Yさんが、脳出血の手術を受けて、もう十ヶ月は経つ。今だに意識が回復しないという。Yさんは、以前は当院の患者であった。離婚をして、子供もない独り身である。小さなお店を経営し、爪に灯をともすような節約をして、財産を築いてきた。老後の用意だ、とよく話していた。Yさんにとって、頼れるものはお金だけだったのである。小さな家と貯金もでき、これで少しは安心だと話していた。

 

当時は、持病の肝臓が悪くて来院していた。病気に関しても、人一倍の神経を配っていた。当院の治療の効果も良かったことから、Yさんのお店のお客さんを患者さんとして多く紹介してくれた。ありがたい人だ。そんな関係から、個人的な悩みの相談も受けた。しかし、神様や障りの話は嫌いであった。私が神の話に熱が入るにしたがって、Yさんは遠ざかった。

 

何か変な宗教でも始めたのかと勘違いしたのかもしれない。患者さんの中でもうこなくても良いですよ、という方もおれば、まだ来ていたほうが良いのに、と思う人もいる。また、このままこなければ先にいってなにか悪くなるだろう、と思う人もいる。Yさんもその一人で、先にいってなにか起こる気はしていた。これは、長年の「勘」である。

 

だから脳出血で入院したと聞いたときも、やはりそうか、と思った。Yさんが命の次に大切にして築き上げた財産、老後の安定のためにと旅行もせずに蓄えたお金、そのお金はYさんの病を救うことはできなかった。そればかりでなく、聞くところによると、普段付き合いのなかった身内の者が陰で、残された財産の件で腹の探り合いをしているという。

 

遺産が減るといって、医師の要求する付き添いの人も付けないという。Yさんの気持ちはどんなだろうか。周囲を見回したとき、Yさんと同じように一生懸命に財産を残し、財産に安心を求める人がなんと多いことか。苦労をして立身出世した人ほど、子供には苦労をさせまいと財産を残し、甘えて育てる。世間をみると、人生の目的を財産を築くことに置いている人が多い。

 

財産とはなんであろうか。どう考えるべきか。財産は、本当にその人を幸せにするのだろうか。私たちは、地球上で生きている。地球という定められた限度の中で生きている。だから、土地にしても植物にしても無限のものではない。私たちが暮らしていく上には、十分すぎる自然の恵みが与えられている。ただし、これは皆が仲よく平等に使っての話である。

 

中に、独り占めして他人の分も多く取り込む人がいると、その分不足してくる人が出る。神様は、可愛い子供の人間たちを皆幸せにしたく、だれにでも平等に土地も植物も、その他必要なものを与えているのである。お金も、人間が暮らしていくための便利な道具として考え出した手段にすぎない。一度地上に大異変が起きたら、お金も財産も何の価値もない。

 

私たちは、元々神の造られた天地自然の恵みを自分のものと思い、勝手気ままに使っているにすぎない。金持ちの家に生まれた子供が、晩年まで財産を持ち続けるとは限らない。また、貧乏人の子供が努力奮闘して金持ちになっている例もよく見掛ける。神様は、貧乏人の子供、財産家の子供、となぜ赤子に差別をつけたのだろう。

 

財産家の子供は、親の悪因縁、または家の悪因縁、あるいは本人の前世の因縁を消すために、その費用を与えられたのではないだろうか。つまり、今世において徳を積み、前世より受け継がれてきた因縁を消す消化代、として与えられたものではないだろうか。だから、親から受け継いだ財産は、自分一代で徳積みに使った時のみ、晚年まで幸せに過ごすことができるのだと思われる。

 

逆に物欲にこだわり、その財産を減らすまいと物にばっかりこだわったとき、病や事故や災難に遭うのではなかろうか。親からもらった財産は、自分の代で世のため、人のために使いきり、さらにその徳のお陰で新たに築いた財産は、子供に残してやることは問題ではないだろう。よく、親の残した財産を減らしては申し訳ないという人がいるが、元々財産そのものは神のものであり、そのとき与えられている財産はその人の努力と徳分と神の考えにより、貸し与えられている使用権である。

 

つまり、管理を任されているにすぎない。財産を受け継いだ子供ほどその使い方を神様に試される運命にあることになる。財産のない家の子供は、障りの点を除いては持ち越しはないかもしれない。また、一生懸命努力すれば健康にも運勢にも恵まれて、良い晩年を迎えられるかもしれない。そう考えると、財産家に生まれた子供が幸せとはいえない。

 

子供に財産を残すよりも、まず「人としての道」「神によって生かされていること」「財産や金は運勢や運命を強くするために使うもので、使わないで溜め込んだお金は死に金で何の役にも立たない」等を教えることである。Yさんも、もし溜め込まずにもっと神の道具となるような生き方をしていたら、脳出血などにならなかったと思う。なぜならば、身体は神が貸し与えているからだ。神はYさんに、このままでは反省の見込みがないと思ったゆえ、病を与え反省を促しているのである。

 

いくら権力があり名医を揃えても、神の守護がなければ食べることも動くこともできない。人間の思い通りに動くものではない。神の計らいの中で神の思いにあった動きをしているときにこそ、思い通りになり安心した生活ができるのだ。お金や財産は、運命を好転させる方法の一つではある。しかし、お金や財産が運命を支配するものではない。その使い方が大切である。亡くなってあの世に持って行けるものは、生前に積んだ徳と魂を汚した埃や悪因縁だけである。

 

健康と住まいと良い家族を与えていただいたら、この上何の不足があろう。財産があるから幸せかというと、そうでもない。そのような人に限って、もっと欲しいもっと欲しい、と不足の心が沸いてくる。しかし、借家でも家族仲良く健康でありがたいありがたいの心なら、裕福の心だ。天は二物を与えない。財産にこだわる人は、必ず何か別の悩みがある。

 

例えば病気とか子供が悪いとか……。人間には苦労は付きものだ。その苦労に出会ったとき、それに負けてしまうか、逆にその苦を積極的に受け止めてそれを喜びに変えるかで、その人の人生は大きく分かれる。人は一人一人生き方が違い、考え方も異なる。この世に起こるあらゆる事は、すべて大神、親神の御心の中にある。親である神は、何もわざと人間に苦労を与えているのではない。すべては天の自然の理に従って起こるべきものは起こり、成るべきものは成ってくるのである。その元はすべて、自分自身にある。

 

自分自身で蒔いた種は、自分が刈り取らなければならぬのが、天の法則である。だれも肩代わりしてやることはできない。与えられた財産をどのような徳にするか、悪因縁に使うかは、本人の心次第である。死に金にしてはならない。財産を与えられた人は、与えられない人よりも難しいのだ。

 

この世に現れた現象、例えば苦しいこと困ったことはすべて、人間個人個人の心の成長を促し、魂を磨くためのものである。仮に苦労のない人生だけを送っては、魂の成長も精神の成長も望めない。人間一人一人の成長を求めるがゆえに、その人に応じた苦しみや困難を与えているのである。神はアメをくれることもあるが、拳骨をくれることもある。それが真の親である。すべて我が身に起こる事柄は、心の成長のための糧だと悟り、喜び勇んで通ることが大切である。

 

Yさんのように、財産やお金に老後を託すよりも、人のために神の道具となり、神が放っておけないという人になる方が、どれ程安心して晩年を過ごすことができるか……。いつでも死を喜んで迎える心造りが大切だ。

 

私はいつでも、お返しできる用意ができている。