〈追記〉

以上のように、神社や寺院に参拝しないで下さい。お札は、もらわないで下さいと書くことは神社や仏閣の営業妨害になるのではないかと心配しました。また、お不動様を信仰している人達にも不快感を与えるのではないかと躊躇もしました。

 

お釈迦様も「経集」の中で、例え真実のことでも、相手のためにならないことであるならば語ってはならない。しかし、真実であり、しかも相手のためになることであれば、例え相手に不愉快なことでもあってもそれを語るべきであると述べています。

 

当然、高級霊様にも、書いて宜しいですかとお伺いしました。高級霊様は、真理は伝えるべきである。心配は要らないから書くようにと申されました。それで、ここに書かせてもらいました。

 

UnsplashHan Chenxuが撮影した写真

 

当院の患者さんに、治療をしながら神社や寺院には参拝しないほうが良いですよと話し出してから、数日後のことです。治療中に突然ヒラメキました。それは、次のことです。

 

⑴神社や寺は、本当に人を救う力を持っているのでしょうか。

 

私たちはどうも、神社やお寺は困った時に拝むとか、何か目には見えない不思議な力を与えてくれて助けてくれるものと、一般の人は自分に都合の良いように神仏というものを考えているのではないでしょうか。

 

お経や祝詞もそうです。お経や祝詞とは、ありがたく唱えることによって助かり、運が良くなるのではないかと自分で思い込んでいるだけではないでしょうか。神社仏閣の祝詞やお経は、本当にそんな力を持っているものなのか疑問です。

 

私たちは本当の意味も知らず、ただ有り難いの一点張りで、昔から言われてきたしきたりに従っているだけではないでしょうか。これは、因果応報の原理から考えてもおかしなことです。

 

神や仏が祀られた、最初の原点に戻って考えてみたいと思います。本当の神とは何だろうか、本当の仏とは何だろうか…。仏教とは、お釈迦様から始まったことです。お寺は仏教に属します。不動明王や十三仏、観音様、阿弥陀様、いろいろ居られますがすべてはお釈迦様が基になっています。

 

それならば、釈迦の本心はどうだったのかと考察してみたいと思います。

 

ある日、釈迦に弟子のラーダが「悪魔、悪魔といいますが、いったい、悪魔とは何ですか?」と質問したことがあった。これに対して釈迦は「色は悪魔である。ラーダよ、そのように観じる(思いめぐらして真理を悟る)がよい。心ある者は、色をきらい離れるがゆえに解脱する」と答えている。

 

すなわち、「色」とは自我意識といってもよく、人間の欲望は物質的、経済的なものばかりでなく、名誉欲や権力欲、食欲、性欲、睡眠欲など限りがないが、それらを自己実現のために充足させようとすると、悪魔という擬人化された存在が内心に意識され、その誘惑を受けると考えられた。

 

だから、欲望(仏教では無明といい、キリスト教では原罪という)にとらわれて、そのなすがままに身をまかせると、悪魔に支配され、人間性を喪失すると戒めたのである。

 

よく世間では、「自分より悪いことをしている者が幸運な目に遇っている。それにひきかえ、自分はこんなに真面目に努力しているのに、不運続きなのはどうしたわけか」とばかりに世を呪う人がいるものだ。

 

たしかに悪の報いが熟しない間は、悪業を重ねている者でも幸運に遇うことがある。しかし、悪の報いが熟したときには、いつしか不運に見舞われるものである。同様に、善いことをしていても、その報いが熟しない間は不運に見舞われる。

 

しかし、善の果報が熟したときは、いつかしら幸運に遇うものである。それがいつであるかは私たちに知らされていないが、この悪因悪果、善因善果の因果応報の原理が事実としてあることは、過去の多くの例がよく証明している。

 

あるとき、釈迦がラージャグリハ近くのナーランダーへ伝道におもむ赴いたときのこと、そこの村長と次のような問答を交わしたことがある。村長が、釈迦に向かって云った。

 

「西方から来たバラモン族たちは水瓶を携え、ユリの花環をつけ、沐浴して身を浄め、火を礼拝して死人の名を呼び、昇天させようとしていますが、師も世間の人々が死んだとき、このように昇天させて、どこかよいところへ導こうとなされるのですか?」

これを聞いた釈迦は、こう云った。

 

「もしも、ここに次のような人がいるとしよう。彼は殺人者で、盗人で、快楽にたんでき耽溺し、嘘をつき、ひわい卑猥な言葉を吐き、意地悪で、どうしようもない乱暴者であったとしよう。いま、その人の死後、よいところに昇天できますようにといって多くの人々が彼のために祈願し、礼讃し合掌したとして、その人は死後、天界に生まれることができるだろうか…」と、問い返した。

 

村長が、「そんなことは考えられません」と答えると、釈迦はなおも、「たとえば大きな岩を深い湖に沈めて、これを多勢の人々が集まり、岩よ浮上せよ、といって合掌して祈願しながらその湖の周りを歩いたとしたら、その祈願によって岩が浮上してくるだろうか」と、問いかけた。

 

村長は、「そんなことはありません」と答えると、釈迦ははじめて、「そうであろう。いくら呪文を唱え、合掌し、祈願をしても、それは何の効験を現わすものではないのだ」と説き、村長はその教えに納得したという。

 

