよ。もう慣れたし」

 そりゃ、新しい妖怪や物の怪に絡まれるたびにびっくりはするけど、今の所は命に係わった事もないし、それに……。

「市松さんがいなくなったら、きっと寂しいし」

 ぽつりと言って、何となく恥ずかしくなって、私は市松さんから目を背けた。

「咲……」

 市松さんも、ぽつりと呟く。ちらっと見ると、ホントに驚いたみたいな顔をしている。でもそれもすぐに消えて、やっと、いつもみたいに微笑んだ。……ちょっと捨てられる直前の子犬みたいな顔が残っているけど、まぁ良いか。

「そうか。ありがとうな、咲。お前に拾われて、俺は本当に幸運だったと思う」

「もう。そうやって改まって言うの止めてよ。恥ずかしいじゃないの」

 おかげで、私はいつまで経っても市松さんの方を見られない。何となく悔しくて、私は市松さんから目を逸らしたまま、意地悪っぽい口調で言う。

「昼間でも、人の姿になれるんだ?」

「あ、あぁ……まぁ、その」

「前の家のお話はしたくないみたいだし?」

「う……どうした咲。急に風鬼に似てきたぞ?」

 やっと私が市松さんを見ると、雷鬼さんみたいに真っ青になって冷や汗を流す市松さんの姿。

 何だか知らない事が沢山あるけど、市松さんと一緒にいる時間も同じくらい沢山ある(はず)。

「気が向いたら、市松さんのお話、聞かせてね?」

 私は、おどおどしてあちこちに視線を彷徨わせる市松さんを、からかうように突っついた。



 終。




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