文化帝国主義の前に | サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ

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 昨年のヒット映画「ワンダー・ウーマン」は、第一次世界大戦を舞台にした作品です。

 外界から閉ざされた島で生まれ育った主人公と、産業革命以降の急速に工業化が進んでゆく世界との遭遇を描いた作品なのですが、その中で描かれている敵役にドイツ軍があります。

 この当時のドイツ軍は皇帝を最高位に抱いた騎士団であり、騎士としての生活様式に則って行動しています。騎馬で移動し、城を前線基地として、そこで地方貴族たちを招いて優雅に夜会を開いたりなどします。

 この感覚は現代日本人の多くが忘れている物だと思いますが、歴史的断絶の無い西洋社会ではおそらくは現代でも続いている物で、ジェームス・ボンド映画などでも貴族の悪役が開くパーティにボンドが潜入したりするシーンがありますね。

 第一次に続く第二次世界大戦でも当然この、中世の在り方を下敷きにした世界観というのは継承されており、ナチスというのは投票制で成立した政党でありながら、神秘主義を思想にした帝国を築こうと画策していたことが語られています。

 同じ頃の日本では、やはり天皇陛下を古来のシャーマンキングとしての在り方に据え、武士と神兵が鬼畜の侵攻から神州を保持するという世界観が公的に広められていました。

 日本刀や竹やり、婦女子の性には通力があり、呪詛をして爆撃機を打ち落とすことが可能だとされていました。紀元前一千年以上の頃の中国の人々と同じです。

 この時代を背景にした映画「この世界の片隅に」には実際に、鬼や妖怪が当時の素朴な人々の視線から具体として描かれます。 

 ヒロインが慰安中の兵士に嫁子貸しに出される描写などは、日本の土俗という物を直接的に描写しているようで驚かされました。

 そのような時代の人々による物事の見え方というものを、私たちは直接的に感じることは非常に難しくなっていると思います。

 戦後、GHQによる日本の洋化政策は、まず上述した日本人の世界観の中心にして頂点にあった天皇陛下にまつわる神話一切をはく奪しました。

 その後、アメリカと同じ価値観を普及させる教育と報道状況を整えました。

 この経緯を経た私たちにはもう、鬼や妖怪を日常の物として感じることは難しくなっています。

 もちろんこのような教育のおかげで、現在我々は快適で健康的な民主的社会にて暮らせているのですが、それは恐らく、極度に転覆しやすい軍国主義によってデザインされた神話の存在があったためでしょう。

 この神話的世界観のはく奪は西洋諸国植民地政策の基本で、アジアも南米もキリスト教に教化されて土着のシャーマニズムとそれに伴う生活風習を奪われています。教民化政策です。

 その下で、なお多くの魔術や呪術はキリスト教徒混ざって土着の新たな信仰となることで生き延びるケースが多かったのですが、本邦においては直接的に軍事の筆頭にあった現人神が直接対決をして敗北と言う非常にシンボリックな経緯があったために国民のグローバル化は非常に迅速に行うことが出来たことであろうと思われます。

 実際、方向を支持された戦後の日本国民はミニオンズのように新たな主人のコマンドに対して忠実にまい進し、とうとう一時資本主義世界の頂点まで上り詰めることとなりました。

 しかし、経済的発展と言う目的を成し遂げて再び神話の行き止まりに至った日本は迷走し、ブラック企業や高い自殺率、多様なハラスメントにゆとり教育などとあれこれ抱えながらいまに至っています。

 そのような混乱の中に、新古武術という物が現れました。

 明治の近代化の中で、古伝の武術が在り方を見失い始め、西洋思想の元に形成された体育運動としての武道が成立し、それがそのまま件の「神話」の一部として機能し、そのまま戦後を迎えたという土壌の上でです。

 思想の無い、別角度からの体育活動の試みとして行われるこれらの新古武術は現在も隆盛しているようです。

 隣国の中土では、この洋化の襲来に対して初めからより自覚的な対応をしていたように思います。

 西洋民主主義への対応のよりどころとして共産主義を担ぎ、伝統思想への徹底した排除を断行しました。

 その中で、日本で言う近代武道に相当する新武術と呼ばれる物が創設されました。

 これは表演競技と散打競技、軍隊教育を柱とするもので、明治の日本武道と非常な相似を感じさせます。

 新武術の推奨の一方、共産党はそれまでの武術を古代と呼び、排斥の手を推し進めました。

 それまでの弾圧で多くの武術家は台湾や東南アジア、西欧諸国に亡命していたのですが、この共産党の新代武術の普及活動によって国を出た伝統武術家も非常に多いと聞きます。

 ここに挙げた、西洋諸国の教化、日本における明治の近代武道と神話の融合による武道教育、および中国での新武術の公布活動は、「文化帝国主義」と呼びならわすことが可能であると思います。

