親神様は、病気や不幸は神の道を教えたく手引きしているのだと申されています。いろいろの病や悩みを通じて、我々人間を常に明るい道へ、間違いのないようにと手を引いて下されています。我々は、その温かい導きの手に従って道を辿るならば、踏み迷うようなことはないはずです。それを自分勝手の我の心で好きな道を行こうとするから、正しい道を見失う結果になる訳です。

 

それはちょうど、日が暮れて道に迷い、灯もなくおなかは空くし、寒さと怖さで真っ暗闇の山の中を迷っているようなときと同じで、現実の生活の中には、一体どうしたら良いのかと行き詰まり、心苦しむ時もあると思います。そんなとき神様は、暗がりの中は神の声を頼りについてこい。夜が明けたならば、なるほどという日があるほどに、と言われています。

 

苦しいときは親の思いを振り返り、親の教えを台に、親に手引かれる道について歩くことだと思います(目先の御利益信心では駄目だと思います)。我々にとって、辛く苦しい時こそ、実は明るい明日への一つ一つの道明けであります。節から芽が出ると言われています。必ず良くなると、前のみを見つめて歩きましょう。

 

各人がわれ勝手な生き方をしている姿は、ちょうど根なし草のように、枯れていくより仕方ない生き方で、行き先は細く狭まり、危なく、怖いところへと行き着いてしまいます。神様は、「この電車に乗れば幸せの駅に行くが、間違った電車に乗れば谷底に落ちるぞ」と、いろいろと知らせ、信号を送ってくださっているのです。元来、病気や不幸は、親神様より人間それぞれに対して、「お前の心使いは、自分本位の我が身のことばかり考えて、陽気暮らしへ向かって歩む道からは逸脱しているぞ。一回ここで立ち止まってよく振り返り、思案しなさい。そして心改めて、明るい明日への道を新しく踏み出しなさい」と、信号を投げ与えられているのです。

 

ところでこの信号は、時には子供が可愛いからこそ、厳しい意見という形になって現れることがあります。しかし、ただ単に罰を与えたり、いじめたりするのとは根本的に違います。

 

親の心を知ろうと思ったら、親の心になって考えてみることです。人の子の親が、わが子を育てていく中に、子供の将来を考えて、「今のままでは先行きが心配だ」「今のような生き方(通り方)では、将来幸せになり得ない」と思えば、厳しい意見もし、叱言も言い、時には叩いてまでも注意して叱ることもあります。それは決してわが子が憎いからではなく、子を思う親の思いからであります。人間の親である親神様の思いもまったく同じであって、子を思う故の助けたい一筋の思いなのであります。

 

その様な切ない親の思いを私たちは、病や不幸の中から悟らねばならないのであります。親神様は、子供は皆可愛いわが子ですから、どのような中でも我々人間を良きに連れて通ってくださろうとしています。どのような暗がりの中でも(困難な中でも)必ずや通り抜けることができるはずです。仮に、夜の暗がりは提灯でも、懐中電灯でも、灯をつけて注意深く歩くならば、怪我なしに歩けます。

 

日光の燦々と降り注ぐ明るい昼間でも、もし心がここになく、何事かに心を捕らわれて脇見をしたり、何かの考えごとに熱中したり、暗い心で思索にふけったりしていたならば、いつどこで石に噴き穴に落ち、川に嵌まり、岸を踏み外すなど、どんな大怪我をしないとも限りません。神様が、どれ程助けてやりたいと力を貸してくださっても、受ける側の本人の心がそこにないならば、何の効果も期待できなくなってしまいます。

 

人間が自分勝手な生き方ばかりしていては、実は通るに通れない昼の暗がりの道になってしまうと思います。お互いに病気で困るときとか、何か困ったことにぶつかったときでないと神様のことは考えませんが、毎日毎日すべてのことが神様に守られて生きていることに気付かなくてはと思います。

 

人間というものは、身体は神様からの借り物で、心一つだけが自分のもので、その心一つの使い方により、幸も不幸も病気も出てくるのだと教えられています。だからこの心の使い方一つで、不幸も病気も治ると言われているのです。

 

ほとんどの人は、この世は己一人の力で生きていけると思い誤り、俺の力で、俺の腕で、俺の考えでと過信していますが、もし重い病気になり、動くことができなくなり、またいろいろの事情で悩むようになると、今までの過信は消え、人の幸せを妬むようになります。それでも自分の生き方を反省せず、俺が我がという思いは取り切れません。すべての種は自分の心にあるのです。