またあるとき釈迦は、水浄の法を行うバラモン族に出会ってからこういう質問を受けた。「師よ、あなたはどこの河へ行って水浄の法を行ずるのか」と問いかけられると、釈迦は「いくら沐浴したところで、深い罪業は河でも清められない。河は、ただの水槽にすぎない」と答えている。

 

当時の人々は、たとえ悪業(悪行)を犯しても、バラモン教(仏教が起こる以前に、バラモン族を中心に発達したインドの民族的宗教)の僧によって祈願してもらったり、河で身を清めれば罪は消えるものだと信じていたらしい。

 

しかし釈迦は、もしそうしたことで罪が消え、死後よいところに生まれることができるのであれば、生きている間に善業(善行)を積む必要もなくなり、「地獄のさた沙汰も金次第」で人倫の道は、すたれると考えたのである。

 

師の教えはあくまでも「因果応報」の原理にもとづき、人々がよい目に遇うのも、悪い目に遇うのも、すべて自業自得で、自分のなしてきたことの報いは必ず自分に返ってくるというのである。

 

これを知ってか知らずか、今日でも、ふだんの自分の悪業(悪行)や怠け心を棚に上げて、イザというときには「困ったときの神頼み」で、祈祷や呪術に助けを求める者が何と多いことか…。

 

ここでも、お釈迦様が言っているように、沐浴して身を清め、何かに祈り昇天させようとしてもそれはダメだということです。つまり悪業を犯し、僧によって祈願してもらったり、イエス様にざんげ懺悔したり、水で身を清めたりすれば、罪が消えると信じている人がいるがこれもダメだということです。

 

自分の悪業や怠け心を棚に上げて、いざという時には「困った時の神頼み」で祈祷や呪術に助けを求める者がいるが、それもダメだということです。因果応報の法則があるからです。

特定の神仏を信仰したり、宗教団体に入信したりする人々にその動機をただしてみると、たいがいの場合、自分がいま直面する〝貧・病・争〟の悩みや苦しみから救われたいからだといいます。

 

困ったときの神頼みで、ワラをもつか掴む思いで神仏にすがりつくのです。そうした功利的な気持で入信しても、棚からボタ餅式にご利益は得られません。

 

そこで、自分にとってご利益がありそうな宗教を手許にたぐり寄せ、霊験あらたかであればその宗教は真理だ、真実のものだとしてあがめますが、そうでないものはニセモノか不要のものとして避けてしまっています。

 

本当の神は、そうした個人の趣向に迎合するような神ではありません。むしろ、自己偏見を捨て、〝貧・病・争〟のあるなしにかかわらず、人生にまつわる諸問題の根本原因を究明して、世の中を支配する宇宙の法則にのっとって、それらを解決することを望んでいます。

 

⑵なぜ神が必要で、神として祀ったのでしょうか

 

私は仏教にも、神道にも詳しくないので私の偏見ですが、例えば不動明王について考えてみます。不動明王は、戦の神様で魔も断ち切る力を持っていると聞いています。仮に、戦の神であれば、勝たせて下さいと祈ると結果的に相手を殺すことになります。

 

これは、身勝手な願いです。本当の神は、すべての人間は自分の子供であるから、誰もが可愛く誰もの幸せを願っています。片方が身勝手を通して、相手を苦しめることは許しません。だから、自分勝手な思いとは暗黒界の霊たちの想いと同じことになるのです。

 

「外の心」を強く持っている人は、当然に暗黒界の霊とつながり、暗黒界の霊を祭主にしてしまっているのです。私たちは、自分の命は自分の所有物であるかのように考えがちですが、その命は、すべての命を生かしている根源主体(創造主)から派生したものであって、自分だけのものではありません。

 

ところが、命の根源を他と共有していることを忘れて、自分の命と他の命を区別して自分だけ生き延びたいと願い、それぞれが多元な虚構(フィクション)の世界に安住しようとしています。そこからは、人間同士の競争や対立や反目しか生まれず、お互いが自分の首を絞めては思い悩んでいるのが実情のようです。

 

釈迦は、そうした生き方は真実ではないと気づき、お互いの命の公分母(元)である根源に触れ、自分の命は他人の命でもあることを悟ったのです。だから、このように真理を悟ったところの霊を、主祭神やご本尊として祀っている神社やお寺には、お参りをしても良いと思います。

 

しかし、ほとんどの神社や寺は、もう儲かりますように、自分の所がよくなりますように、希望が叶いますようにと、物欲や世俗欲など自己中心的に価値観をおいてしまっています。こういう心で祀り込んだ主祭神やご本尊だから、暗黒界や低級の霊と波動があった神社やお寺になっているのです。

 

[解説] 宮下先生のメッセージは、普段は神の世界を意識したり人助けをしたりしていない人が、いざという時だけ神頼みをしても意味がないということです。メッセージの2つ目は、本当に力のある良い神様は限られているので、むやみやたらに神社仏閣を参拝して、変な悪霊に漬かれないように、ということです。

 

大神様・親神様の教えの中に、地元の氏神様には参拝した方が良いというのがあるので、神社仏閣参りのすべてが悪いわけではありません。基本的に、自分が生まれた場所の氏神様や住んでいる場所の氏神様にお参りするのが原則であり、たまの旅行で、神社仏閣参りすることぐらいはよいと思います。

 

治療院の本業の治療の傍ら、霊障の相談に無料で乗っていた時に、あまりにも神社仏閣の障りが多い人がいたために。今回の内容を書いておこうと思ったのでしょう。