(1)それは、生きているうちに神様や霊の話を聞いていなかったということ。大神・親神様の造られた世の仕組みを知らなかったと、いうことです。この世 (三次元)もあの世(四次元)の世界も、いずれも大神・親神様の懐住まいであるということです。そして私達は生きているのではなく、神様によって生かされているということです。

 

(2)は魂、つまり命は死んだらおしまいではなく、永遠に生き続けるということ。そして時が来るとまた、生まれ変わるということです。そして、人間が幸せに過すのも不幸になるのも本人の心の使い方、生き方で自由に選べるということを充分に理解しておくことです。これを知らないから、死んであの世に行った時、命は生き続け、しかも暗い所で体が痛いままの状態であったりするから、びっくりしてしまうのです。

 

(3)は、あの世(四次元の世界)に行って暗い所で悩み、苦しみ続けるのは、自分は死んで三次元の世界から四次元の世界に移ったと言う自覚がないからなんです。まず住む世界が違うということ。この移った時に持っていた肉体は火葬なり土葬なりして自然界に帰り、魂一つが四次元の世界に移って来たということです。ですから、死んでから後は肉体はありません。

 

肉体がないから、生きていた時に病気やケガで苦しんだ痛みや苦しみは、ないということです。死んだ後も痛い痛いと感じるのは、自分の魂が生きていたとき痛かったから、そのまま今でも痛い痛いと思っているから痛いのです。肉体がないから、痛いということも寒いということも、お腹が空いてひもじいということもありません。しかし、暗い所にいるということは別問題です。

 

(4)は、人間として生きていた三次元の世に執着心を持たないということです。残してしまった子供の事や、貸してたお金を返してもらわなかった事、あれにいじめられてくやしいとか恨めしいとか、あの土地は自分の物を騙されて取られてしまったとか、そのような思いを持つ限り、暗い所から明るい所へは上れません。

 

よく、本人の前世の因縁の所でお話ししますが、亡くなった亡者の恨みがこの世の人間を狂わす理由はこういうことなんです。あの世に行って悔しい悔しい、敵は取るぞ」と、強い恨みの念を持ち続ける魂は、その事だけで一杯になり、ちょうど太陽の光をレンズで、焦点をしぼって当てると紙が燃え出しますね。あれと同じで魂の出すエネルギーは小さくても、執念の力はレンズの役目をして恨まれている人間の体に入り、そこを痛めつけるのです。

 

しかし、このように念を送り続けている限り、この亡者は、暗い所からは助からないし、亡者自身の苦しみは救われないと、いうことになります。

 

(5)は、亡くなる時の心の持ち方がものすごく大事だということです。どんな状態で死に直面した時でも感謝して、満足した心でいて下さい。これさえできていれば、ほとんど明るい所へ普通の方は行けます。生きていた時、あまりにも悪事をしすぎ、大勢の人を泣かせたりして神様の御心に沿わない生き方をした人は別ですが、この死ぬ時の心の有様が大変大事なのです。

 

天地自然の物はどのような物でも、寿命はあります。ですから、死を迎えた時には、それが若かろうと、天命を全うした年齢であろうと、自分には、今この年が神様が最大限に体を貸して下さった約束の年限が終る時だと、悟ってほしいのです。

 

本当ならば、もっと早く召し上げられたかも知れませんが、また体の使い方、心の使い方が間違って神様の意向に反していた点も多かったのに、ここまで長くお貸し下されたと、感謝すべきです。

 

仮に、ガンで苦しんでいるといたしましょう。その時の心構えは、この痛みは前世に、また今世に自分が犯して来た罪が苦しむ、病む事によって少しずつ消させてもらっているのだ。痛ければ痛いだけ多く消えるのだと、悟って下さい。そうすれば、有難いと、神様に御礼を申し上げることができるのです。そして亡くなって肉体を御返しすれば、当然痛み、苦しみもなくなるのだから、この痛み、苦しみが因縁消しだと喜べるのです。また子供や子孫に伝わる因縁を、自分が消して行くのだと思ったら有難いことです。

