第5章 相談者への答え

 

先日、Kさんが当院で治療中に涙を流しながら私に訴えてきました。

 

「これだけ、一生懸命に真面目に生きているのに、次々と家族に不幸が起きてくるのはどうしてなんですか。毎日毎日、一生懸命に神様にも祈っているのに、なぜ神様はこれでもかこれでもか、と苦しみを与えてくる。」

 

「苦しみや病気は、魂の成長に必要なのだとは教えられています。だから、分かっているつもりだけれど、本当に神様は見ているのでしょうか。神様は、本当にいるのかと疑ってしまいます。良くないことばかり起こってきて、そんなに意地悪な神様なら、私はどんな悪人にでもなって神様に逆らってやる…」

 

 

たしかに、Kさんの話を聞いてみたり、今まで生きてきた人生を考えてみたりすると同情する点も多いです。Kさんには、先日も「辛苦は神からの贈り物」という文章をコピーして渡しておいた。本人は読んだというが、まだ心には納まっていない。

 

いろいろの方の手紙や相談者と話していると、不幸や不運の原因は自分ではなく外にあると思っている方が多いです。運が悪い、これは天(神)が味方してくれないからだと思っています。

 

これだけ一生懸命に祈っているのに、少しも望みを叶えてくれない。なぜ、自分だけがこんなに苦労をしなければならないのかと不平不満だけに目を向けています。

 

大難を小難に過ごさせてもらっている事に気付いていないのです。ほとんどの人は、今の状況が幸せであることに気付かず、悪い面ばかりを探して不幸だ困った困ったと悩んでいます。神様は、その人にふさわしい状況以上に守護し善い方へと導いているのに、守護され助けられ育てられていることに少しも気付いていない。

 

だから、もっと善い面を数え上げてみればよい。まず、死なないで生かされて生きている。難民と違って、毎日食べるものもあるし睡眠も出来る。家族があって話ができる。耳も聞こえる。考えてみるとあらゆることに恵まれている。今ある状況の中にも、ありがたいと思うことは沢山ありすぎると思う。

 

私達は、守護され生かされていることを当たり前だと思っています。そして、さらに上ばっかり向いてさらなる欲を求めています。でも、このような考えは辛苦の真っただ中にいる人には受け入れられない。

 

ほとんどの人は物質的に恵まれ、健康であれば幸せだと思っています。価値観が、世俗的な欲と自分中心の世界であるからです。こんなことを相談者の方に分かってほしいのです。しかし、手紙の中に一人ひとり詳しく書く時間はありません。

 

そのため相談者の方に、次の様な文章をコピーして返送させてもらっています。でも受け取り方は、皆さんが違います。その人の心の成長に合った分しか理解してもらえない。だから手紙の返事を読んでも、どんな話の内容を聞いても、自分に都合の悪い事は受け入れてもらえません。

 

神も仏もあるものか、この願いが聞き入れられないなら自分は神様を信じない。悪になって神に仕返しをしてやるという人まで現れます。なんとも淋しい話であります。しかし、そんな人ばかりではない。

 

「辛苦は神からの贈り物」を読んで、今までのながい長い苦しみや辛さが「私をワンランク上のステージに引き上げるための」神の深い思いに気がつき、今はこれまでの辛苦をお陰様でと受け止め感謝できるようになりました。そうしたら、気分がすっかり楽になり人生が全く変わって見えてきました。…という嬉しい便りもきます。

 

正直いって、毎日毎日来る手紙や相談の内容は、ほとんどが暗くて心が重くなるものが多いです。そんな中でも前向きの手紙や明るい便りもあります。こういった手紙は、私の心を奮い立たせて嬉しくなります。そして、神様に感謝します。

 

私の使命は、皆様と神様の橋渡しをすることです。一人でも、二人でも真理が分かり神様に近づいて下さる方が増えれば本望です。次に書く文章も、少しでも「宇宙の法則」を理解して頂き、神とは御利益信心の神ではない事に気がついてほしいと思うからです。

 

◇「宇宙の法則」

 

(※私が悟った事ですから絶対正しいとは言えませんが、私はこのように悟りました)

