⑸魂入れとは何か

 

魂入れとは、お寺の仏像もそうですし、先祖代々の位牌や故人別の位牌などもそうですが、魂入れをして初めて生きてきます。魂入れをしないとただの物です。例えば、亡くなった父親の位牌に魂入れをしたとします。一般的には、父親の霊はその位牌にいつもいると考えがちですがそうではありません。

 

父親は、あの世で仕事をしたり、遊んだり学んだり、この世と同じような生活をしています。魂入れとは、この世とあの世をつなぐ窓口というかアンテナの役目をすることです。魂入れをしないとアンテナがないから、あの世とこの世の交流が出来ないのです。

 

それでは、いつも位牌にいないのなら、声を掛けても何かお供えしても父親には通じないと思うかも知れませんが、そうではなく、こちらの思いや感情は位牌というアンテナを通して瞬時に伝わります。

 

UnsplashDavies Designs Studioが撮影した写真

 

仏像の魂入れも同じことで、仏像の中にその仏の魂はいつもいるのではなく、あの世でそれぞれの役をして働いています。参拝に来る人たちの願いや祈りは、ちゃんと聞き分けています。

 

神札も同じことです。魂を入れることにより命を持ち、あの世とこの世のアンテナとなるのです。神札を家に祀って祈るということは、神札を通して見えないあの世の力を貸してほしいと願っていることです。

 

この場合は、祀られている神札の霊格に応じたあの世の世界から、守護なり障りなりがきます。一般的には、祀ってあった神札をお返しする時は、一年間のお礼を申し上げ少しお供え物などをして感謝の意を表してから返して下さい。

 

何かいわく付きのお札や、霊能者、祈祷師などに作ってもらった物は必ず魂抜きをして納めて下さい。魂を抜かないで納めると、いろいろの障りがきたり、納めた後も悪い念がくることがかなりあります。特に、暗黒界からの障りはあります。

 

だから、霊的な力があるなどという人の書いた物や念の入ったものは、飾ったり拝んだりしないで下さい。このような、霊力のあるという人の背後の霊は暗黒界か、光明界でも一番下層の低級霊だからです。

 

本当の正しい高級霊は、人間を操り不思議な現象を起こしたり損得に関わるようなご利益的なことは致しません。あくまでも、心の成長に目を向けています。

 

それから、有名な神社では新年の初詣で、何十万人、何百万人もの参拝者が来たとテレビや新聞で報道されたりします。神様は一度に、何百万人、何十万人の願い事を聞き届けて下さるのかと思うかも知れませんが、神は一人一人のことは聞いていません。宇宙の法則があってその道理の通り働いているということです。

 

どういう事かというと、例えばAさんが神前で家内安全、無病息災で過ごせますようにと祈ったと致します。祈りは、目の前の神とは関係なくAさんの潜在意識を通って天の神に届きます。天は宇宙です。宇宙には、因果応報の法則があります。

 

Aさんが、常日頃どういう生き方をしているかで、この願いは叶ったり思うようにいかなかったりします。目の前の神の力ではありません。本人の、心次第の姿が現われてくることになります。

 

神仏に頼りたい気持も分かります。神仏に依存するのではなく、自分の心を正してみませんか。自分の魂を磨いてみませんか。自分が変われば、神仏に祈らなくてもすべてが良くなります。

 

――以上、神社やお寺参りについて何か参考になって頂けたらありがたいです。

 

お釈迦様も人間の愚かさを見抜いて、常に〝明鏡止水〟の心境にあることを人々にすすめています。これは、昔も今も変わりません。どんな人間であっても感情的になるとまともな発想ができなくなるからです。

 

たとえば、無一文から億万長者になったポール・マイヤー氏によれば、成功する理想的人間とは、金銭とか地位とか権力を人生の最終目標とするのではないと述べています。

 

健康面、社会生活面、教養面、精神面、経済面、家庭生活面のすべての調和を保ちながら、自分の持つ潜在的可能性を追求していける人を指し、こうした生き方に成功した人間こそが、幸せになれるのだと言っています。

 

仕事でも社会奉仕でも何ものかに一所懸命打ち込み、情熱を燃やすことができるということは、それに価値観を認め、やらざるを得ないという使命感があるからです。それは一種の信仰といってもよいのではないでしょうか。

 

信仰とは、何も特定の神仏に祈りをささげることだけを指すのではなく、絶えず自分の眼前にある目標を目指してひたむきに努カし、遂行している人の姿だと思います。

 