 

 

また身体の不自由な子供がいたといたします。親は先に死にきれません。しかし、子供には子供の因縁があり、子供は、今そのような状態で因縁を消し、心を磨いているのだと、またそのような不自由な姿を見せて、周囲の健康な人々の心の成長の道具になっていると悟るべきです。

 

一輪の花にも生存の意義があるように人間が、この世に生かされているということは、必ずそれなりの御用があると、考える事です。親が、あれこれ先の事を心配するよりも、神様はそれなりに生かさせて下さることを信じることです。

 

親がどんなに心を砕き財産を残し、子の行く末を案じても子供に、その徳がなかったなら、その徳だけの生き方しかできないのです。多くの亡者の方々と話してみても、お金を多くあの世に持って行けたとか、土地を持って行けて良かったと、言う人は一人もおりません。反対にそのような財産や物欲に拘った思いのために、暗い地の底で苦しんでいる人が多いのです。

 

どのような状況にあってもそれは、そう成るべき因縁があってそう成っているのですから、すべて有難い、良かったと思う心が大切なんです。そのように思える心造りをしておかなければなりません。それは、どんなに苦しい辛い時でも、ああ、これはこれで有難いんだと、諦めや我慢でなく、心からいつでも喜べる心になる。そういう心造りが大切なんです。これは、死に際して急にしろと言っても無理ですから、生きている内に、元気なうちから常に心掛けていることです。

 

(6)は、私達はいつ死を迎えるかも知れません。突然来るかも知れません。ですから、常に心は満足し、いつでも喜んでお体をお返しできる準備をしておきたいものです。ということは、毎日毎日が、不平や不満でなく、毎日毎日が感謝と有難いという心で生活することでしょう。なかなか難しいですが、心の持ち方を変えていくことが大切です。

 

(7)は、間違って、暗い所へ行ってしまった時のことです。

 

(イ)まず自分で、慌てずに(1)-(6)までのことを静かに考えて下さい。そして人間として生きていた生き方に問題がなかったか、反省して下さい。自分で気が付いたら、すぐ神様にお詫びをして下さい。神様は、声をかけるとすぐ答えて下さいます。

 

(ロ)心は、素直になって下さい。四次元は心の世界ですから、心の状況はすぐ分かってしまいます。人間として肉体を持っていた時は、口ではうまい事を言って腹のなかではベロを出していても通用いたしましたが、霊界では、それは通用いたしません。

 

(ハ)そして、魂は永遠に生き続けるのだから、この暗い所で、少し心の修行をさせてもらうと思って、焦らないで、ゆっくりと自分の人間として生きて来た道を振り返ってみて下さい。自分は、周囲の人にどんな思いをさせて来たとかを。

 

例えば、相手が常識的に考えて悪い場合であって、それに対して恨みを持ったと、いたします。しかし、その恨みを持ったという念は、自分の心に残るものです。勿論、その相手もそれだけの苦しみは受けるのですが、だから心の有り方、持ち方はよほど心掛けていても難しいものです。

 

最後に、胃ガンの病人の方の話をします。七十歳に近い人です。胃潰瘍ということで入院しておりましたが、家族の方には胃ガンであと、半年の命と知らせてありました。ある日、突然病人から隠しているのではないかと追及され、やむなく本当の事を話しました。すると家族の者を呼び寄せ、「私の病気は、胃ガンで、『あと、半年の寿命だそうだ』。だが、いまさら神様に病気を治して下さい。寿命を延ばして下さいとは、お願いしないでくれ。

 

すでにない命を、今日まで延ばしていただいた御礼を申し上げてほしい。本当に因縁以上の長生きをさせていただいた。いずれ苦しむであろう。水も通らなくなるかも知れない。それは、それで結構。今度生まれ直して来たら、今度こそ人様に喜んでもらう生き方をしてみたい」と申し、それからは何の屈託もなく退院して、趣味や友人を招き、俳句や絵を楽しみ、苦しみもせず亡くなりました。

