2016/5/29のニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160530-00000041-reut-n_ame
<1文で要約↓↓>
動物園で4歳の男児が動物園のゴリラの囲いに落ち、男児の命を優先してゴリラが射殺された。
<もう少し詳しく↓↓>
男児は何度も囲いの中に入りたがるそぶりを見せていた。男児はフェンスをよじ登った後、3.7メートル下の堀に落ち、雄ゴリラのハランベに捕まった。ハランベは男児を捕まえて約10分間も引きずり回したため、危険動物対応チームが「命にかかわる」と判断してライフル銃で撃った。ハランベに麻酔を投与する選択肢もあったが、効果が出るまでに数分間かかるとの理由で却下された。
<ヤフコメの多数を占めた意見の抜粋↓↓>
・フェンスをのぼるのを阻止できなかった親が悪い。損害賠償を親に求めよ。
・ゴリラは何も悪くない。かわいそうだ。
・何で人間のためにゴリラが犠牲にならねばならぬのか?
・子どもが死ねば良かった
・ゴリラは希少価値が高く何億もするので、人間の命よりもゴリラの方が貴重
・人間の命の方が上なのか?(ゴリラの命が下なのか?)
・さすがアメリカ すぐに射殺してしまう
・麻酔銃の選択はなかったのか
<ブログ主の見解↓↓>
まぁ、ヤフコメ見てて総じて多かったのは「親が悪い」「親に全て損害賠償を」というところか。それに関しては賛同する。「ゴリラは罪が無いのにかわいそう」は言うまでも無い。本当に気の毒なゴリラですよ。比較的温和な性格だったと聞くし。
しかし、命は平等とは言え、人間と動物とどちらかの命を選択(優先)せざるを得ない状況になった場合、我々人間である以上、人間を選ぶのが必然の選択ではないのか?
もしヤフコメ民の息子が、動物園で少しだけ目を話した隙に、オリをすり抜けるなりして猛獣のいる場に足を踏み入れたとする。「入った息子が悪いので、息子が犠牲になります!親である私の責任なので、息子が猛獣に殺されても受け入れます!なのでその猛獣を撃たないで下さい!」などと本気で飼育員に懇願できるのだろうか?違うまい。人間とは勝手な生き物だと後ろめたさは感じるだろうが、「息子を助けて下さい!」となるのが通常の感覚ではないのか?
「息子は帰らぬ人となったけど、人間側に過失があるから動物の命が優先できて良かった!」という人がいれば、心より敬意を払う。
質は大きくことなるが、人間は人間の生存を保つために動植物の命を摂取させて頂いている。これを仏教では「業」と言う。しかし、魚や動物を摂取することを当たり前と思わず、魚や動物によって生きさせてもらっている感謝を忘れてはならない。
今回のゴリラの件とは比較してはならぬが、やはりブログ主の個人的意見としては、ゴリラが気の毒であることは当たり前、でも人間の命を優先させるべきなので、射殺の措置は間違っているとは言えないという結論だ。
麻酔銃を使用すれば良かったのでは?との声も多く上がっているようだ。しかし、あんな大型の動物に対しては効果が現れるまでに時間を要すと思うし、麻酔銃の痛みでゴリラに火が付き、子どもに危害を加えると・・・。総合的に加味し、やはりやむを得ない行動だったと思う。
保証がどうとか、親の責任がどうとか、後で良いではないか。子どもが無事保護されたことを素直に喜べないヤフコメ民、やっぱ感覚がずれている。
そう言うと、またぞろ「ゴリラの命はどうなるんだ」「人間のエゴは~~」と反論がありそうだが、「子どもが助かってよかった」「ゴリラは本当に気の毒で、人間の犠牲になってくれて申し訳無い、ありがとう」というブログ主(俺)の根底の考えが覆ることはない。