おそらくそうした人は、自分自身が魅力ある人間になっていることに気づいていないかもしれないが、自分のやるべきことに魅力を感じて邁進しているうちに、いつのまにやら本人自身が、魅力的な人間になってしまうのだと思います。

 

何に出会っても驚き、感動する心を持ち合わせていない人には、おそらくこの世はつまらなく、生き甲斐がないとボヤクことになるのだと思います。

 

それから、世の中のすべてのものは、人間であれ、その他のものであれ、どれひとつとして〝わがもの〟というものはなく、皆、宇宙自然の生命のはたらきの一部分であることがわかります。

 

私たちは、それを預かっているに過ぎないのです。にもかかわらず、人間だけが「これは自分の所有物だ」と自己主張し、〝わがもの〟を〝他のもの〟と区別してそれぞれが領有権争いをしているのです。

 

皆さんも一緒に考えてみて下さい。自分の体も所持品も、肩書や地位や名前も、縁あって仮に自分のところに集合した預かり物であって、それらを自分の所有物だと自己主張することは、とんでもなく僭越だと思います。

 

その預かり物でもある肉体において、働くとは「ハタをラクにする」ことであって、自分がラクをすることではないのです。ちょうど、ローソクは自分の身をけずって他を照らしているように、私たちはどんな人間であってもそれぞれの持ち味があり、それらを生かし、出し合って持ちつ持たれつの社会を形成しているのです。

 

お互いが、他の奉仕や犠牲のもとに生かされていることを知ったならば、自分だけが甘い汁を独り占めにし、怠けてラクすることは申し訳なくて出来ないはずです。はたして、私たちは、どんな持ち味をもって社会に寄与しているだろうか、自問自答してみる必要があると思います。

 

手助けのできない者は金品で、金品のない者は技術で、技術のない者は知恵で、知恵のない者は笑顔で、笑顔のない者は心がけで他を明るくし、社会に奉仕することができるのではないでしょうか。

 

私たちの人生にも、世間からあらゆることを学びとると同時に、その学んだことを今度は世間に伝えるという大事なことがあると思います。つまり、入力(インプット)と出力(アウトプット)の二側面があり、そのいずれも、けっしてないがしろにできない大切なことだと考えます。

 

学び取っただけで自己満足し、孤高を保つ人もいますが、それではせっかく自分に蓄積されたものが世間に還元されず、人々の利益とはなりません。

 

世間から学びとったものは、それを自分の中で徹底的に玩味し、そこで得られた体験内容を他人に伝えるという新陳代謝があってこそ、自分の生命が世間に生き、社会が進歩する一助にもなるのではないでしょうか。

 

この自利・利他の精神を汲みとって、お釈迦様が自分の悟りの内容を他に伝えようと決意したことから、その教えが今日まで伝わってきたように、この『心の友』誌を読んで下さって、少しでも参考になることがあればその知識を生かし、悩み困っている人に手を差し伸べてみて下さいませんか。

 

誰でもが、神様から見れば可愛い子供であり兄弟姉妹です。みんなが、真理を知って幸せになってもらいたいです。

 

いろいろ書いてきましたが、再度疑問点が出てきましたので、神様にお教えいただきました。

 

①神社やお寺から受けてきたお札をお祀りする場合、神棚に榊や米、酒、水などお供えするように今まで指導させて、もらってきましたが、このようなお供えものは一切いらないとのことです。

 

②神社やお寺のお札をお返しするときは魂抜きをするのがよいそうです。でも、皆さんは、抜くことが出来ませんので、次のようにしてください。

 

家の中に祀ってあるいろいろの神札を一ヶ所に集めて「神様長いこと、我が家を御守護下さいまして誠に誠にありがとうございます。お役目がおわりましたので、何とぞかかわりある御本殿におたち戻り下さいますようお願い申し上げます。本当に長いこと御守護いただきましてありがとうございました。」と言ってその後、その神札を神社に納めるか、おたきあげしてください。その時に、塩、米、酒など何もお供えしなくてよいそうです。

 

受けてきたお札は、机やタンスの中にほうり込んで忘れたり、雑には扱わないで下さい。

 

きちんとお祀りできない人は、もらってこない事です。出来る人でもなるべくもらわない方がよいです。他力に頼るのではなく、自分に内在する神性を磨いて下さい。神性は創造主とつながっているからです。