[解説] 今日は本当の神とは何かについてです。私たちが人間界にいる以上、どこまでいっても、霊界についてすべてを知ることはできません。いずれあの世に帰ればはっきりすることです。今日の記事は、個人的には後半部分が参考になると思っています。

 

大神、親神を本当の神だと言うのです。ほとんどの人はこれに納得しません。本当の神の証明は難しい、世の多くの人達が自分に天降った神が唯一絶対の正しい神で、力のある神だと言うのです。

 

それらの人達は他に天降った神は偽ものだと言うのです。その真偽を見定める事は難しい。私達もここで我田引水になるを防ぎ、私どもの信ずる神を申し述べることにします。拝見すると天降られた神のなかには、金儲けに夢中になり、教えのない教団も多い。また心の成長に主眼を置いた神もおられます。釈迦の生まれ変わりだと言う人もいます。○○教祖の生まれ変わりだという人もいます。私どもの信ずる偉大なる大神・親神にお伺いすると、それらに天降った神は本物でないと、違うとお教え下さいます。しかしそれが真実であろうとなかろうと、世の中に役立つ働きをして下さるものならば喜ばしいことです。大いに世の人達を啓蒙して心造りに役立ってもらいたいものです。

 

いろいろの場所に絶対神である大神・親神の命を受けた神々が天降って、それらの人を指導して世直しに役立ってくれることなら大変ありがたいことです。何も天降った神の力の優劣を競うことはないのです。その神が正しい神であるならば、そこで説かれる話は永遠に不滅のものであり人の心を揺さぶるものであると思います。

 

またそこには奇跡が現われると思います。天降った神が正しいか否かの判断の一つとして、天降られる台となる人間性を見ることも大事だと思います。その台となる人が偉ぶったり、着飾ったり、思いやりが欠けていたり、身体が常に病気がちであったり、金銭にこだわるような人であれば、それは真実の神ではないと思うのです。神は立派な社や神殿はいらないと申されています。

 

私達の心の出発点は神の分け魂である。自分の心のなかに大神・親神の心を祀れる場を造らねばならない、そして常に大神・親神と心が結ばれていたら、そこに不幸や悩みは生じないのです。

 

だから台となるべき人が、私達の出発点の魂はきれいであったことを教え、何回かの転生の繰り返しの過程において汚れた垢や曇りを取り除き魂の成長を助けるような指導をして下さる人は、真実の神が天降っていると考えてよいのではないでしょうか。

 

神がついて指導して下さる場合にもいろいろあります。単に神がその守護神として指導して下さる場合、因縁により天降った場合、神の強い意志の下で神の代理人、神の社としての用向きの場合は、必ず神の入り込みに際して台となる人は肉体的に大変な苦痛があり、入り込み中はその苦痛が続くのが常で、この痛みが台となる方の修行でもある訳です。このような痛みは入り込みが終ると元の健康な状況に戻りその後は健康な状態が続きます。身体がいつもどこか調子が悪いということは、正神の場合はありえません。このように信ずる大神・親神は申されます。

 

特定な信仰を持たない私が、いたらぬながらも神の下僕の一隅に道具としてお使いいただくようになれたのも、多くの教祖、先達の人達の書いた教えが元となっており深く感謝する次第でありますが、このような偉大な教祖、尊敬する先生方でさえ、他界した後、すべての人が明るい所へ行っているかと言えば、暗い所にいる人達が多いと教えられますと、生前に相当に修行を積まれた方でも、地位や名誉や権力、金力が身について来ると、心を低くし高慢にならず、裸の心でいることがいかに難しいかが分かります。

 

常に己を省みて、謙虚に反省しなければならないと思います。人間はこの世でいかに努力し、精進しても神の心に至るにはほど遠く、自力では決して人を救ったり導いたりはできません、ただ神の力を、お借りすることによりそれが可能となって来るのです。

 

しかし力がないからと言って何もしないことは一番悪く、常に力はなくとも、人にどうしたら喜んでもらえるかという、気持ちを持ち行動するところに神の守護があり、自分の魂が磨かれ、次のよき運命への道が開かれてゆくのです。

 

[解説] 修行に励み、悟りを開きつつあった人でも、権力やお金を持つと転落してしまうというのは、この世界の修業の難しさを物語っています。

 

揺らぐ心のブレを少なくして、欲に惑わされずに、最後まで走り抜けるかというゲームなのだと、何度も言い聞かせて走り切るのがよいと思っています。あの世に帰って、失敗してしまったときの悔しい気持ちを想像できれば、いっときの欲に負けにくくなると思うのです。