 

以上の(1)-(7)までの心得を知っていたら、死というものは恐ろしい物でもなく、亡くなってあの世に行っても、さらに楽しい暮らしができると思っていて下さい。

 

あの世について少し触れてみましょう。今までは、ほとんどの人があの世、つまり、四次元のようすは分かりませんでした。これは、神様がまだ人間の心が伸びず、話しても無駄だと思われたからです。またあの世が住みやすく、良い所だと教えたら、こちらの世、三次元の私達は自分の修行を捨て、さっさとあの世に行くことを考えて行ってしまうから、困るのです。あの世のことは分からず不安に思わせ、あの世に行くのを、嫌いに思わせているのです。

 

ですから、私達は死を迎えるということは、恐く、嫌なことなんです。死の恐怖、というものは誰にも本能として与えられているのです。

 

しかし、この頃いろいろの方を通して、いろいろの方法であの世の事が分かって来ました。それは、神様が、もうそろそろ人の心も育って来てあの世の事を分からせても、その事によりマイナスになるよりも、そのような世界があることを知ることの方が、私達こちらの世界で住む者の生き方に役立つことが多くなるのだろうと思い、知らせ始めているのです。そこまで、人類の心が成長して来ているということです。

 

さて、こちらの世で神様の心に沿った生き方をした人達は、亡くなっても天国(極楽)に行きます。また反対に、その場その場を偽って自分の気随気ままに自分勝手に生きた者は、当然の結果として地獄に落ちます。

 

これは、誰が考えても当然と思います。あの世は実際には、ここから上が極楽でここから下が地獄という境はありません。ただ、私達肉体を持った人間にはこちらの感覚で話さないと理解しにくいから、このような、例えの話をしているのです。あの世は心の世界ですから、心のなかに極楽を思い浮かべておる者は、極楽に遊ぶことができます。

 

地獄の如き心境で苦しみ続けている人は、地獄の世界へ住むことになります。ですから、私達は生きているこの世にいる時、魂を、心をどこまで高めるかが大切になってくるのです。

 

死という言葉は、皆さんが嫌います。しかし死とは、それはど忌まわしいものでしょうか。魂の転生のなかで通過する一時点に過ぎないのです。

 

今日(今世)蒔く種が、明日(来世)への運勢を決める種であるならば、毎日毎日良い種を蒔き精一杯に生き、仮に死を迎える時が来たならば、

 

「ああこれで、この世の役目は終った。今度は、あの世へ旅立つぞ。また少しでも人様に喜んでもらうような生き方をあの世でもしよう。この世の子供や孫や自分の連れ合いにも少しの心配はあるが、それはまた、残された人達のそれぞれの修行であるから、各人が努力し解決して行けばよいのであって、神様は、決して倒れるような苦しみや困難は与えないはずだ。だから自分は、自分の事だけを考えて、素直に旅立てばよいのである。葬儀には、坊さんも牧師さんもいらない。親しい人達が集って好きだった音楽でも流し、あの世への旅立ちを祝ってくれればよい。あの世に行ったら一息ついて少し休み、それからまた、修行すればよい。もし仮に暗い所へ行ったら、なぜ暗い所へ来たか反省し、素直に神様に詫び、その指示に従えばよいのである」。

 

死は来世への出発点です。何も恐がることはないのです。

 

心を磨く時期

 

今世は、経済的にも、物質的にも恵まれ過ぎるほど恵まれています。他人を傷つけ奪い合わなくても、生きて行けます。心の勉強をする気になればいくらでもできる時です。人を助けて、我が身助かる。悩み困る人に手を差し伸べることばかりでなく、神仏を知らない人、嫌う人に、心が助かる「魂の救済」の救いの手を差し出すことも、大切だと思います。隣人や縁のある方に少しでも、神様の事を理解をしていただくよう努力してみませんか。