 これは軍事的な帝国主義と同じく、土着の様々な価値観をより大きな力によって塗りつぶし、自分たちの思想(文化)によって染め上げて支配してゆくという意味です。

 なぜすでに優位にあるはずの支配勢力は、物理的な支配のみならずこのようなことを行うのでしょうか。それは彼らが、生活様式を奪い、思想を喪失させれば、物を考える力が弱く、他者の支配を受けやすい人間が出来上がると考えたからです。すなわち人間の奴隷化、家畜化です。なぜなら人間が人間たる土台を引き抜いているからです。

 国民総生産の向上を目的とした、軍隊的義務教育と企業優先社会、およびそこで行われるブラックな経営方針やハラスメントなど、すべてがそのコンセプトに基づいているとは感じられませんか?

 文化を侵略するとは、人間の心や魂を奪うということです。

 

 中国の新武術においては古代武術にある儒教的な思想は許されることはありませんでした。先生を意味する師父という言葉は敬称として父という語が入っているので年功序列主義で封建的だと言う理由で使用が禁止されました。

 家族と言う思想そのものも解体をされて、多くの子供たちが親元から引き離されて地方の農耕地帯で労働力として働かされました。このようなことを彼らは文化大革命と呼びました。余談ですがつい最近、中国では反体制的だとしてヒップホップの放映が禁止されました。いまだに革命精神は受け継がれている訳です。

 このようにして、本来あった思想を排除してゆくということが大々的に行われきたのが、これまでの世界の大きな流れです。

 いまも各地で行われている民族紛争や宗教的背景を持ったテロなどは、追い詰められた古伝思想の反動だと見なせます。

 それまでの政治的見解では、冷戦が終われば世界の価値観は統一されると見なされていましたが、実際はその時には論壇に挙がることもなかった伝統という物が思ったよりしぶとく力を発揮している訳です。

 中東のイスラム地区でビキニをまとい、紫禁城でスターバックスを営業し、世界中に7-11の看板を立て挙げても、いまだこの伝統世界に棲む人々を根絶やしには出来ていません。

 現在では今一度、これらの存在が見直されてもいます。

 ひと頃は未開の後進国を文化的に開放する物だと宣伝されていたグローバナイゼーションが、文化帝国主義の側面を持っていたことがいまいちど意識され始めているのでしょう。

 空手道がオリンピック競技化されるそうですが、ここにも私は上に挙げた流れのベクトルを強く感じています。

 清潔で便利な暮らしは捨てがたいのは間違いがありません。

 私にはシャワーがない生活なんて考えられない。

 けれども、同時に民族としての自分や、伝統思想を抱いた個人としての立場からいまのこの世界を生きるということも、見落としてはならないことのように感じられます。

 そのような考えを持つことは、単に西洋合理主義、あるいは民主主義以前の封建的で野蛮な価値観に立ち返るという意味ではありません。

 便利さと数の力の反対にある、代々受け継がれてきた感性という物の継承と保持を重視するなら、それは一方で、他者の価値観、文化への尊重も可能なのではないかと思うのです。

 西洋諸国の文化帝国主義に対して、文化人類学界の巨人レヴィ=ストロースは言っています。

「自分とは違う他者を野蛮人だと見なすことこそ野蛮だ」

 彼は電気も水道も無い裸の人々の中で暮らし、そこに高い秩序と文化が存在していることを見出しました。

 伝統的な生き方をする者は、文化人足りえると言うことではないでしょうか。

 私はそう思っています。

 中国武術やフィリピン武術を、体育や軍事訓練、護身術としてしか見出すことの出来ないなら、それは大きく本質を見落としていると私は思っています。

 ライフスタイルとしてのマーシャル・アーツ。

 文化に則って生きることは、暮らしを芸術としえるのではないでしょうか。

 そして生活を芸術としうるということは、天災や時に政治的圧力による人災の影響下から個人を確立させることが出来るものなのではないでしょうか。