沖縄武道空手の極意解説シリーズ119 「無想会沖縄空手道」とは何か 人生を豊かにする空手 | 南風のブログ

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『沖縄武道空手の極意』 156頁 「第七章 「無想会沖縄空手道」とは何か 人生を豊かにする空手」に入ります。

いよいよ最終章です。

現代空手と沖縄空手は、何故こんなに違ってしまったのか。

詳しくは、今野敏先生の『義珍の拳』をお読み下さい。

南風が沖縄空手に興味を持つ契機となったのがこの本です。

 

沖縄空手について、大変良く調べて執筆されており、

時代背景も登場人物も、ほぼ合っていると考えて差し支えないと思います。

技術が伝わらなかったのは仕方ないですね。

もう、琉球王国(沖縄)内ですら変化が始まっていました。

沖縄では、日清戦争(1894(明治27)年)、日露戦争(1904(明治37)年)が終わるころには、体育の正課に空手が取り入れられ、さかんになってきました。このころ武士 たちの悩みは、秘術でなくなっていく空手をどのように後世に残していくかでした。広く普及する空手は「手」の本質を見失っていきます。この武士 たちの悩みは、その後、残念ながら的中することになりました。集団を指導するための普及形は、体育的効果を狙っていますから、体を大きく伸び伸びと使って、腰を落として足腰に負担をかけます。ですから、体を鍛えるのには向いていますが、実戦で使うのには向いていません。これが、空手修行が「組手」中心に変化していく過程で、「形」稽古が衰退していった大きな理由です。歩幅を大きく取り、腰を低く落とし、受け、突きも力強く、極めをつくる普及形は、鍛錬形としては有効ですが、この時から、組手と形は、別々のものとみられるようになりました。

 

しかし、変わったからこそ、一般に広まったという事実はもう、覆すことは出来ません。

 

 

また、沖縄から本土に空手が伝わる過程でも変化してしまいました。

1889(明治22)年に、糸洲安恒先生の弟子である屋部憲通(1866~1937)先生、花城長茂(1869~1945)先生、久手堅憲由(1869~1940)先生の御三方が、日本海軍に入隊します。これにより沖縄の唐手(空手)が日本本土に知れることになりました。それが、33年後の富名腰(船越)義珍先生の東京行きにつながります。屋部憲通先生は、1916(大正5)年に富名腰(船越)義珍先生が、初めて日本本土に唐手(空手)を紹介して、4年後の1920(大正9)年に、アメリカ、ロスアンゼルスで空手を紹介しています。花城長茂先生は、1935(昭和10)年に船越義珍先生が「カラテ」を「空手」と表記することを宣言する30年も前、1905(明治38)年から「空手」という文字を使用していました。船越義珍先生は、1924(大正13)年ごろから「空手」という文字を使い始め、1929(昭和4)年には、慶應大学唐手研究会が、表記を空手に変更しました。

 

1922(大正11)年の5月に東京で行われた体育展覧会において、富名腰(船越)義珍先生等が、日本本土で唐手(空手)の演武(クーシャンクー・ナイハンチ等)と解説を行いました。翌6月には、再度講道館長の嘉納治五郎先生の依頼で、講道館の門弟の前で、唐手(空手)の演武と解説を行いました。その後、嘉納治五郎先生に頼まれて7月~9月まで、講道館で空手の講習を行います。これが、初めての日本本土で空手の指導ということになります。その後、大学生達の入門が相次ぎ、また唐手(空手)についての講演依頼も相次ぎ、富名腰(船越)義珍先生は、なかなか沖縄に帰れなくなりました。1924(大正13)年、富名腰(船越)義珍先生は、講道館の段位の制度を取り入れて「唐手研究会本部」の名称で、初めて段位を発行しています。これはいままでの琉球手には無かった、新しい発想でした。この後、門弟たちと相談の上、自分たちの「唐手」の漢字を「空手」という書き方に改めることにしました。

 

1924(大正13)年以前に、空手何段を名乗る記述があるのは間違いです。佐野眞一氏のノンフィクション『甘粕正彦 乱心の曠野』に、「江連力一郎は1922(大正11)年に懲役12年の判決を受けた剣道五段、柔道五段、空手四段の猛者だった」という記述がありますが、このような記述は、残念ながら著者の勘違いということになります。

 

1925(大正14)年慶應義塾大学に、本土初の「唐手研究会」が生まれた頃、富名腰(船越)義珍先生は、そのまま東京に残る決心をして、本格的に唐手(空手)の指導を始めることになります。その後、早稲田大学、法政大学、日本医科大学、東京大学等に、次々と空手部が作られました。その後、富名腰(船越)義珍先生は、1935(昭和10)年に、「カラテ」の文字を「空手」と表記することを正式に宣言し、姓を富名腰から日本式の船越に改め、船越義珍を名乗るようになりました。この名称を日本式に改めるやり方はその後も踏襲され、船越義珍先生の系列の松濤館系の流派は、「平安の形」を「へいあん」と呼び、「ナイファンチ」を「鉄騎」と呼びます。修得の容易さを考慮したためか、「ピンアン初段」は「平安二段」となり「ピンアン二段」は「平安初段」となり入れ替わりました。

 

大学生を中心に、弟子を増やしていった船越義珍先生ですが、広く普及する空手は「手」の本質を見失うという悩みは、どんどん大きくなっていきます。大学生が主流になった、空手を学ぶ若者達は、大学四年間で結果を出すことを望みます。入門者は、強くなることを求めて道場の門をくぐります。空手は戦いの技術ではない。戦わないための技術なのだと言っても通用しなくなりました。どちらが強いかを問わないのが空手であったのにかかわらず、それが商売になると、強い方が顧客を増やすことになります。結局、強さを競うために、大会を開催し、公開試合で優劣を問うことになります。大学生達の組手の空手大会が開催されるようになり、変化してしまった形とルールに適応した組手との乖離は、ますます進むことになります。

 

だいぶ、脱線しましたが、最近の「無想会空手のブログ」では、次々と関連記事がアップされています。