 

①この世に起こる現象はすべて意味があり、偶然だとか運が悪いだとかということはないです。

 

②今ある自分の姿(病気、不幸、倒産、悩み、意地悪をされる、子供のことで困る、離婚、…等)は、すべて今までの自分の生き方や考え方と生前の生き方の総決算です。

 

③人生はもって生まれてきた運命と、今生の因果応報によって決まります。運命とは、前生の因果応報の総合計です。

 

④自分の人生は、自分の思うように自分の望む通りに創られます。その方法は、今生の生き方を善い因果応報の生き方に変えることです。悪い運命を持って生まれてきても、因果応報の力の方が強いから因果応報の生き方を正すことにより、人生はどのようにでも変えられます。

 

⑤今ある自分の姿は、誰の責任でもなくすべて自分の責任です。他人のせいや外に責任を転嫁している内は助からないです。

 

⑥どのような状況であっても、すべて神の手引きであるということです。その状況は、何を気付きなさいよと言っているのかに思いを向けるべきです。それは生活の間違いであったり、生き方や考え方が道に外れているとの知らせです。

 

⑦何事も感謝して受け止めることです。神様は大愛であり、すべてを承知していて困難や苦しみを与えているのです。この与えられた辛苦は、本人が耐えられる辛苦内です。辛苦を通して魂を成長させて、真理の存在を気付かせているのです。

 

⑧病気・困難・悩み・苦しみ…等は、後になってみると「病気になったお陰で…、困難にあったお陰で…」と今の自分が強くなれます。幸せであるのは、あのことがあったお陰でと思えるような生き方、受け止め方をしたいものです。そうした「お陰」があって、初めて人の心が見えるようになるのです。

 

⑨善い因果応報の生き方とは、「内の心」で生きて「外の心」で生きないことです。「内の心」とは、他人への思いやりや他人に尽くすこと。皆と仲良く協調すること。すべてを許す愛の心です。「外の心」とは、自己中心の生き方で、名誉やお金や財産などに価値を置く物欲の生き方です。

 

⑩前生の因縁、家(先祖)の因縁は本人がお詫びして解決しなければなりません。因果応報の原則は他人によっては解決が出来ません。

 

⑪この世は、演劇の舞台と同じです。自分が主役でどのような生き方も出来ます。自分の魂を磨く生き方をすることです。

 

⑫人生とは他人と比較して生きるものではありません。人間一人ひとり運命と使命を持って生まれてきています。だから、当然いろいろの生き様があるのです。幸せな人も不幸の人もその状況の中で学んでいます。

 

ただ、その使命や目的を知ってそれに向かって一生懸命努力している人と、生きてきた目的にも気付かずに、ただ漠然と動物と同じように生きている人もいます。ほとんどの人はこのような生き方をしています。

 

神様はあの世へと旅立つ前に気付きなさいと、見えない信号を送っています。人生とは自分への挑戦であり、自分を磨くことが目的です。だから他人と比較することはないのです。自分自身との戦いです。自分を磨き高めるという自己責任を常に果たしているかと反省することです。

 

⑬この世は、あの世や見えないものの障りや憑依もあります。しかし、自分が神様に目を向けて正しく生きたならば、このようなあらゆる障害は必ず解決する道があり、幸せの切符を手にすることが出来ます。

 

人間はすべて平等のはずなのに、障害者として生まれるのも、若くして障害者になるのも、すべて意味があるのです。この世に偶然は存在しないのです。前生の因縁の解消であったり、そのような身体を通してより深い真理を学ぶ目的であったり、親や兄弟姉妹の心の成長に役立ったり、周りの人達のいろいろの意味での気付きを学ばせるためでもあるのです。

 

大事なのはこの障害を不幸として受け止めるか、より飛躍への踏み台としうけ止めるかであります。前向きに感謝して受け止め積極的な生活を送ると、その結果として得るものは崇高な歓喜に満ちた世界へと心が変わってゆきます。神様は大愛です。本人の魂の成長に必要なものはすべて与えて下さっています。

 

人生において楽な道を選ぶのも、辛苦の道を選ぶのも、「内の心」で生きるのも、「外の心」で生きるのもすべて本人の自由です。神様の与えた舞台には何一つ欠けたものはないのです。主役は自分です。どんな役を演じようと自由です。しかし、演じた結果はすべて自分が受けることになります。これは、公平で誰も侵すことの出来ない「因果応報の理」が働いているからです。

 

くどいようですが、今ある姿はすべて自分の責任です。どのような人生を築くかは自分の意思ひとつで決まります。神様は、誰もを天国に住まわせたいと思っています。各人の魂の成長を待ちかねているのです。

 

人間の親である神様に、ご恩返しをする意味でも「外の心」を捨て、「内の心」で生きなければと思います。よい種をま蒔き、心の雑草を刈り美しい花が咲くような人生を築こうではありませんか…。

 

〈後述〉

つい、厳しい文章になってごめんなさい。どこまでもあなたと共に考えて、一緒に歩きますので遠慮なく相談して下さい。お互いに未熟な者どうしです。寒い冬の後には、必ず春がやって来ます。試練はいつまでも続きません。夜明けはも冬の後には、必ず春がやって来ます。。夜明けはもうそこまで来ています。さあ、頑張りましょう。

 

[解説] 宮下先生がせっかくいい文章を書いていい感じで終わっているので、解説をつけるのはやめようと思ったのですが、気が変わり短く付けさせて頂きます。

 

文中のKさんのように、神様のことを信じようとしても、眼の前の不幸に気が取られて、助けてくれないなら、悪魔に魂を売ってやるとか、神に逆らってやるとか思う人は多いです。そのときは勇ましい気持ちになって大きな気分でいられるかもしれませんが、子供が泣きながら強がっているような状態なので、恥ずかしいので、止めたほうが良いです。

 

喧嘩っ早い人は、自分を舐めるなよと思うかもしれませんが、神と人間では勝負になりません。

 

悔しい気持ちも分かりますが、もう一度ゲームを上から眺め直す必要があります。

 

私達は、自分で選んで人間界に来ています。人間界に来たくなければこなければいいだけで、そういう魂もいるようです。人間界にこなければ、人としての苦しみもないので、そういうのは絶対嫌だという方は、こなければ良いのです。

 

ではなぜみんな来てしまうのか?それは、人間界での修行が魂のランクアップに効率的で便利だからです。肉体を通じて苦痛を感じることで、修行効率がアップするのです。肉体がなく苦痛も喜びも半減か、あんまりない状態だと、学びが遅いのです。まあそりゃそうですね。机上の空論状態ですから。

 

ポイントは、あの世の状態が主で、こっちは練習だということです。もちろん、練習だと丸わかりだと緊張感がないので、記憶を消し、真剣勝負にして臨むわけです。

 

ここがはっきりわかっていれば、別にこっちの人生で何があろうと、ある程度客観的に自分を見ることができるわけです。随分ついてないけど、そろそろ霧も晴れるだろうとか、早く晴らすために、ちょっとでもいいことしておこう、となるわけです。

 

自分が死んだあとに、自分の人生のドキュメンタリーを見る姿を想像して下さい。結構笑えてくるし、肩の力も抜けてきます。ええ、そうなんですよ。地球以外も含めたら数百、数千と燐廻転生してたら、1回1回の人生なんて、そこまで深刻なものでもないのです。金持ちのときもあれば貧乏のときもある。イージーモードのときもあれば、ハードモードのときもある。他人の周回数だってわからないんだから、他人と比較しても意味がないのです。5周目と20周目の人間じゃあ目的も難易度も違います。5周目が20周目に合わせるならいいですが、逆だとダメでしょう。お前はもっと先にいかないとダメだろうとなります。

 

神に当たったところでダサいだけです。そりゃあ私も悪態はつきます。ただそれでも結局、徐々にそれを減らして行くわけです。なぜなら、途中で、意味がないな、時間の無駄だな、と気づくからです。そんなことをしている暇があったら、このブログを書いてさっさと寝ようということになるわけです。